第十三章
村西営業本部長が営業担当取締役に就任するという発表が行われた。西横部品は基本的に四月と十月に定期異動が行われるが、六月の株主総会の承認が必要な役員人事についても、四月の定期異動に合わせて発表されるのが通例となっていた。その発表は、すぐに西部支店にも伝えられた。まだ村西部長だった時代からここに勤務している者も数多く残っていた。
そして、新しい役員体制が承認された株主総会から数日後、村西取締役が現場ヒアリングと称して西部支店にやって来ることになった。自分の古巣ということもあって、意気揚々と営業部の部屋に入ってくるなり、以前と変わらぬ大きな声で村西取締役が挨拶を始めた。
「諸君、久しぶりだな。やっぱりいいねえ、自分の故郷は」
職場は静まり返った。ただ、それぞれが無言で引きつった愛想笑いを浮かべていた。
そのとき、部屋の隅にひっそりと起立していた俺のことに村西取締役が気づいた。
「やあ、仙道君じゃないか。まだ君はここにいたのかね」
そう言うと、村西取締役はゆっくりと俺のほうに近づいてきた。
「いつまでもこんなところでやっていないで私の下に来ないか? 君には頭脳はないがバイタリティがある。どうだ? 悪いようにはしないぞ」
俺の耳元で村西取締役は誰にも聞こえないようにそう囁いた。
「さあてと、それじゃあみなさんの日頃の活躍をじっくりと聞かせていただこうか」
そう言うと、村西取締役は時間に追われるように会議室に向かって行った。
俺は抑え難い嫌悪感を覚えた。それがどこから来るものなのか、俺にもよくわからなかった。
村西取締役就任から一年が過ぎた。その間に明山課長が異動することになった。古巣の東部支店の営業部長に就任するという栄転だった。
「やっぱり明山課長じゃなきゃ駄目だという判断なんでしょう。さすがですね」
二人きりの送別会で俺は明山課長にビールを注いだ。
「いやあ、また出戻りすることになるとは思わなかったよ」
ネクタイを緩めた明山課長の表情には安堵感のようなものが浮かんでいた。
「でも、西部支店の中じゃ噂ですよ。東部支店の成績が振るわなくなって、やっぱりその原因は明山課長が抜けたからだって。それで元に戻すことになったって。そもそも明山課長が営業四課にいること自体、もったいない配置だったんですよ」
明山課長が冷ややっこの一片を器用に口に運びながら続けた。
「東部支店には十年いたんだが、でもまさかまた戻るとは正直思ってもみなかったよ。でもね、実は西部支店に来るときには少々気持ちが高ぶったんだ」
「えっ、そうなんですか?」
俺は少し意外に思った。
「十年もやってりゃ、もうだいたいのことはわかってしまう。人間関係だけで仕事が回ってしまうようになる。よくないことなんだけどね。そういうことなら誰につなげばいいとか、あの部署に事前に言っておいたほうがいいとかね。そうなってくると、飽きるというかマンネリに陥るというか………。そんなとき異動の辞令を渡された。聞けば新規顧客の開拓が仕事だっていうじゃないか。今までやったことのない仕事で、商品知識もまったくない。会社の中の人間関係も顧客との関係も一からつくり直さなきゃならない。大変そうではあるが何だか新鮮な気持ちになった。極端な言い方かもしれないが、自分が生まれ変わるチャンスかもしれないと思ったんだ。だから、ここに来たことを内心喜んでもいた。ところがだ。今回はまた古巣に戻るということだから、そういうフレッシュな気分にはなかなかなれないんだよ。おおよそのことは今からでも想像できてしまう。おそらく仕事のやり方なんて当時と変わってないだろう。商品のラインナップも大きくは変更されてないようだし、相手にする顧客も同じだ。今からでもだいたいのことはわかる。もしかすると引継ぎなんてものも要らないんじゃないかな」
「へえ、すごいですね。そこまで仕事について熟知されてるんだったら何の心配もいらないですね」
「そこが問題だ」
明山課長が上半身を乗り出した。
「えっ? 問題なんてまったくないじゃないですか」
「何も変わってないとしたら、もし前にいたときと本当に何も変わってないとしたら、それは即ち何の進歩もしてないってことじゃないか」
