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濁流  作者: 亜蘭
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第十一章

 部長が交代してから一年ぐらいが経った頃、俺の私生活にはある変化が生まれた。俺に長男が誕生したのである。産婦人科で看護師に抱かれたわが子を初めて見せられたとき、俺はなぜか子どもの足の指を真剣に数えていた。右足にも、そして左足にもそれぞれ指はちゃんと五本ずつあった。生まれたばかりのわが子は、お世辞にもかわいいとは言えなかった。人間の子どもというよりは、猿の赤ん坊のように見えた。それでも美香はたいそう喜び、わが子を大事に抱きかかえた。美香のわが子に向ける眼差しを見たとき、これが母性というものかと俺は改めて驚かされた。

 俺は子どもの名前を「雅志」と名づけた。男の子なら俺が、女の子なら妻が名前を付けるとあらかじめ決めていた。「雅志」という名前に美香は何の文句も言わなかったが、なぜ「雅志」なのかとしつこく訊いてきた。

「俺の名前の『清志』から一文字取ったんだよ」

 俺は簡単にそう答えた。それはそうだったのだが、「雅志」の「雅」は福山の「雅夫」から取ったものだった。そんなことは誰にも言わなかったが、男の名前としてはそれほど珍しい名前でもなかったから、誰も勘繰ったりはしなかった。

 いつまで経っても、俺は福山のことを忘れることはできなかった。俺はそう自嘲しつつも、わが子にだけは少しでも福山に近づいてほしいとも思っていた。いくら俺が福山のことを忘れようとしても、世間はそうすることを許してくれなかった。福山の活躍はあらゆるメディアを通じて報道されていた。会社から夜遅く帰ってテレビのスイッチを点けると、スポーツニュースでは福山の快投ぶりを詳しく伝えていた。

「福山の防御率はとうとう一点台になりましたね。シーズン後半に入ってこの防御率は驚異的です」

 今夜も一失点、散発四安打の完投か。大学時代もすごかったが、プロに入ってからさらに成長したな。しかし、投球スタイルは何も変わっちゃいない。持ち球が増えたわけでもない。プロの打者がなぜ打てないのか? 初対戦ならともかく、もう何度も対戦してボールの軌道もわかっているだろうし、スタッフが分析もしているはずだ。なのになぜ?

 朝の疲れた身体を引きずりつつ、睡眠不足の目を擦りながら満員電車に乗り込むと、隣の中年男のスポーツ新聞が目に入ってくる。スポーツ新聞の一面には、ガッツポーズの福山が大きく写し出されていた。どこか遠い外国で起きている出来事のような気がした。福山は俺と同じ世界には生きていない。いや、福山の住んでいる世界に俺が含まれていないというべきだろうか?

 雅志が生まれて数カ月が経つと、少しずつ雅志は人間らしくなり、その寝顔がかわいいと俺にも思えるようになった。しかし、それと同時に、俺は雅志の将来について不安を覚えるようになった。この子も俺と同じように、いずれは深い失望を覚えるのだろう。それが野球についてなのかどうかはわからないが、自分の人生の目標を見失い、軌道修正することもできないまま残りの人生を惰性で生きていくことになってしまうかもしれない。そうだとすれば、雅志がこの世に生まれてしまったこと自体、この子にとっては不幸なことだったのではないか? そして、この子を誕生させてしまったこの俺は、極めて罪の重いことをしてしまったのではないか?

 しかし、そんなことを深刻に考え続ける余裕は、当時の俺にはなかった。それはそれでよかったのかもしれない。その当時、日本経済は急速に回復に向かっていた。それに比例するように、俺の仕事も忙しくなった。仕事が自分の人生にとって大事だという意識はいまだ持てなかったが、忙しさが俺の気持ちを紛らわせてくれたのも事実である。悩む余裕もないほど、俺の労働時間は長くなっていった。

 ある日、残業を終えて夜遅く帰宅すると、いつものように自宅の入口で美香が俺を出迎えてくれた。

「育児で疲れてるんだから、食事だけテーブルに載せておいてくれれば、先に寝ててくれていいんだよ」

 俺は美香に何度もそう言っていた。

「わかったわ。そうさせてもらいます」

 美香はその度にそう言うのだが、どんなに俺の帰宅が遅くても、美香はいつも俺が帰って来る時間まで起きていた。身体が疲れてくると、精神的にも余裕がなくなってくるのは当然である。俺は美香との会話が次第に面倒くさくなり、一刻も早く布団の中に入ることだけを考えるようになっていた。それが美香にとって不満の原因であることは十分わかっていた。しかし、美香のそうした気持ちを解消してあげられる余裕は当時の俺にはなかった。ときどき美香は俺の気を惹こうとして、わざわざ眠っている雅志を起こし、リビングに連れて来たりもした。もちろんわが子はかわいいには違いなかったが、それでも俺の疲労を拭い去るには至らなかった。

