第七章
野球を辞めた俺は、西横部品の首都圏西部支店に配属された。西部支店の営業部営業四課の会社員となったのは、俺が三十一歳になったばかりの頃だった。営業四課には係長と俺の二人しかいなかった。花形の営業一課や二課がそれぞれ二十人近くも社員がいる中で、四課はただの二人しか配置されていなかった。しばらくしてからわかったことだが、それもそのはずで、花形の一課と二課が大手主要顧客を相手にしているのに対し、四課は新規顧客開拓という名のもとに最近新設された組織で、いまだたいした売り上げもなく、ほとんど会社の業績には貢献していなかったからである。実際、一課の売り上げの千分の一にも満たない売り上げしか四課にはなかった。これは廊下での立ち話で一課の連中が教えてくれたことだが、西横部品の業績が右肩下がりになって、自動車メーカー向け以外の新規商品を開発しなければならない、自動車メーカー以外に販路を開拓しなければならないというトップの方針で、新たに四課のような組織が各地で新設されたとのことだった。本社の研究開発部門の一部が新規商品の開発に割り当てられ、全国の営業支店でも一部の人員が割り当てられた。しかし、力の入れようはそれぞれの支店でまちまちだった。大手顧客を持たない支店では新規の顧客開拓にかなりのリソースを割いたようだが、うちの支店は大手の顧客を抱えていたことから、お付き合い程度に組織を新設しただけだった。仮にそのような新規顧客を見つけたところで、新規の商材のボリュームがいきなり大きくなるわけがない。そんなところに力を入れるぐらいなら、少しでも足繁く既存の大手顧客を回ったほうが楽に売り上げを増やすことができることぐらい、営業メンバーの誰もがわかっていた。
営業四課の課長は営業部の村西部長が兼務していた。係長は白井という名の四十代半ばのひどく猫背の人で、俺が言うのも何だが、実に存在感の薄い人だった。いつもくたびれたスーツでズボンの折り目すらきちんとしていない。ネクタイも赤のストライプか同じ柄の青いものしか見たことがなかった。俺も身だしなみにはとんと執着がなかったが、俺が気にしなくても美香が気を遣ってくれていたから、白井係長よりはもう少しましな格好をしていたと思う。
かたや村西部長は、出世欲の塊というのか、上昇志向剥き出しというのか、常にエネルギッシュな人で、五十代というのに五つほどは歳が若く見えるエリート社員のようだった。
俺はもともとこの会社に仕事がしたくて入社したわけではない。野球ができればどこでもよかったのだ。そして、野球を辞め数カ月が経っていたにもかかわらず、いまだ心の整理はついていなかった。野球を諦めた以上、これからは一人の会社員として第二の人生を歩んでいかなければならない。そんなことは誰かに言われなくても十分わかっていた。美香のためにも自分がしっかりしなければならない。しかし、気持ちの整理がつくにはもうしばらくの時間が必要だった。肩を壊し、野球部が廃部となり、わけのわからぬうちにこの部署で働くことになってしまったのだ。「野球に対する未練はない」と言えば、それは嘘だった。むしろ未練の塊だった。しかし、俺にはわかっていた。俺が野球に固執し続けている理由は、あの福山の存在だった。福山さえいなければ、俺はもっとあっさり野球のことを忘れることができたに違いない。福山は今もプロの世界で輝き続けている。毎シーズン、成績を伸ばし続けている。福山がいる限り、俺には野球を忘れ去ることなど到底できないのだ。
もとより体育会系の人間だから、俺はそんな自分の内心はまったく表に出さなかった。元気で明るい元スポーツマンとして、早く職場に融け込もうと努めてもいた。周囲はほとんどが自分より年上だから、何か言われれば大きな声で快活に返事をした。仕事を覚えるのは遅かったが、もともと野球部だということは周囲のみんながわかってくれていたせいで、少々のことは大目に見てくれた。わずか一枚の資料を作成するのに、どれほどパソコンと格闘したことか。ワードも覚束ないのに、エクセルの表計算やパワーポイントなどは当初ちんぷんかんぷんだった。しかし、白井係長はいわゆる切れ者ではないものの、実に面倒見のよい優しい上司だった。俺が困っていれば自分の手を止めてでも時間を割いて丁寧に教えてくれた。
ただ、白井係長は実に世渡り下手だった。村西部長からはよく罵倒されていた。村西部長の叱り方はときに異常とも思える剣幕だった。机を何度も叩きながら、ときには説教が二時間以上も続いた。その間、白井係長は直立不動の姿勢を余儀なくされたが、一言も反論しなかった。そんなときは、部内の全員が見て見ぬ振りで、用事もないのにそそくさと外回りに出かける者も多かった。
