第十六章
その日は営業部のほとんどのメンバーが出払っていた。年一回の自動車メーカー向けの新商品の展示会の日だった。自動車部品メーカーとしては一大イベントで、その準備にも多くの時間を費やしていた。実際には個別の商談で取引が決まるから、展示会で即商談成立とはなかなかいかないのだが、購買部門を中心とする自動車メーカーの幹部が多数来場するため、その接待だけでも重要であり、西部支店としても力の入る催しだった。
営業四課は自動車メーカー向けの営業活動を行っているわけではないので、俺は駆り出されずに支店に残っていた。体よく留守番にされたと言ってもいい。定時ともなると内勤で一部残っていた社員もさっさと退社した。上司がいないのをこれ幸いに我先に引き上げていった。もちろん小川もいつものように退社していった。俺だけが職場に取り残された。しかし、特に急いで片付けなければならない用件もないものだから、たまには早く帰ろうかと考えていた矢先に木島が帰ってきた。営業二課の木島が戻って来たことを俺は不審に思った。展示会自体は終わったのかもしれないが、自動車メーカーの幹部の接待もあるだろうし、そうでなければ後片付けが残っているはずだった。木島は自分のデスクに鞄を置くと大きな溜息を一つつき、その場で立ち尽くしたままどこか遠くを見るような目になっているのが気になった。
「なんで戻って来たんだ? まだ片付けだってあるだろうに」
俺がそう声をかけると木島はしばらく黙っていたが、思いついたように俺に向かって言った。
「残ってるのはもう仙道だけか?」
「ああ、そうだけど、木島は戻って来ちゃっていいのか?」
木島はしばらく黙っていたが、重い口を開いた。
「なあ、これから二人で飲みにでも行かないか?」
「まあ、俺はかまわないけど………」
木島は腕時計を覗き込んだ。
「じゃあ、十五分後に出よう。俺もさっさと片付けるから」
いつもの木島とは何かが違っていた。展示会で何かあったんだろうと俺は即座に直感した。
木島は地下鉄に乗り三つ目の駅で降りた。俺は何も訊かず木島について行った。
「会社の近くじゃ誰が聞いてるかわからないからな。わずかな距離だけどこっちのほうがいいだろう」
木島はどうしても場所を変えたかったのだろう。
「ここにするか。いいよな?」
「別にどこでもいいよ」
駅の改札を出て長いエスカレーターを昇ると大きな通りに出た。交差点が渋滞し、車が長い列をつくっていた。木島は辺りを見回し、細い筋に入った。そして、左手に店を見つけると、躊躇することなく年季が入った暖簾をくぐった。
「いらっしゃいませ」
店員の元気な声が聞こえた。
「予約はないんだけど、できれば個室がいいんだが………」
木島にしては珍しく呟くような小さな声でそう言った。店員は廊下の奥の小さな個室にすぐに案内してくれた。店が混み合うにはまだ時間が早過ぎたようだ。
木島は部屋の奥にどっかりと腰を下ろした。最近の居酒屋にしては珍しく掘りごたつにはなっていない。木島は壁を背もたれにできるが、俺は胡坐をかいて窮屈な格好にならざるを得なかった。
生ビールを二つ注文すると、木島は乾杯もせず勝手に一口でジョッキの半分を飲み干し、俺のことなど気にもせず、大きなゲップを吐き出した。
「何か変だな、今日の木島は。展示会で何かあったのか?」
木島は大きな目を剥き出してしばらく俺の顔をまじまじと見つめた。
「仙道はさあ、明山さんのこと何も聞いてないのか?」
「明山さんって、あの明山課長のことか? 東部支店に異動して今は部長の………」
俺は木島を上目遣いで観察していた。
「そうそう、東部支店に行ってからは部長だったよな」
「明山さんには世話になったけど、その後連絡も取ってない。明山さんからも特に何もない。でもあの人ならきっと元気にやってるだろうし、成績も上げてるんじゃないかな?」
木島がジョッキを片手に固まった。
「本当にお前って奴は………。社内のことは何も知らないんだな」
「明山さんに何かあったのか?」
木島の注文した焼き鳥とから揚げを店員が運んで来たので、木島は喋るのを一時中断した。店員が引き上げると早速焼き鳥を口にして話の続きを始めた。
