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濁流  作者: 亜蘭
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第六章

 その後の数年間、俺の成績はさっぱり上がらなかった。時には完封勝利を収めることもあったが、初回に打ち込まれ早々にベンチに下がることもあった。勝ったり負けたりという安定感のないピッチングが続き、そのうちに自分自身の向上心すら薄れてしまった。

 所詮は偶然なのだ。たまたまの結果なのだ。俺は自己弁護するのではなく、次第に本当にそう信じ始めていた。単に自分がコントロールミスしたから打たれただけじゃないか。ほんの少し手元が狂い、外角低めに決めるべきカーブが肩口から入ってしまっただけじゃないか。打者が変化球にヤマを張っていたときに、半速球の変化球を投げてしまっただけのことだ。手が出ず見送ったフォークが低めに外れて四球が続いただけではないか。

 プロの世界という目標も次第に現実味のない色褪せたものとなり、何のために野球を続けているのかさえ俺はわからなくなっていた。惰性で野球を続けているのが自分でもわかっていた。ただ漫然とキャッチボールをし、決められた球数のピッチング練習をこなしていく。それでその日が終わる。毎日の決められた練習をただ消化していく。それでも、このチームの中では俺は相変わらずエースの位置づけにいる。自分がまったく努力をしなくても、俺の座を脅かす投手などこのチームには現れてこないのだ。

 俺が三十歳を迎えようとしていた春のことだった。いつものように投球練習を始めた直後、右肩に強烈な違和感を覚えた。それでも気にせず二、三球は続けて投げたのだが、すぐに肩が上がらなくなってしまった。大事を取ってその日は投球練習を休むことにしたが、翌日になっても状態は変わらなかった。そして、次第に痛みは強くなっていった。

 病院を受診したが、骨には特に異常はなかった。

「一、二週間も休めば大丈夫でしょう」

 若い医者は軽い口調でそう言った。

 俺は晴れて練習をサボる口実を得たわけだが、寮にいてもすることもなく、しかし会社の勤務時間中や野球部の練習時間中に外出するのは気が引けた。結局は寮の中で無駄に時間を過ごすしかなかった。自分にそんな律儀な面があるというのは新たな発見だった。自分自身驚きでもあった。

 そういえば、この歳になるまで怪我らしい怪我はしたことがなかった。連投すれば肩や肘に鈍い重さが残ることはあっても、骨や筋、筋肉を痛めたことは一度もなかった。道城大学時代、俺が三年生の時、甲子園の準決勝進出を果たした投手が鳴り物入りでチームに加わった。福山の次を争う俺のライバルになるかもしれない有力な投手だった。ところが、これから暑い夏になろうかというその前に、その投手は肘を壊した。それでも翌年には治って活躍するだろうと監督も選手も期待していた。しかし、その年の年末、その新入部員は一人静かに寮を去って行った。練習から帰って来ると、俺の部屋の二つ隣だったその男の部屋の布団はすでに片付けられ、二人部屋の右半分だけに虚ろなスペースだけが残されていた。突然であっけない終わり方だった。

 それから二、三週間が経ったが、俺の肩の痛みはいっこうに変わらなかった。さすがに焦った俺は大きな病院で精密検査も受けたのだが、それでも原因ははっきりとはわからなかった。原因がわからなければ治療法もわかるはずがない。

「しかし、小さな頃からずっと肩を酷使してきたわけでしょう。疲労が蓄積されていたっておかしくはない。とにかく今は肩をしっかり休めて様子を見てください」

 無精髭に白いものが混じった紳士風の医者がそう言った。多くのスポーツ選手を診てきた権威ある医者だった。これがあの福山だったら、こんなふうに簡単に片づけるのだろうか?

「因みに、投球練習以外の練習はしてもかまわないんでしょうか?」

「それは別にかまいませんよ。右肩以外を使う練習なのであれば」

 そう言われてしまっては仕方がない。俺は翌日からグラウンドに出て軽いランニング練習を始めた。チームメイトや監督も歓迎してくれたが、もともと俺は全体練習を離れて個人練習をすることが許されていたから、チームの雰囲気に影響を与えることもなかった。一歩下がった立場で眺めると、それまで見えていなかったことが見えてくることもある。みんな一所懸命に練習に取り組んではいるが、ただ練習をしているだけだ。グラウンドを三周して柔軟運動、キャッチボールからティーバッティング、マシンを使った打撃練習、ノックが終われば個人練習になるが、筋トレする奴もいれば素振りに励む奴もいる。もちろん、ときどき挟殺プレーや走塁練習といったチームプレーの練習が加わることもある。投手陣は数日に一度ブルペンに入り、ワインドアップで気持ちよく投げることもあれば、ランナーを置いた場面を想定してセットポジションからの投球を行うこともある。場合によっては打撃練習のマシンの代わりを務めたりもする。しかし、何か課題意識を持って自分の長所を伸ばそうとしたり、あるいは短所を改善しようとしたりというよりも、ただ漫然と練習をこなしているだけではないのか? まさに練習のための練習ではないか? 弱いチームというものはこういう練習を繰り返しているのかもしれない。目標もなく競争もなく向上心もない。一日の練習が終われば、ただその日の疲労感に自己満足する。練習をしたような気分になる。でも、それでは駄目なのだ。何も変わっていないし、よくて現状維持を続けているだけなのだ。