「君みたいな部下がいるから私の成績が上がらないんだ。私が昇進できなかったら君のせいだからな」
村西部長は自分の出世欲を周囲に隠すことすらしなかった。
「自分はもっともっと上に行くつもりだ。それだけの能力が私にはある。それを邪魔するのは誰だ。部下である君じゃないか」
プライドの高い村西部長はそういう言葉をたびたび口にした。そして、妙に権威主義的なところがあり、他部署からの仕事の依頼を直接部下が受けることは許さなかった。
「私が営業部の部長だ。うちの部下を勝手に使われては困る。他部署からの依頼は必ず私を通させろ。お前たちは私の指示以外は一切聞かなくてよい。いいか、お前たちの上司はこの私だぞ。お前たちの評価や査定をしているのはこの私だということを決して忘れるな」
村西部長がそんな大声を出すのも珍しいことではなかった。
加えて、他部署に対して自分の目を通さずに何かの資料を勝手に提出しようものなら、村西部長はさらに激怒した。
「なぜ勝手に私の許可もなくこんな資料を経理部に出すんだ。これでは営業部が計画を達成できないと自ら言っているようなものじゃないか。経理部からそのまま社長にでも上がったらどうするつもりだ? わが営業部はどんなことがあっても販売計画は達成する。こんな資料は私の認めた正式な数字ではない。すぐに経理部に行って訂正しろ。もし本当に計画が達成できる見込みがないのなら、お前が個人で責任を取れ。それとも何か? お前が自分の財布でわが社の商品を購入するつもりか? お前の持ち金なんかでカバーできるような数字じゃないだろ」
西横部品は自動車メーカーに部品を納める事業を行っている。個人消費向けのセット商品をつくっている会社ではない。販売計画が達成できないからといって、個人で足りない分を購入して販売を上げるなどということができないことは百も承知のはずである。しかし、村西部長の剣幕がいつもものすごいものだから、誰も表立っては反論しない。村西部長は反論するタイミングすら与えない。会社員駆け出しの俺は、その当時は会社という組織ではそれが普通のことだと思っていた。子どもの頃から体育会系の上下関係に慣れていた俺には、それほどの違和感はなかったからである。少年野球の監督も、中学、高校、そして大学の野球部の監督も、程度の差こそあれ似たようなものだった。唯一、社会人のときだけは、あの若い監督がエースの俺に気を遣うような喋り方だった。
しかし、どこの世界にも怒られやすい者とそうでない者とが存在する。いじめられやすい者とそうでない者とがいるのだ。野球部にも怒られ役というものが存在した。この営業部の中では、特にいつも標的にされるのが白井係長だった。
「申し訳ございません」
白井係長はどんなに怒られようと、ただそう繰り返すのみで、誰にも愚痴一つこぼすことはなかった。俺は白井係長の部下である以上、係長が怒鳴られているのを見るのは辛かった。いっそのこと、俺のほうを叱ってくれたほうがいいとすら思った。しかし、俺のような駆け出しの若僧を村西部長が直接叱りつけることはなかったし、何を言っても無知な私には響かないこともわかっていたのだろう。
ある日、俺は白井係長といっしょに外回りに出かけることになった。四月初めのことだった。取引が成立する見込みはほとんどなかったが、自動車メーカー以外に販路を開拓する必要があった。それが営業四課のミッションだった。ある機械組み立てメーカーの資材部にアポイントが取れ、売り込みを図る予定だった。
最寄り駅に早めに着き過ぎたため、顧客の本社ビルの近くで時間を潰すことになった。昭和を感じる喫茶店の中に入ると、白井係長が重そうなコートを脱ぎ、疲れた様子で首をぐるぐると回した。私のほうは少し寒いのを我慢しながら、四月に入ってからはコートなしで出勤していた。白井係長はホットコーヒーを、俺はアイスコーヒーを頼んだ。紅いベルベットのソファの角が破れ、中からスポンジが覗いていた。
白井係長は喫茶店の前の通りに整然と植えられた桜の一本一本を穏やかな表情で眺めていた。桜の花は散り始め、代わって枝先にはもう若葉が顔を出していた。淡いピンクの花びらとみずみずしい緑の色が交錯して騒がしい景色になっていた。
二人はしばらく黙っていたが、その沈黙に居心地の悪くなった俺は思い切って白井係長に訊ねてみた。
「白井係長はいつも村西部長にやられてますよね?」