「まあ、そういう言い方もできないわけじゃないとは思いますけど」
俺にはまだピンと来ていなかった。
「百歩譲って順調なときはそれでいいが、もし不況になったり、競合相手が新技術の商品を出してきたりすれば、あっという間に東部支店の売り上げなんて落ちてしまう。すぐに追随できればまだいいんだが、うちの会社には変化への対応力がないからね」
「………」
「だから、最後にこれだけは言っておくよ。私がいなくなったら、これまでの営業四課のやり方は変えてくれ。今までの方針は否定すべきなんだ。仙道君のやり方にすべて変えてくれればいい。それが営業四課のためになることだ」
「そうはいきませんよ。これまで明山課長のやり方でうまくいってきたんですから」
「それじゃ駄目なんだ。これまではそれでうまくいっていたとしても、会社を取り巻く環境なんて刻々と変わっている。競合相手も違った戦略で攻めてくる。だから、これまでうまくいっていたやり方が今後も通用するなんてことはないんだ」
「とはいっても、何をどう変えたらいいかわかりませんし………」
明山課長が優しい笑顔になった。
「よく考えればできる。いかなる場合でも必ず道はあるさ」
そういえば、仕事に関して俺はよく考えたことなどこれまでになかった。ずっと明山課長の言うとおりに動いてきたし、もっといえばその前は白井係長の言うとおりにやってきた。そこには自分のアイデアや判断はなかった。上司がいなければ何も一人ではできないことを思い知らされた。
そういえば、同期の木島が知ったようなことを言ってたっけ。
「あまり優秀な上司に仕えるのも考えものだよ。一時はそれも勉強になるが、あまり長く続けると自分でものを考えなくなる。だって、上司の言うとおりにやってればそれでうまくいっちゃうから。自分で考えたり判断したりする癖がない奴は、いざその上司がいなくなったら何もできない。かえって部下から判断を求められて困ってしまうなんてことになるんだ。むしろ優柔不断で、単に部下の担ぐ神輿に乗ってる上司の下にいたほうが、自分が何とかしなきゃって思うから成長するんじゃないか?」
営業四課には、代わりに小川という若い社員が配属された。営業四課は以前と同じように、本田部長が課長を兼務し、係長である俺が実質的に四課を切り盛りすることになった。四課の売り上げは少しずつ低下し始めた。不況のときにできた四課は、新規顧客を開拓して売り上げの減少を少しでもカバーする目的で新設された組織だった。しかし、日本経済が回復してくると、既存の大手顧客からの注文も回復していった。新規顧客に頼らずとも、業績は自然と上向いていった。今や四課の存在意義は薄れていた。四課の売り上げが微減しようが、営業部全体の売り上げにはほとんど影響がなかった。そんな状況だったから、俺が実質的に切り盛りする頼りない体制でもかまわないだろうと会社は判断したのかもしれない。
本田部長は相変わらず細かなことには一切口出ししなかった。したがって、俺は俺のペースで仕事を続けることができた。俺は明山課長時代のやり方を何一つ変えなかった。どう変えればいいかわからなかったし、変えようという気概もなかった。売り上げはさらに減っていったが、その下がり方が幸いにもスローペースだったため、それほど目立つこともなかった。
部下になった小川のことを俺は気の毒に思った。同じ営業部で働くなら、一課か二課のほうがいいに決まっている。わざわざ日陰の四課で働くこともないだろう。それを知ってか知らずか、小川にはまるで覇気というものが感じられなかった。俺が話をしても、聞いているのかいないのかよくわからないような態度だった。俺がいつまでに何を仕上げてくれと指示しても、暖簾に腕押しといった様子で、終業時刻になると、俺がどんなに忙しそうにしていても、「お疲れさまです」とただ一言だけ残して、自分はすぐに退社するのがお決まりだった。それは体育会系の俺にとっては考えられない態度だった。監督や先輩に言われれば、それがどんなに理不尽なことであろうが、まず一言目は「はい」と肯定するのが当たり前だった。できるできないは別にしても、まずは目上の者の言うことは絶対的に従わなければならない。俺も若い頃にはそういうことに反発したものだった。ただし、決して口に出すことはなかったし、歳をとるにつれ、むしろそれが当たり前のように思うようになった。それでも今の時代は上司のほうが我慢しなければならないのかもしれない。パワハラなんて言葉は俺の若い時代には存在しなかったが、今や会社もブラック企業のレッテルを貼られることを極端に恐れていた。