 それからというもの、俺は満足にボールを握ることもできなくなってしまった。握力がなくなり、病院とリハビリに明け暮れる生活となった。それが俺の生活パターンとなり、それに慣れてしまうとそれでも仕方ないとすら考えるようになった。俺はあまり悲観的にもならず、焦りすら感じなくなっていた。怪我が回復しない不安よりも、むしろ三十歳という嫌でも引退という二文字を思い浮かべざるを得ない年齢を迎えてしまったほうに恐れを感じていた。

 福山のほうは、すでに最多勝を獲得するなど、プロの世界でもその地位を確固たるものとしていた。今や自他ともに認める日本球界のエースにまで成長していた。福山が登板する日は熱心にテレビ観戦していた俺だったが、その頃にはもうすっかり関心を失っていた。いくら相手打線を応援しようが、福山の球はまったく打てなかった。そのうち、相手チームの応援にも疲れてきた。そして、翌日の朝刊で福山の快投を初めて知ることすら多くなっていた。福山ならそれぐらいのピッチングをすることは当たり前なのだ。

 その年の都市対抗の予選にも俺は出場できなかった。俺が西横部品に入ってからこれまでの間、都市対抗の本選に進むことは一度もなかった。俺が入部して二年目の年にあと一歩というところまでいったことはあったが、大一番の試合で俺の乱調がそのチャンスをぶち壊してしまった。それまで絶好調だった俺は、自分が登板した試合ですべて勝ち投手になった。この分なら、プロのスカウト陣の目にも留まるはずだと自惚れていた。しかし、あと一勝という大一番で、二回途中までに五つの四球、被安打四という大失態を演じてしまった。おそらく知らず知らずのうちに力んでいたのだろうが、どの変化球も制球が定まらない。ストライクが取れるのはストレートのみ。そのストレートも連投の疲れかキレはなく、真ん中付近に集まったところを狙い撃ちされてしまった。せっかくスカウト陣からも少しは注目されていたはずのところを自滅してしまった格好だった。

 俺が投げられない今年の都市対抗予選もあっさりと敗退が決まった。俺の肩はいっこうによくなる気配はなかった。予選に破れた翌日、チームの全員が練習前の時間に呼び出された。リハビリ中の俺もそのミーティングに参加した。年に数回しか顔を見せることのない下っ腹の突き出た野球部長がその場に立っていることに気づいた選手たちは、このミーティングがただならぬものであることをすぐに直感した。

 野球部長の口から説明されたのは、今年をもって野球部を廃部するというものだった。世の中は不況の真っ只中にあった。西横部品の業績も右肩下がりの状態が続いていた。野球部も都市対抗に出場すらできず、有望な新人選手も集められない状況が続いていた。強いチームには有力選手が集まる。弱いチームは敬遠される。西横部品野球部は完全に負のスパイラルに入っていた。そういう状況を冷静に踏まえて考えれば、廃部になるということも自然の流れのように思えた。

「やっぱりこうなりましたね」

 郡司が他人事のようにそう呟いた。

 しかし、会社が赤字に転落したわけではない。それぐらいのことは社内報で知っている。業績低迷によりコスト削減が必要なのはそのとおりだろうが、廃部に至るような危機的な状況ではないはずだった。実際には、コスト削減効果よりも勝てない野球部を持ち続ける意味が会社になくなったということなのだろう。都市対抗にも出られない状況が何年も続けば、会社にとっては広報的価値もない。

 部長に続いて監督が強張った表情で説明を始めた。

「こうなってしまったのは、すべて監督である私に責任がある」

 監督の第一声には違和感があった。監督一人で全責任を負えるものではない。監督が何をしたというのだ。チームを強くすることを何一つしなかったのは事実だが、選手の邪魔をしたわけでもない。何もしなかっただけのことだ。

「選手の諸君には何の責任もない。今後は西横部品野球部に一時でも所属していたことを誇りにして、新たな人生をそれぞれに踏み出して行ってほしい」

 監督の話を聞いて、部室には嗚咽があちこちで漏れた。しかしながら、俺はただ呆然と立ち尽くすだけで涙など流れてはこなかった。今になって悲しんだり悔しがったりするくらいなら、なぜもっと真面目に練習に打ち込まなかったんだ。俺も含めてその代償を払わされただけだろう。

