第65話 家に帰る
麗華は、手元の薬湯を見つめた。
寒舟は、魔教から戻って来て以来、一度しか薬を飲んでいない。
毎朝準備するが、不安定になっている様子がない。
だから、飲むように進めなかった。
子供達ともよく遊んでくれて、父親としては、今までで一番頑張ってくれている。
薬師としての腕も上がったのか、たった数日だというのに、弟子達にも尊敬の眼差しで見つめられていた。
今までも、薬さえ飲めば、悪い父、悪い師匠ではなかった。
でも、今は別人のようだ。
今朝も、慕容家からの依頼で、出掛けて行った。
家をでる前に、必要かと思って煎じた薬も、どうやら飲む必要がないようだ。
ふと、机の上の日記を手に取る。
以前、寒舟の部屋を掃除していた時に、見てはいけないと思いつつも、見てしまった事がある。
それを思い出した。
駄目なのは、分かっている。
でも、またこっそり持ってきてしまった。
ゆっくりと、日記を開く。
書かれている事は、以前と変わらない。
麗華には、考えられない内容だった。
まさか………と思う。
最後の日付は、寒舟が魔教に行くように言われた日の前日…………
毎日のように付けていた日記が、その日を境に書かれていない。
そっと、日記を閉じた。
また、降り始めた雪を見つめ、考える。
「あの日、あなたに何があったの?」
寒舟が、帰ってきたら話をしなくてはいけない。
ガラガラと馬車の走る音が道に響く。
寒舟を乗せた馬車は、雪の中ようやく青蘭谷
の門前にたどり着いた。
厚手の外套を羽織った寒舟は、馬車を降りた。
寒い。
四季は、あのあと問題なく朝を迎えた。
謎が残る事件だった………
はぁ、と白い息を吐き出す。
今日は、一段と冷える。
門を潜り、部屋のある本殿に足を進める。
着替えを済ませたら、麗華に帰宅したと言いに行こうと思った。
部屋の前につく。
………中に、誰かいる。
誰だ?
ゆっくりと、扉を開いた。
中にいたのは、麗華だった。
寒舟は、ほっと息を付いた。
「なんだ、びっくりした。なぜ、私の部屋に?」
「…………話したい事があります。」
何時もの明るい声ではない、暗い。
寒舟は、怖くなった。
「な、なんだ?」
「座って下さい。」
仕方なく、外套を脱いで椅子に腰かける。
緊張感に、心臓が早鐘を打つ。
「それで、話とは………」
古びた本を差し出された。
「これに、見覚えは?」
「え、な、なんだ。本か?」
中を見ようと手を伸ばすと、すっと本を遠ざけられた。
「日記です。」
「誰の?」
「あなたの。」
「…………」
麗華は、一度本の表紙を大切そうに撫でた。
視線を日記に落としたまま、聞いた。
「あなたは、寒舟様ではありませんね。」
「い、いや私は………」
「もしかして、沈清月様ではありませんか?」
寒舟は、固まった。
驚きに、身体が動かない。
「その反応。やっぱり………」
「なぜ……………」
「なぜ、分かったのかと聞きたいのですね。」
麗華は、椅子から立ち上がり、不格好な太った龍の置物を撫でた。
清月の視線を受け止めて、口を開く。
「日記に、寒舟様の気持ちが書いてありました。何度も、沈清月様のお名前が出てきます。盟館へ向かう前には、『もう戻らないかもしれない』とも言っていました。あの日を境に、寒舟様はまるで別人になった……。だから、もしかして、と思ったのです。」
清月は、ゴクリと唾を飲んだ。
この、女に、嘘は付けない。
「そうです。私は沈清月です。望んだ事ではないとはいえ、貴方の夫の命を奪ってしまった…………」
麗華は、首を振る。
暫く何も言わなかった。
その指が白くなる程、日記を胸に抱きしめる。
「……違います。それがあの人の望みであった事は、分かっています。」
泣きそうになりながらも、必死に耐えて、
彼女は言った。
「私の、夫にならなくても良いです。その代わり、子供達の父親では、いて下さい。」
「それは………貴方は、それでいいのですか?」
麗華の頬に、涙が一筋伝った。
「寒舟は、ずっと気の病を患っていました。
そして、この日記を盗み見てしまった時。いつか、帰ってこなくなると心のどこかで、分かっていました。どうか、清月様。寒舟の分まで、生きて下さいませんか?」
「………私は、子供の父親になりましょう。
寒舟の人生も、最早私の人生です。」
「きっと、これは寒舟の望んだ事。あの人の最後の我が儘を聞いて下さり………ありがとうございます。」
麗華は、止めどなく溢れる涙を拭った。




