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濁流  作者: 亜蘭
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第十二章

 それからさらに一年近くが過ぎた。夏の蒸し暑い夜で、時刻はもう十時を過ぎていた。携帯電話の画面に表示された「相田」という名前を見たとき、俺は何かの間違いではないかと疑った。相田は道城大学の野球部の正捕手で、卒業以来連絡を取り合ったことはなかった。相田はバッティングこそそれほどでもなかったが、福山の投球を誰よりも熟知していて、福山のいいところを最大限に引き出していた。福山にとっても、配球面で勉強になったところは多かっただろう。福山のいいところはそのまま伸ばし、足りないところはすぐに指摘した。今日の福山があるのは、相田に負うところが大きいと思う。リード面ではそれぐらいのすごい捕手だった。

 もちろん俺とバッテリーを組むことも多かったが、俺の場合は配球がどうのこうのというタイプではなかったから、それほど大きな影響を受けたことはなかった。俺はコントロールのいいピッチャーではなかったから、とにかくアバウトにでもストライクが入るかどうかでその日の調子が決まってしまうことが多かった。そんなタイプのピッチャーは、捕手にとってはリードし甲斐はあまりなかったに違いない。正直、俺は相田のことがあまり好きになれなかった。相田はブルペンで俺の球もよく受けてくれたが、福山の球を受けるときとはどこかが違っていた。「ナイスボール」という声の張りも、福山の球を受けるときとはどこか違っていた。フレーミングの力の入れ具合も違っていたと思う。福山と俺を常に比較し、俺のことを格下扱いしているのではないかと密かに俺は疑っていた。

「仙道か? おい、大変だ。福山がえらいことになったぞ」

 電話の向こうから相田の興奮した声が聞こえてきた。俺は何を言われているのかすぐには理解できなかった。

「相田か? 久しぶりだな。元気にやってるのか?」

 相田は大学卒業と同時に野球に見切りをつけ、どこかの製薬会社に就職したはずだった。その会社には道城大学野球部からの推薦枠があり、相田は首尾よく監督の推薦を取りつけたと聞いていた。

「そんなことはどうでもいいから。それより福山が、福山が大変だ」

「何を言ってるんだ? 福山ってあの福山のことか? あの福山なら一昨日も完投勝利をあげたばかりだろう。今シーズンはこれで何勝目だっけ? 確か防御率はリーグトップだったよな?」

 なかなか事情を理解しない俺に、相田は苛立ちを隠せなかった。

「そうだよ、あの福山のことだよ。俺もさっき電話をもらって知ったばかりなんだが、福山が交通事故に遭って意識不明の重体らしい」

 相田の声は微かに震えていた。

「交通事故だって?」

 俺の頭が急に高速回転を始めた。

「とにかく今から俺は病院に行く。病院の名前と住所を伝えておくから………」

 相田は用件を済ませるとすぐに電話を切った。他にもたくさん連絡しなければならない相手がいるのだろう。長い時間、俺だけに電話をかけているわけにはいかないはずだ。

 携帯電話を握ったまま立ち尽くしている俺に、美香が怪訝そうに声をかけた。

「何かあったの?」

「福山が交通事故に遭ったらしい」

 俺はやっとのことでそう答えた。

「福山って、あのプロ野球の福山投手のこと?」

「そうだ。大学の野球部が一緒だったあの福山だ。その福山が交通事故に遭って意識不明だって。それで、大学の同級生が電話をくれたんだ。福山の運ばれた病院のことを連絡してくれて………」

 美香の表情が強ばった。

「あなた、早く支度をして。急いでその病院に行かなきゃ。そんな格好のままじゃ行けないでしょ」

 美香の行動は素早かった。

 そうか。こういうときは取り急ぎ病院に駆けつけなければならない。そんなことすら俺には思い浮かばなかった。

 急いで身支度した俺が病院に到着したのは、夜中の十一時半ぐらいのことだった。救急病棟のロビーには、すでに何十人もの人が集まっていた。そのうちのほとんどは見知らぬ男たちだった。恐らく球団関係者か何かであろう。しかし、残りの何人かの男たちには見覚えがある。太ったり髪が薄くなったりはしていたが、道城大学野球部OBに間違いなかった。その男たちの輪の真ん中にあの相田が立っていた。

