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濁流  作者: 亜蘭
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第十四章

 今月の販売数値をまとめていたある日、川崎の工場にいる阿川という男から電話がかかってきた。週末に飲みに行こうという誘いだった。阿川は西横部品野球部の同期で、野球部が廃部になってからも会社に残った数少ない仲間の一人だった。俺は即座に同意し、週末の夜に横浜駅で落ち合うことにした。

 久しぶりの横浜駅は、金曜日ということもあってごった返していた。次から次に押し寄せてくる人の大群を避けて通るのが精一杯だった。こんなに人が多かったっけ、と俺は驚いた。若い頃は少しも気にしていなかったのに。阿川とともに過ごした社会人野球時代、よくこの横浜駅周辺で飲んだものだった。グラウンドが比較的近く、安い店も結構あった。

 メインの通りから一本筋を逸れたところに細長い雑居ビルがあった。その地下に、阿川が指定した店が人目を避けるように営業していた。俺が着いたときには、阿川はすでに上着を脱ぎ、熱いおしぼりでその両手を丹念に拭っているところだった。

「やあ、久しぶり。途中で道に迷うことはなかったかい? この店はあまり目立たないからな」

「ああ、大丈夫だった。それよりも、久々の横浜で人の群れに酔ってしまったよ」

 阿川と再会することを楽しみにしていた俺は明るい声でそう答えた。

「それより何にする? まずはビールでいいか?」

 早速注文しようとする俺を阿川が制した。

「いや、ウーロン茶を頼むよ」

「えっ? どうしたんだい、大酒呑みのお前がアルコール抜きだなんて………」

 阿川がにやにやしながら言った。

「いや、実はドクターストップがかかったんだ。先日の健康診断で引っかかってしまってね。だから、しばらくはアルコールなしの生活だ」

 阿川が照れくさそうに笑った。

「おいおい、そんな状態でよく俺を誘ったもんだな」

「まあね。お前にだけはどうしても先に話をしておかなくてはならないと思ってね」

 阿川が胸ポケットから煙草を取り出した。

「煙草は吸ってもいいのかい?」

「この店は席で吸えるんだ。最近にしては珍しいだろ? だから俺はよくこの店を使ってる」

「そうじゃなくてさ、酒は駄目だけど煙草はいいのかって訊いてるんだ」

「ああ、俺の話か」

 なかなか火が点かないライターに苛立ちながら阿川が言った。

「本当はよくはないんだろうけどね。でも、これだけはやめられないんだ」

 やっと火が点くと、阿川はうまそうに煙を吐き出した。そういえば、阿川は現役時代からこっそり煙草を吸っていたはずだった。

「ところで、俺に先に話しておかなければならないって何のことだい? 何か職場であったのか?」

「ああ。率直に言うけど、実は来月の末で会社を辞めることにした」

 それは俺が予想もしていない話だった。

「えっ? いったい何があったんだ?」

「俺の田舎のことについては、お前にもあまり話したことがなかったと思うんだが………」

 阿川が少し間を置いた。阿川の吐き出した煙が狭い個室に広がった。

「阿川は確か島根の出身だったよな?」

「よく覚えてるな。そのとおりだ。実は俺の実家は老舗の和菓子屋でね。親父の調子が悪くなって、俺が跡を継がなければならないはめになったんだ。俺はこれでも一応長男でね。ガキの頃からずっと跡を継げとうるさく言われてきたんだ。子ども心に俺はそれが嫌でね。絶対継いでやるもんかとずっと思っていたんだが………」

 無愛想な若い店員がウーロン茶とビールを運んできた。飲み物が来たところで料理の注文をメモしようと構えた店員は、二人が気にすることもなく真顔で話を続けている様子を見て早々に引き下がった。

「親父さんの具合はそんなに悪いのかい? もう長いのか?」

「そうだな。悪いと言えば悪い。あの頑固な親父が最近では泣き言を言うようになったんだからな。子どもの俺に対して、あんな弱気なところを見せたことは一度もなかった。この間も電話でこう言うんだ。か細い声で『帰って来てくれ、頼む』って。あんな親父の声は聞いたことがないよ」

「なるほどね。でも、早く身体を治さないと和菓子屋なんて体力的にきついんじゃないか?」

「ははは、そうだな。朝も早いしな」

 酒を飲まない阿川はすぐに二本目の煙草に火を点けた。

「まあ、それでというわけでもないんだが、俺自身もあんまり突っ張っていても仕方がないと思い始めてね。もともとこの会社に仕事をするために入社したわけでもないんだから。この会社にしがみついている必要もまったくないわけだ。それで、この際田舎に帰ろうと決めたんだよ」

 俺は一人でビールに口をつける気にはなかなかなれなかった。

「しかし、考えようによっては羨ましいよ。俺なんか田舎に帰ったところで継ぐようなものなんか何もない。家族を養っていこうと思えば、この会社にしがみつくしか方法がないってわけだ。他に何かできるってわけじゃないんだし」