異動前の職場での小川の勤務態度については、俺は聞かされていなかった。なぜ営業四課に異動してきたかも知らされていなかった。
「なんであんな奴受け取ったんだい?」
ある日、木島からそう訊かれた。
「いや、俺に選択権なんかなかったんだ。ただ、そう決まったからと言われただけで………」
木島は仕方ない奴だなという目で俺のほうを見た。
「だったらその時点で断ってもよかったんだぜ。お前が人がいいから体よく押し付けられたんじゃないか? 人事部は引き取り手に困ってたんだと思う。あいつのこれまでの経歴は調べたのか?」
「経歴? そんなもの調べるのが当たり前なのか?」
俺はまたしても会社という組織に無知だった。
「もちろんさ。俺なんか自分の部下にする奴は徹底的に調査するね。前の部署での評判や入社の経緯なんかね」
「でも、そんなことどうやって調べるんだ?」
「どうとでもなるだろう。別に探偵を雇うわけじゃないんだ。前の部署で同僚だった奴の中から自分の知ってる奴、訊きやすい奴に訊いてみるとか、同期の誰かに訊いてみるとか、方法なんていくらでもあるさ」
俺は唖然とした。当たり前のことかもしれないが、部下は上司を選べなくても上司は部下を選べるのだ。
「もしかすると何か大変な失敗でもして、それで左遷されてきたのかもしれないぞ」
木島が意味ありげににやりとした。
しかし、今さらそんな過去のことを聞いたところで何の役にも立たないことぐらいわかっていた。俺は探りを入れるのはやめようと思った。もしかすると、小川に限らず今の若い連中は多かれ少なかれみんな同じようなものなのかもしれない。体育会系の精神論や根性論はもはや通用しないのだろう。小川の世代にはその世代の価値観があり、野球部のようなスパルタの方針ではモチベーションを上げることなど不可能な時代だと思う。しかも、上司がこの俺なのだ。表面上はともかく、心の奥底ではモチベーションのない上司が、どうやって部下のやる気を起こさせることができるというのだ。
俺が三十九歳の誕生日を迎えた翌日、自宅に一枚の葉書が届いた。九州の見慣れぬ住所からだった。どこの誰かと思いきや、あの白井係長からの葉書だった。そこには見慣れた癖字でこう書かれてあった。
「先月末に少し早めに西横部品を退職させていただきました。在職中は大変お世話になりました」
あの白井係長が西横部品を辞めた? 六十の定年まではまだ五、六年は残っていたはずだった。
さらに文面は続いていた。
「私のわがままではありますが、残り少ない人生、自分の好きなことをやらせていただくことにいたしました」
俺は首を傾げた。白井係長のやりたいこととはいったい何だろう? わざわざ早期退職までしてやりたかったこととは? 俺には想像すらできなかった。
しかし、葉書の文面はそこで終わっていた。葉書きの向こうに白井係長の笑顔が見えるような気がした。以前と変わらぬ屈託のない優しい笑顔が透けて見えるような気がした。あの頃は俺もまだ駆け出しで、随分と迷惑をかけてしまった。それでも白井係長は何の説教めいたことも言わなかった。
俺が知らないうちに雅志も大きくなっていた。自分が四十歳を超えたのだから、それも当然である。
俺たち家族が住んでいたのは郊外の公団住宅だった。会社までの通勤時間は約一時間半。築五十年の建物だったが、リフォームもしていてそれほど古さを感じさせなかった。間取りは二DK。三人の暮らしには十分な広さだった。もう一人家族が増えれば手狭と感じるかもしれないが、今の俺の安月給では持ち家など難しい。ただ、エレベータがなく、四階までは毎日階段を上り下りしなければならないのが面倒だった。野球で鍛えた俺はそれでもよかったが、美香と雅志にはきついだろう。