「西部支店のみんなが知ってるっていうのに、直属の部下だった仙道だけが何も知らないというわけか。まあ、いつものことだけど本当にお前はおめでたいな」
木島がふふんと鼻を鳴らした。
「そんなことはどうでもいいから、で、明山さんに何があったっていうんだよ」
木島が一瞬口をつぐみ、小さな声でゆっくりと呟いた。
「会社を辞めたらしいよ」
「えっ? あの明山さんがか?」
「本当に知らなかったんだな」
木島が嫌味な笑みを浮かべた。
「いいから教えろよ」
「東部支店に戻ってまたやらかしたらしいよ」
「またって、何を?」
木島がテーブルにジョッキを置くと、その勢いで焼き鳥の一串が皿からこぼれ落ちた。
「懲戒処分になったらしい。それで、結局自分から退職を申し出たらしい」
木島が小声でそう言った。
「懲戒処分? いったい何をしたっていうんだ?」
つられて俺も小声になった。
「お前、明山さんが西部支店に来た経緯も知らないんだな?」
「ああ、そういえば聞いたこともない」
木島が蔑むような笑みを浮かべた。
「あの人はもともと東部支店でパワハラを起こしてさ、それで東部支店にはいられなくなったから西部支店に異動してきたってわけよ」
「あの明山さんがパワハラ? そんなことは信じられないよ。だって、俺は一度もそんな目に遭ったことはないし」
木島は何も知らない俺を相手に話をするのが楽しそうだった。
「明山さんもよほど気をつけてたんだろうな。しかも、部下が仙道だとなればパワハラもできなかったんだろう」
「喧嘩したって俺には絶対勝てないからとでも言いたいのか?」
「そういうことじゃない。そうだな、それを説明するのは何とも難しいんだが、お前が相手だとそうはできないというか、そうはならないというか………。いじめたくなるタイプじゃないからさ」
「………」
「だけど、古巣に戻って緊張感も薄れて、ついつい明山さんの悪い癖がまた出ちゃったんだろうな」
「明山さんみたいなあんな優しい上司はいないよ。そんな話、何かの間違いじゃないのか?」
木島が店員を呼びつけ、ジョッキのお代わりを注文した。俺はまだ一口しかビールに口をつけていなかった。
「そこが人間の不思議なところというか、信じられないところというか、わからないもんだよな。明山さん、内部通報で訴えられちゃってさ。まあ、暴力を振るったわけじゃなくて言葉によるパワハラだけだったらしいから減給処分で済んだらしいんだけど、そんな噂はすぐに広がっちゃうからね、もうここには居られないと覚悟したんだろう。自己都合退職という扱いで数日前に辞めちゃったらしいよ」
「信じられない」
「人間なんてそういうものかもしれないよ。あんな紳士がセクハラなんかするもんかって思ってても、上半身と下半身の人格は違うっていうからな。パワハラも同じだよ。あんな温厚な人がそんなことするはずがないって思ってたらそういうことになっちゃったりしてさ」
「………」
「しかも一度前科もあるってのに懲りないのかねえ。またやらかしちゃったというわけさ」
「前科?」
木島がさらに大きく目を見開いた。眼球がこぼれ落ちそうだった。
「仙道、お前それも知らないの? 俺、一度お前に忠告したよな。部下を選ぶときは身辺調査しろって。あれから何もしてないのか?」
「ああ、してない」
木島が呆れたように笑い出した。
「仙道って本当におめでたい奴だな。お前みたいな奴は初めて見たよ。まあ、それが仙道のいいところでもあるんだが………」
「で、何なんだよ。何があったんだよ」
「明山さんのパワハラは二度目。前科があるんだよ。そのときの被害者が小川だよ」
「えっ、小川?」
「そう、お前の部下のあの小川。小川は東部支店時代に明山さんに相当やられたみたいだ。毎日他の社員がいるところで何時間も説教されてたらしい。それでしばらくは会社を休職するはめになったらしいな。ところが、東部支店の中では明山さんに同情する声もあったらしい。『あれは小川のほうが甘えてる。明山は適切な指導をしてただけだ』って上司も弁護したらしい。まあ、明山さんは仕事はできるからな。人にも厳しいが自分にも厳しい。上司から見れば、いなくなったら困ると思ってもおかしくはない。でも、まあそういうわけにもいかなくて明山さんが西部支店に異動したらしいけど、しばらくしてから『やっぱり明山がいないと東部支店はうまくいかない』って声が次第に強くなってさ。もうほとぼりも冷めただろうということで東部支店に引き戻された。しかし、そうなると小川を置いておくわけにはいかない。それで小川が逆に西部支店に異動することになったというわけさ。異動日だって同じ日だっただろう。タッチ交代というわけさ。二人が同じ職場で一日たりとも重ならないように」