「仙道か、よく来てくれた」

 相田が俺の姿に気づき、沈痛な面持ちでそう言った。

 俺は夢中で相田に話しかけた。

「それで、福山はどうなってるんだ?」

 相田は唇を噛み締め、両手の拳を強く握り締めた。

「亡くなった。詳しいことは何もわからないが、どうやら即死に近い状況だったらしい。首都高速でトラックとぶつかってしまって………。大きなトラックとぶつかってしまっちゃあ、不死鳥福山といえどもさすがに勝てやしないさ」

 相田の顔には、どこにも矛先を向けることができない怒りと無念さが滲んでいた。

 相田の隣にいたのはセカンドを守っていた松山だった。町田がポジション争いで敗れたライバルだった。松山が小さな声で呟いた。

「俺たちの福山が………。俺たちみんなの誇りであるあの福山が………」

 あちこちで小さな啜り泣きの声が漏れ始めた。しかし、俺はただ呆然とその場に立ち尽くすことしかできなかった。あの福山が死んだ? どういうことだ? この世の中に何が起きたというのだ?

 すると、廊下の奥のほうから三人の人影が近づいてきた。それに真っ先に気づいたのは相田だった。初老の男性と美しい品のよい女性、それにまだ幼い女の子だった。

 その女性が相田の姿に気づき深々とお辞儀をした。

「こんな夜遅くに申し訳ございません。わざわざみなさんにこんなにお集まりいただいて、福山もさぞ喜んでいることと思います」

 女性は気丈にそう言った。

「残念です」

 このとき相田の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。俺はそのとき、この女性が福山の奥さんであることに気がついた。隣の初老の男性は福山の父親で、幼い女の子は福山の子どもに違いない。女の子はまだ小学校に入る手前ぐらいの年頃で、あどけなく無邪気な表情をつくっている。その女の子が目を擦りながら母親の上着の裾を引っ張った。

「ママ、ねえ、もうお家に帰ろ」

 女の子にはまだ現実がわかっていないようだった。自分の父親が死んでしまったことを知らされていないのか、それとも知らされてはいても現実のものとしてまだ理解できていないのか。

「そうね。もうお家に帰りましょうね。もう眠いもんね」

 そう言うと、福山の奥さんはもう一度深々とお辞儀をし、病院の出口のほうに向かって行った。背筋の美しい奥さんの姿には、計り知れぬ強さがあり、気高さを纏っていた。

 奥さんの姿が夜の闇の中に消えていくと、相田が口を開いた。

「実に立派な奥さんだ。さすがは福山が惚れただけのことはある。実は、今でも福山のところとは家族ぐるみの付き合いをさせてもらってて………」

 やがて、救急病棟のロビーに集まっていた男たちも三々五々に退散して行った。時計の針が一時を指していた。俺は誰にも挨拶することなく病院の駐車場に向かった。いつの間にか降り出した霧雨がアスファルトを静かに濡らしていた。俺は傘も差さず、しばらくは車の前で立ち尽くしていた。中古で買ったファミリーカーの埃を雨が洗い流していた。こんなとき、自分は何を思えばいい? どう考えればいい? 不思議と何の感情も湧いてこなかった。ただ静かに雨に濡れているのが正しい行動のような気がした。次々に出て行く車のヘッドライトが目に滲んだ。

 翌日の新聞は、どこもかしこも福山の交通事故を大々的に報じていた。球界のエースを悼む記事ばかりだった。トラックの運転手は重傷を負ったが、一命はとりとめたらしい。飲酒運転が原因だった。「野球界の宝に大変なことをしてしまった。謝る言葉もない」と短いコメントを残していた。

 葬儀は近親者だけで執り行われることになったが、後日球団主催でお別れの会が行われることになった。おそらくは大変な人が集まることだろう。しかし、結局俺はお別れの会には出席しなかった。球団関係者やファン、大学時代の仲間たちが大勢出席するだろうが、そんな大人数の中に自分が行ったところで、最後のお別れがゆっくりとできるわけがない。相田のように今でも親密な関係を保っている者なら話は別だろうが、俺は卒業後一度も福山とは会っていないのだ。

 よく考えてみると、大学時代ですら福山と話をしたことは滅多になかった。福山はそうでもなかったのだろうが、俺のほうが勝手に福山のことをライバル視していて、あえて言葉を交わそうとはしなかった。もしあのとき福山からアドバイスでも受けていれば、俺のその後のピッチングは変わっただろうか? 福山の持ち球すべての握りを教えてもらい、コントロールをよくする術を聞き、ピンチのときのメンタルをどう保てばいいかなど聞いておけば、その後の結果は変わっただろうか?