同じような棟が十棟ほど続く団地の真ん中に小さな公園があった。小学校に入学した雅志は、俺が無理に勧めたわけでもないのに野球が大好きになっていた。日曜日の夕方は、親子でその公園まで行き、キャッチボールをするようになった。夕飯の支度が一区切りつくと、美香も自宅から出て来て公園に合流した。そして、雅志と俺がキャッチボールをしている様子を目を細めながらじっと見ていた。美香の表情は穏やかだった。キャッチボールも飽きてくると、雅志は公園の滑り台やら鉄棒やらで、一人で遊び始めた。いくら野球が好きだといっても、公園の遊具は雅志を誘惑するのに十分な魅力を持っていた。その間、美香と俺は公園のベンチに腰掛けて、雅志が遊んでいる姿を黙って見つめていた。
美香が俺に話しかけた。
「最近はどうなの?」
相変わらず帰宅の遅い俺のことを気遣っての言葉だろう。
「何とかもう少し早く帰って来ようとは思っているんだけどね。何しろうちの課には自分を含めて二人しかいないんだから、どうしても仕事が溜まってしまうんだよ。だから、雅志のことはすべて任せっきりになってしまっていて、申し訳なく思ってるよ」
美香は遠くを見つめたまま言った。
「そういうことじゃなくて………」
俺は美香の横顔をまじまじと見つめた。妻の目尻には、いつの間にか細い皺が目立つようになっていた。しかし、相変わらずその鼻筋は美しかった。俺が美香に一目惚れした横顔だった。
俺は美香の言葉の続きを待った。しかし、それ以上美香は何も言わなかった。
雅志が俺たちのほうに近づいてきた。雅志は砂を払おうとして何度も掌を叩いた。
美香が言った。
「さあ、そろそろ帰りましょう。今日はカレーライスだから。その前にちゃんとお風呂に入ってきれいにするのよ」
雅志が笑って大きく頷いた。
美香と雅志が手をつないで先を歩き出した。俺はその後ろをついてゆっくりと歩いた。西日の方角から涼しい風が吹いていた。やっと季節が秋になったのだ。俺は左手で前髪を無造作に掻きあげた。何気なくその指を見てみると、白髪が何本か絡まっていた。そういう年齢に自分もなったかと思ったが、別に気にもしなかった。
その半年後、村西取締役が突然役員を退任した。すっかり雲の上の存在になっていた村西取締役と俺との間には、それ以降何の接点もなかった。
情報通の木島がこっそり教えてくれた。
「村西取締役は不満たらたらで会社を去って行ったらしいよ。本当は社長の座を狙っていたからね。その夢が叶わずに会社を去ることになったのがよほど悔しかったらしいよ」
俺は驚いた。
「とはいっても取締役だろ? 取締役にまで昇り詰めればもう十分じゃないか。役員になりたいと思ってもほとんどの社員がなれるものじゃないんだから。退職金だってかなりの額になるはずだし。それでもまだ不満があるのかな? それにもう六十も過ぎてるんだし………」
木島は苦笑した。
「役員になると定年の年齢が延びるんだよ。だから、村西取締役は本気で社長になるつもりだったんじゃないかな? 思ったほど営業成績が伸びなかったとか、社長と相性が悪かったとか、まあいろいろな憶測があるんだけど、しかし、あの無限の上昇志向はどこから来てたのかね。本当にパワフルだったよね」
俺は呆れて首を振った。
「もうさすがにいいだろう。六十を超えれば、少しはゆっくりしたいとか思わないのかな? 俺なんか、経済的に困ることさえなければ、できるだけ早く仕事なんか辞めたいと思うけどね。まあ確かに村西取締役は特別なのかもしれない。逆にあそこまで徹底して出世欲を見せつけられると、それはそれでむしろ尊敬するよ」
木島がふふんと鼻を鳴らした。
「そうだね。村西取締役はなかなかの兵だったね。しかし、その兵も社長レースに敗れてとうとう西横部品を去ることになってしまったというわけだ。時間が過ぎ去るのは実に早いもんだね」
桜井課長べったりだった木島の立場も微妙になっていた。桜井課長が異動になり、新しい課長とはうまくいっているようには見えなかった。賢い木島のことだ。それぐらいのことはすでに察知しているに違いない。