白井係長は不思議そうな顔をして俺のほうを振り向いた。
「いつも村西部長は白井係長ばかり責めるじゃないですか。どうしてたまには村西部長に反論しないんですか? 必ずしも村西部長の言っていることが正しいとは思えませんよ。誰が聞いても筋の通らないことを部下に押し付けているとしか思えないことだって多いじゃないですか。それなのになぜ白井係長はいつも黙ってばかりなんです? これっておかしくないですか?」
白井係長の視線は、また窓の外の桜に向けられた。
「桜が咲いたねえ、今年も」
少し間を置いてから、白井係長は目を細くしながらそう言った。細くなった目が笑っているようにも見えた。
「ねえ、係長。桜の話をしているんではなくて、私は村西部長のああいう態度が………」
「そして、今年も桜は散っていく」
白井係長は俺の言葉を遮ってそう言った。そして、ゆっくりと振り向き、真顔で俺のことをまじまじと見つめた。
「ねえ、仙道君。君は桜が好きかね?」
「桜? それは日本人である以上嫌いではないですけど………」
「そうか。それはよかった」
そう短く言うと、白井係長はまた窓の外に視線をやった。春特有の強い風で、桜の木は時折大きく揺れた。
「なぜ、桜は毎年この時期になると忘れずに咲くんだろうね? 春になると桜は必ず咲く。一年に一度のことなのに、決して桜はそのことを忘れない。誰に教えられたわけでもないのに。そう考えると桜のことが立派に思えてくる。人間なんかよりずっと偉く思えてくる。仙道君はそうは思わないかい?」
白井係長がテーブルにコーヒーカップを置くと、甲高い音が響いた。
「私なんて部長に何を言われようがすぐに忘れてしまうんだがね。その点、桜は立派だ。実に勤勉で、どこまでも真面目だ。決して大事なことを忘れない」
俺は苛立ちを覚えた。俺のストローには歯型がくっきりと残っていた。白井係長はそれ以上何も語らなかった。安らかな表情で桜を眺め続けるばかりだった。
そういえばこの前だって酷かった。
「一週間をめどに資料をまとめてくれ」
村西部長は確かにそう言った。ところが翌朝になるとこう言った。
「なぜまだできていないんだ。君は仕事がそもそも遅過ぎる」
どうして「一週間後って言ったじゃないですか?」と言い返さないのだろう。その後延々と一時間も白井係長は怒鳴られ続けていた。それでも白井係長はただ「申し訳ございません」と繰り返すばかりだった。村西部長の大きなデスクの前でずっと立たされていた白井係長は、席に戻ってくると罰の悪そうな顔で俺に言った。
「仙道君、見苦しいところをお見せして申し訳ない」
俺は半分呆れ顔で言った。
「いえ、大変でしたね。でも、白井係長が仕事が遅いだなんて思ったことはありませんよ」
白井係長は力なく笑った。
「まあ、それはそれでいいじゃないか。私はそもそものろまなんだ。要領も悪い。時間がかかる割には成果も出ない。部長から怒られても当然なんだ。私がもしもっと仕事のできる男だったら、もうとっくに課長にでもなってるだろうさ」
確かに白井係長の同期はほとんどがすでに課長に昇進していた。しかし、白井係長の言葉には、不平の混じったようなニュアンスはまったく感じられなかった。
もちろん俺は村西部長のことを好きにはなれなかった。部下の手柄は自分の手柄、自分の失敗は部下の失敗。とても人間的に尊敬などできなかった。しかし、営業二課の桜井課長がある日俺にこう言った。
「ああいう人も必要なんだよ、世の中には。ああいう人がいないと会社は成り立っていかない面もあるんだ。もし会社の中に聖人君子みたいな人間しかいなかったらどうなる? 上昇志向が強くて、強引と言われようが推進力に溢れていて、多少周囲と摩擦を起こしながらも引っ張っていくような人間がいないと所詮会社なんて成り立たない」
俺は黙り込んだ。
「会社という組織の中では、村西部長のような人間ほど貴重なんだ。確かに村西部長は出世にしか興味がない。それがあの人の価値観なんだ。だから、あそこまで執着することができる。しかし、そんな生き方を誰が非難できるんだい? 価値観の多様性を認めるならああいう価値観も認めなきゃ。あの人は周りからどう思われようがいいのさ。ああいう生き方で幸せなんだから」
桜井課長が村西部長の価値観を褒めているのかけなしているのか俺にはよくわからなかった。ただ、その頃の俺は「そういうものかな」ぐらいにしか考えなかった。所詮は自分とは無関係な世界でしかないと思っていた。野球部上がりの俺のような者には知る必要もないと思っていた。