 それから一週間かけて、監督と選手との個人面談が始まった。別の会社で野球を続けたいのか、この際野球は辞めて会社での勤務を希望するのか、それともこの機会に田舎にでも帰る決断をするのか、選手各人の意思を確認するための面談だった。考えてみれば、廃部になっても勤務を継続するという選択肢が用意されているだけでも温情のある会社だったと言えよう。しかし、ここにいるのは野球しかしてこなかった連中ばかりだ。仕事ができるとはとても思えない。できるようになるとしても、それなりの時間もかかるだろう。会社に残ることが必ずしもいい選択とは限らない。一方で、野球を続けたいという選手には、他の社会人野球のチームが紹介されることになっていた。ただし、紹介されたからといって、必ず入部できる保証はどこにもなかった。他社のテストを受け、それにパスしなければ野球を続けることはできない。仮にパスしたところで、西横部品のレベルの選手がレギュラーになれる可能性は極めて低い。厳しい関門であることはわかりつつも、多くの若手選手たちが微かな望みに賭けて西横部品を去って行った。

 監督と俺の面談は、実に淡々としたものだった。俺の顔を真正面から見ることを避けるように、若い監督は言い出しにくそうに話を切り出した。

「仙道はどうするつもりだ? お前は肩を壊しているし、それに歳ももう三十だ。正直このままでは厳しい。この際野球とはすっぱり縁を切って、この会社で第二の人生を始めてみたらどうだ? それとも、この機会に何か別の選択をするつもりか?」

 監督の頭の中には、俺の現役継続や怪我からの復活などという考えは微塵もなかった。

「私が期待されたような活躍をできなかったものだから、野球部が廃部にまでなってしまいました。監督や仲間たちには大変申し訳ないことをしてしまいました」

 俺がなぜそんなことを口にしたのか自分でもよくわからない。単に監督から「いや、お前ならまだできる」という否定の言葉を聞きたかっただけなのか、それとも格好をつけたかったからなのか。いずれにせよ、それは俺の本心からの言葉ではなかった。押し黙る監督の渋い表情を横目に見ながら、なぜだか涙が止まらなかった。廃部が決まって以降、それが初めて涙を流した瞬間だった。

 俺には大学時代から付き合っている彼女がいた。名前は美香という。もう十年近く付き合っていたが、いっこうに結婚というような話にはならなかった。というか、俺がそうしてこなかった。美香と一緒になりたくないわけではなかったが、俺は一人前になってから美香を迎えに行きたいと考えていた。一人前になるというのは、もちろん野球の世界で成功するという意味だった。しかし、今やそういう道もすっかり閉ざされてしまった。

 俺は野球を辞めることを美香に告げた。

「できることはすべてやった上でこうなったんだから、それはそれで仕方がないじゃない。何も恥じることはないし、これからまた別の道で頑張ればいいだけのことよ」

 美香の優しい言葉は俺を安堵させたものの、一方で屈辱感をさらに増幅した。そして、俺はこの先どうすればいいのか、さらにわからなくなった。

 それでも時間だけは過ぎて行く。俺の混乱する頭を置き去りにしたまま、容赦なく時間は流れて行く。俺はほどなく会社で継続勤務することを決めた。決めたというより、何も考えないうちにそういう流れに乗ってしまったというほうが正しいだろう。監督が会社の人事部に俺が会社に残りたいという意向である旨を伝え、配属先が決まり、いつどこに出社せよとの連絡が勝手に届いた。それを断ることもできず、ただ傍観しているうちに、第二の人生のレールが俺の意思とは無関係に敷かれていた。

 ほどなく美香とも結婚した。結婚については、仕事とは違って俺の明確な意思だった。野球を辞めた俺から美香が去って行くんじゃないかと俺は密かに恐れていた。だが、そうなっても仕方ないとも思っていた。将来はプロ野球選手の妻になることを美香はずっと夢見ていて、その道が閉ざされた俺に男としての魅力はもはやないと考えているんじゃないかと思っていた。しかし、実際にはそうではなかった。美香は相変わらず俺の傍にいちばん身近な存在として寄り添ってくれていた。俺にはそれが不思議だった。そんな健気な美香のことが愛おしくもあり哀しくもあった。そんな女にしてしまったのは俺の責任だと思った。野球という人生の大きな目標を見失った今、俺は何を目指して生きていけばいいのかわからなかった。野球に代わる何か大切なものが欲しかった。それが美香という女性に向かっただけのことだったのかもしれない。自分は美香を本当に愛していたのだろうか? 単に野球以外にすがることのできる何かが欲しかっただけじゃないんだろうか? そんな不純な動機で結婚していいんだろうか? でも、俺は抗うことのできない大きな流れに身を委ねることしかできなかった。いや、できなかったのではなく、流されることを自ら選んだのだ。

 時折美香と目を合わせるたびに、俺はうつむくしかなかった。申し訳ない気持ちでいっぱいになり、美香を真っ直ぐに見つめることができなかった。しかし、自己嫌悪に陥るそんな俺の気持ちを知ってか知らずか、美香はこれまでと何ら変わらぬ笑顔を俺に向け続けてくれた。美香の痩せた細い腕が妙に悲しかった。

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