 その日も浮かない顔で俺は夜遅く帰宅した。出迎えてくれた美香の表情は、明らかにいつもとは違っていた。何かを心に決めたような意志の強さが感じられた。ぐずぐずしていると、いつものようにさっさと俺が機械的に食事を済ませ寝てしまうことがわかっていた美香は、恐らく数日かけて心に決めた言葉を切り出したに違いない。

「あなた、本当は何がしたいの?」

「えっ?」

 美香の問いかけは、俺にとっては意表をつくものだった。きっと俺に対する不満をぶちまけるのだろうと想像していたからである。たまには気晴らしにどこか遊びに連れて行けだの、育児にもっと参加してほしいだの、そういう話を覚悟していたのだ。そして、もしそう言われれば、俺は素直に謝ろうとすら考えていた。不満を言われても仕方のない生活パターンを繰り返しているという自覚が俺にもあったからだ。

「今のあなたを見ていると、何だか面白そうには見えないもの。今の会社とは別に、本当は他に何かしたかったことがあるんじゃないの?」

 女性の直感は実に鋭敏だ。美香はすべてを見抜いていた。しかし、いまだ俺にはその答えは見つかっていなかった。

「確かに仕事が忙しくなって疲れてはいるが、だからといって何か他にやりたいことがあるわけじゃないよ」

 俺はそう答えざるを得なかった。

「それで、あなたは面白いの? 満足してるわけ? もし単にお金を稼ぐためだったら………」

 美香はそう言いかけて急に口をつぐんだ。

「仕事なんてもともと面白いものじゃないさ。でも、そうしないと給料はもらえない。一家の大黒柱として家族を養っていかなければならないんだ。この子の将来のこともあるしね。俺だけじゃない。世間の会社員なんてみんなそうだろ」

 雅志は美香の腕の中ですやすやと眠っていた。その寝顔はどんな邪悪なものとも無関係のように見えた。

「それはそうだけど、家族を養うという義務感だけで仕事をしてるんだったら、会社なんて辞めてもかまわないのよ」

「えっ? 会社を辞める?」

「そうよ。お金のことだったら、別に私が働いたっていいんだから」

 美香の言葉には俺を戦慄させる響きがあった。

「いや、そんなことはさせないよ。俺には俺の責任というものがある。君がどうしても働きたいと望むんだったら話は別だが、生活のために働かなければならないという気持ちでそう言ってるんなら、何もそんなことをする必要はないさ」

 美香の表情がいつもの表情に戻っていた。

「いいのよ、私は。あなたがやりたいことをやって生き生きしている姿を見るほうがよっぽど私も楽しいんですもの。一時的には経済的に苦しくなるかもしれないけど、そんなことは何とかなるものよ」

 翌日の通勤電車の中で、俺は車窓からの見慣れた街並みをぼんやりと眺めていた。灰色の殺風景な街。この都会では地平線まで視線を投げてみても山らしきものは見えない。東北の俺の田舎の景色とはまるで違う。俺の頭の中では、昨晩の美香との会話が相変わらずぐるぐると回っていた。

 何の悩みや疑問もなく、ただひたすらグラウンドで白球を追っていた頃の自分が懐かしい。そんな子どもの頃の自分が愛おしい。俺の五感には目のくらむような夏の日射し、汗や土の臭い、蝉の声までが生々しく蘇ってきた。

 満員電車のあちこちで吊り革の軋む音がした。カーブに差し掛かると車両が大きく揺れた。

 なぜ俺は今こんなところにいるのだろう? どうして東京で会社員なんかしているのだろう? 子どもの頃はきらきらした時間を贅沢に過ごしていたが、そのときに俺のこんな運命もすでに決まっていたのだろうか?

 次の駅でさらに多くの乗客が乗り込んできた。誰かが俺の背中を押した。その拍子に右肩が痛んだ。今や右肩が痛もうが関係ない。もう俺は投げなくていいのだから。野球とは無関係なのだから。

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