「それでだ」

 阿川が急に真剣な表情になった。

「実は、この前調べてみて初めてわかったんだが、西横部品野球部出身のメンバーで今でもこの会社に残っているのは、もうお前と俺だけになっていたって事実を」

「それぐらい知ってたさ。同期の連中はみんなとっくにいなくなった」

「いや、同期だけじゃなく先輩も後輩も含めての話だ」

 俺は正直驚いた。

「えっ、本当か? もう他には誰も残っていないのか?」

 阿川は笑った。

「俺だってびっくりしたよ。野球部が廃部になったとき、恐らく半分ぐらいの連中はその時点で辞めたよな。みんな他の社会人チームへの移籍を狙ってさ。でも、恐らく他のチームに入ることができたのはそのうち三分の一もいないだろう。運よく入れた連中だって、もうこの歳になればとっくに引退している。引退したときに俺のように田舎に帰ってしまった奴だってきっと多いだろう。そのとき西横部品に残った連中だって、一人減り、二人減り、知らぬ間にとうとうお前と俺しか残っていなかったというわけだ。みんな配属はバラバラだったから、俺たちが気づかぬうちに結構辞めていたというわけさ。後味の悪い形で廃部になったからな、お互いその後連絡し合うこともほとんどなかったし………」

 俺は肩を落として沈黙した。

「そこでだ。俺が辞めてしまえば西横部品野球部OBはもうお前一人になってしまう。だから、お前にだけはちゃんと俺が辞める前に報告しておかなければ、それこそ義理を欠くと思ってね。だからこうしてわざわざお前を呼び出したわけさ。自分はドクターストップで酒も飲めないというのにな」

 阿川が屈託のない笑顔をつくった。

 阿川との会話はそれから三時間ほども続いただろう。野球部時代のどうでもいいような笑い話が話題のほとんどを占めていたような気がする。

「でもなあ、なぜお前がプロの世界に入らなかったのか、今でも俺は不思議に思ってるんだよ」

「そんな実力が俺にあるもんか」

 阿川の表情が一瞬厳しくなった。

「ある。十分にあった。だが、お前がプロになれなかったのには明確な理由がある」

「えっ?」

 俺は阿川の真顔が怖かった。そして、次の言葉が恐ろしかった。

「なぜお前はもっとストレートで勝負しなかった?」

「いや、俺のストレートなんてたいしたことはない。それよりも俺は変化球に自信があったんだ」

「確かにお前は多くの球種を持っていた。だが、俺に言わせれば変化球に頼り過ぎた。かわすピッチングばかりだった。なぜここぞというときにもっとストレートで勝負しない? お前のストレートは一級品だ。お前が思っている以上にキレがあった。お前のストレートが高めに決まればほとんどの打者は空振りしたはずだ。俺はシートバッティングでお前の球を見てきたからよくわかる。もっと自分のストレートに自信を持って投げ込むべきだった。かえすがえすもそこが惜しい」

 阿川が俺のことをそんなふうに評価していたとは意外だった。

「だって、福山と同じことをしていては福山には勝てない」

「福山?」

 阿川が意外な表情をした。無意識に福山の名前を口にした俺も自分自身はっとした。

「そうか、お前の心にはあの福山が棲みついていたんだな」

 俺は思わず目を伏せた。俺の顔は赤くなっていたに違いない。しかし、それは本心だった。ピンチになればなるほど強気にストレートで攻めるのが福山のピッチングスタイルだった。打者は福山の気迫に押されて空振りするか詰まったゴロを打たされるかのどちらかだった。それを真似ても仕方ない。福山と同じことをしていては福山を越えられない。だから、俺は変化球で勝負しようと考えた。福山とは違うやり方で打者を打ち取ろうとした。それしか考えられなかった。

 福山にはない俺の持ち球はカーブとフォークだ。縦割れのカーブはストレートと大きな球速差をつけることができる。打者はほとんどこの球種を狙ってはこない。しかし、縦割れのカーブはコントロールが難しく、甘いところにいけばこれほど打ちやすい球はない。もしカーブだとわかっていれば、球速が遅いだけにバッターにとっては待ってましたと言わんばかりの球になってしまう。

 フォークは基本的に見逃せばボールになる球だ。ストラークゾーンから低めのボールゾーンに落ち、バッターに振らせて空振りを取る。しかし、打者が見逃せばカウントがますます悪くなるし、高めからストライクゾーンに落ちていけば打ちごろの半速球となる。せっかくツーストライクに追い込んでも、その後連投したフォークをすべて見逃され四球を与えてしまうケースも実際には多かった。

 福山と違うことをすることが阿川にとっては打者から逃げていると映ったというのか? 俺は打者から逃げてかわすことばかりを考えていたから福山のようにはなれなかったというのか?

 二人の間に長い沈黙が続いた。阿川がやっと口を開いた。

「こんなことを言える立場じゃないんだが、できれば仙道には西横部品に長く勤めてもらいたい。できれば定年まで勤めあげてほしい。先に辞める俺がお願いできる立場じゃないことはわかってるんだが、元野球部が誰もいなくなるのは寂しいじゃないか。な、頼むよ。俺の最後のお願いだ」

 横浜駅の改札で阿川と別れたとき、俺は言い知れぬ孤独な気持ちに襲われた。自分一人だけがこの世に取り残されてしまったという気がした。迷子の子どもが抱く気持ちとはこんなものだろうか? うつむいて改札を通り過ぎる自分の姿は、悪霊に生気を吸い取られた抜け殻のようだっただろう。酔っ払いが俺の肩にぶつかって通り過ぎていった。酔っ払いは幸せだ。俺は素面の自分を笑いたかった。

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