 お別れの会の翌日、通勤電車の中で、俺の隣には吊り革を握りながら器用にスポーツ新聞を折り畳んで熱心に読んでいるいつもの中年男が立っていた。狭いスペースでも、周囲に迷惑にならないように紙面を器用にめくっている。そこには福山を偲ぶ特集記事が掲載されていた。

 福山が死んだという事実を俺はまだ受け入れられずにいた。あのスーパースターがもうこの世にいない。俺の永遠のライバルが死んでしまったのだ。いや、福山のことをライバルだと思うなんてことは傲慢だ。ライバルではなく憧れの存在といったほうが客観的には正しいだろう。いや、福山はライバルだったのだろうか? 憧れだったのだろうか? そうではない。俺にとっては、その存在すら消してしまいたい仇だったのではないか? これまでどれほど福山のことを憎み、そして嫉妬してきたことか。俺に対する注目をかっさらい、俺のプライドを切り刻んできた忘れもしないあの男。「あいつさえいなければ」と何度思ったことか。では、福山の死を俺は喜ぶべきなのか? 俺にはもうわからなかった。その福山がもうこの世にいないなんて………。俺の頭の中では、いろいろな思いがぐるぐると回っていた。

 人間なんて、いつ死んでしまうかわからないものだ。あの福山ですらあっさり死んでしまうんだから。仮に俺が死んでしまっても、せいぜい美香が、そして雅志が悲しむだけのことだろう。あとは田舎の母親ぐらいのものか。実家の父親は俺が大学時代にすでに亡くなったから、あとは東北で一人暮らしをしている母親が悲しむぐらいのものだ。とにかく、俺が死んだって世間には何の影響もない。会社が困るわけでもない。営業四課の仕事など誰でも務まるだろう。社会は何も変わらない。俺はそれぐらいの存在価値なのだ。

 人生は短い。自分だって明日には死んでしまうかもしれないのだ。どうせ短い人生なんだったら、せめて自分がやりたいことをやってから死にたい。世間がどう思おうが関係ない。しかし、自分はいったい何をしたいのか? それすらわからない自分が情けない。俺の心の中は漠然とした焦燥感でいっぱいになった。その気持ちはどこにも向けることができないものだった。

 翌日、俺は夢を見た。自分がプロ野球のマウンドで、優勝を決める大一番に先発し、そして完封勝利を収め胴上げ投手になった夢である。それは、かつて福山が成し遂げたシーンそのままだった。しかし、そういう夢を見ている俺を冷静に横から見ているもう一人の俺が夢の中に存在していた。夢の中だから、自分が二人いてもおかしくはない。こんな経験ができると確約されているのなら、俺はどんな厳しい練習にも耐えられるだろう。たとえ一日中だって、足を引き摺りながらでも自分が最も嫌いなランニング練習にも耐えることができるだろう。そして、その後の人生をすべて棒に振ることになったしてもかまわない。胴上げ投手になれるなら何を失っても結構だ。肩を壊してもう二度と投げられなくなったってどうってことはない。その瞬間のための肩なのだから。俺はきっと即座にそう答えるだろう。一瞬の輝きを得られるのであれば。もしかすると、人生なんてそのためにあるのではないか? ほんのわずかな瞬間のために残りの七十年、八十年があるのではないか?

 電車が大きく揺れた。隣の中年男のスポーツ新聞が俺の頬を覆った。次いで、俺の背中に誰かが全体重を預けてきた。こんなに混んで不快な思いをしているというのに、誰も文句を言わなかった。一言も発することがなかった。

 この電車はいったいどこまで走り続けるのだろう。できることならこんな自分ではないもう一つの世界まで連れて行ってくれ。今いる世界でなければどんなところでもいいから。

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