第十章
俺が係長に昇進したのは、その一年後のことだった。係長といっても、相変わらず部下は一人もいない。これまでどおり、営業四課は明山課長と俺の二人だけのままだった。明山課長と俺の間はその後もうまくいっていた。課長の判断や指示は相変わらず的確そのもので、俺は自分で考える必要がほとんどなかった。上司の言うことに従っていればいい、会社とはそういうものだと思っていた。野球だってそうだ。監督が一球待てとサインを出せば、どんなに打ちたくても、たとえど真ん中に打ちごろのストレートが来ても見逃さざるを得ない。送りバントと言われれば、打つ自信があっても走者を送らなければならない。
「ダメもとでこの会社行ってみるか」
そんなときの明山課長の勘はなぜか当たる。小さい金額ながらも取引までつながることが多かった。だが、それもおそらく勘なんかではなかったのだろう。明山課長なりの緻密な分析から導き出されたまさに正解だったに違いない。
一課のある社員が俺に教えてくれた。
「係長昇進おめでとう。君の昇進には、明山課長がかなり尽力してくれたようだよ」
「尽力?」
「そうさ。明山課長が上のほうにかなり働きかけてくれたらしい。後でお礼の挨拶でもしておけよ」
いまだに俺は会社という組織には無知だった。俺は昇進にそれほど興味はなかった。年齢か勤続年数で決まるものとばかり思っていた。年齢だけで見ると俺もそれなりの年齢にはなっていたが、何しろ俺は野球部上がりだ。俺みたいな奴はその例外だと思っていた。しかし、上司の尽力でそういうことは決まっていくものなのか? 尽力する上司としない上司、そんなことで部下の昇進するかしないかが決まるのか?
俺が営業四課で働き始めてから四回目の春が訪れようとしていた。三月に入ってもまだまだコートは手放せなかった。その年度末のある日、村西部長の異動が突然発表された。本社の営業本部長への栄転だった。西部支店の社員はみんな驚いた。陰では毎日その噂話で持ち切りになった。
「あの村西部長が本社の営業本部長? 本社はいったい何を考えてるんだ? これでうちの会社も終わりだな」
「でも、村西部長、本社に行ったときはまるで別人だからな。急に愛想がよくなって、自己PRだけは上手だから。それを見抜けない本社も本社だ。本社もたいしたことねえな」
一方で、村西部長の異動を歓迎する声も聞かれた。
「やっと村西部長と顔を合わせなくても済むようになるかと思うとほっとする。早くその日が来てほしいもんだ」
「いや、これはむしろチャンスじゃないか? 今のうちに村西部長に媚びを売っておけば、俺もいつか本社に引き上げてもらえるかもしれないし」
村西部長の直接の被害をあまり受けてこなかった俺はそんな噂話にもあまり関心を持たなかったが、それでも次に着任する営業部長には興味があった。
異動までの三週間、村西部長は極めて上機嫌だった。営業本部長の仕事の引継ぎのためと称して毎日のように熱心に本社に通っていた。すでに西部支店に来る日のほうが少ないぐらいになっていた。時折職場に戻ってきては、今の営業本部長がいかに仕事をしていないか、自分がやればどれだけ営業成績を伸ばせるか、そして自分の責任と権限がいかに大きいかを吹聴して回った。
やがて村西部長の異動日がやって来た。終業時刻に西部支店の全員が集まり、盛大なお見送りもした。花束を受け取った村西部長は満面の笑みでタクシーに乗り込んだ。明山課長以外の一課から三課の課長も同じタクシーに乗り込んだ。これから課長以上のメンバーだけで最後の送別会にでも繰り出すのだろう。明山課長だけは顧客のところに行っていて、その日の午後は不在だった。俺は何か言われるのではないかと内心冷や冷やしていたが、誰も何も言わなかった。
村西部長が実際にいなくなると、営業部は急に静かになった。新しく着任した営業部長は本田部長といった。えらの張った痩せぎすの体格で、村西部長とは正反対のような性格だった。実に物静かで細かなことには一切口出ししなかった。部下である俺たちは、裁量性を認めてくれることはありがたいと思ったものの、本当にこのままこの仕事を進めてしまっていいものかと、ときどき不安になることもあった。それでも慣れというものは恐ろしい。いつしかそれが自然なものになっていく。営業部のカラーはもともとこうだったと思えるようになっていく。トップの色は組織全体に滲み込んでいくものだ。