俺は今までいったい何を見、何を聞いてきたのだろう。
「まあ、知らないなら知らないでよかったのかもしれないけど、仙道みたいな奴は本当に奇特だよね。何だか付き合っててほっとする。お前、さっきから何も食ってないじゃん。何か頼めよ。あっ、大丈夫だよ。今日のところは俺が奢ってやるからさ。気にしないでどんどん頼め。誘ったのは俺のほうなんだから」
その後も木島は食欲旺盛だった。俺はほとんど何も口にしなかった。木島はその後も異常なペースで酒を飲み続けた。一時間も経つと、木島の目が泳ぎ始めた。
「誰にも言うんじゃないぞ。仙道だから白状するけどな」
それまで半身に構えていた木島が姿勢を正した。
「何だよ。まだ何かあるのかよ」
「近々俺は異動する」
「えっ、どこへ?」
「広島の中国支店」
「えっ、そんな遠くへか」
「の予定だった」
「ん? じゃあ、実際のところは異動はないということか?」
「ああ、その予定だったんだが、あと一歩というところでパーになった。もうずっと前から慎重に画策してたんだが」
「なぜ広島に?」
「広島には桜井さんがいるだろう」
「あっ、そうか、営業二課の前の課長の桜井さんは広島に行ったんだっけ?」
「そうだ、あの桜井さん。桜井さんは俺のことを買ってくれてたけど、今の課長とはどうも馬が合わない。本田部長ともいま一つだ。このままじゃ俺の将来は明るくないからさ、だから、『私を引っ張ってください』って随分と前から桜井さんにお願いしてたんだ。時間はかかったけど、やっとその話が転がり出したんだ」
「でも、東京から広島っていえば遠いぞ。転宅もしなきゃならない。家族はそれでいいのか?」
「まだ話はしていない。だが、今のままここにいると息が詰まりそうだ。家族のことなら説得する自信がある。万一駄目なら単身赴任するまでのことだ」
「まあ、木島がよく考えた上でそう決めたのなら他人が口出しするようなことじゃないけど」
「だけど、ばれちゃったんだよ、本田部長に」
「えっ、その異動の話は本田部長を通してなかったのか?」
「通すわけないじゃん。本田部長には外堀を埋めてから話をしようと思ってたんだ。あともう一息のところだったのに、それがなぜか本田部長にばれちゃったんだよな。いったいどこから話が行っちゃったんだろう? 動かしようのないところまで話をまとめて、それから人事部が本田部長に話を落としてくれればそれでよかったのに、まだ固まり切らないこのタイミングでばれちゃったんだな。そりゃあ、本田部長にしてみれば面白くないだろうな。『あなたの下では嫌なんです』って言ってるみたいなもんだから。俺が黙って勝手に画策してただけなんだから」
「で、どうするんだよ」
「それで俺は桜井さんに泣きついた。何とかしてくださいってね。ところが桜井さんも汚ねえよな。本田部長に詰問されて『いや、単に本人からの希望を聞いたという段階で、それで私が何か動いていたというわけじゃありませんから』って逃げたんだ」
「………」
「俺ももう終わりかもしれないな。本田部長からどんなしっぺ返しを食うかわかったもんじゃない。異動の話がなくなるどころか、俺は本田部長の下でずっと干されるんだろうな。どこにも異動できないままで………」
木島はそう言うといびきをかいて眠り始めた。俺は木島をそっとしておいた。幸い、終電直前に木島が目を覚ましたから、二人で駅に向かうことができた。改札で別れるとき、木島が小さな声で言った。
「今日は付き合ってくれてありがとう。でも、こんなこと言えるのは西部支店の中でもお前だけだ。仙道は誰かについていこうとしない。誰の一派でもない。こういうことを安心して素直に話せるのはお前だけなんだよ」
そんなふうに言われたのはそれが初めてだった。木島の丸くなった背中がホームの反対側に消えて行くのを俺はずっと静かに見つめていた。




