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第48話 心魔

どこまでも、暗い。


漆黒の闇。


玄夜は、一人佇んでいた。


足元は、波紋の広がる水鏡。


音さえしない、静寂の中、懐かしい声が響いた。



『玄夜。師は悲しい。また間違えたのだな』


うつむいていた顔をはっと、上げる。


違う。違うんだ師尊。


「違います!俺が、師尊を間違えるはずがありません!」


『では、なぜ。沈七を私だと思った。』


「似てたんです!師尊あなたに!」


『でも、結局はお前自身が、私ではないと結論付けたじゃないか。やはり、お前は間違ったのだ』


「俺は…」


『安心しなさい。悪いのは、お前ではない。』


「師尊…」


玄夜の頬を涙が一筋伝う。


師尊は、そっと手をのばし、その涙を拭った。


『玄夜、私の大切な弟子。お前をこんなに苦しめたのは、誰なのだ。』


「…………あの男です。沈七です。」


『私は、一度もお前に嘘をついた事などない。だが、沈七はどうだ?』


白い手が、玄夜の顔をそっと包み込む。


「………自分は、沈清月だと嘘をつきました。」


『なんと、大胆な。玄夜、大丈夫だ。ほら、私はここに居るだろう。』


白銀の美貌。


美しい相貌で、玄夜を覗き込む。


少し、首を傾けて口元だけ微笑む。


師尊の癖だ。


『悪いのは、誰だか分かるか?』


「…沈七です。」


『では、どうすればいいかな?』


「殺します。」


『誰を殺すのだ?』


「沈七を、殺します。」


師尊の顔は、もう息がふれあう程に近い。


あの、甘い檀香の香り。


むせ返る程の、甘い香りがたちこめる。


ポタン


心に黒い波紋が広がった。


師尊は、囁くように言う。


『ほらご覧。あそこに沈七がいるよ。』


あの地味な緑着物。


特徴のない、横顔。


間違いない。


あれは、沈七だ。


俺を騙して、俺を裏切った。


許さない。


「……殺す。…沈七。」


カチャリ


腰の夜哭を構える。


踏み込む勢いのまま、沈七に切りかかった。






スドォォォン


魔天閣に、轟音が響いた。


ここは、朝議を行う大広間。


いつもなら、漆黒の柱が規則正しく並んでいるはずだった。


しかし、今は………


三人がかりでようやく腕を回せる程の、大柱が

三本倒されている。


駆けつけた、温如春は、息を飲んだ。


倒れた柱の間にたつ黒い人影。


君上…


手には、抜き身の夜哭……魔剣である夜哭の反噬。


剣に、心をのまれている。


夜哭から立ち上る黒瘴気が、

君上に絡み付くように、纏わりついている。


これは、かなり危険な状態だ。


「君上!!!」



そこに、高要が駆け込んできた。


さらに、幻魂邪手の朱香、百獣天王の獅岳しがくがやってくる。


「君上…これは、いったい。」


「ガハハ、飲まれちまってる。」


君上は、何か幻影を見ているのだろうか。


まるで、誰かに切りかかるように、暴れ始める。


いつもは、冷静沈着なお方が……


如春は、いったいどうすべきか、迷っていた。


その時…


ふと、何かを探すように、君上の視線がさ迷う。


ピタッ


立ち尽くしている、高要に視線が止まった。


「……………そこに、いたか」


風が、如春の横を通り抜けた。


次の瞬間。


カァン―――


高要が、ぎりぎりで夜哭を受け止めている。


「ぐっ、君上!!!」


しかし、力で競り負けている。


夜哭の黒い瘴気は、黒い炎となって剣身に纏わりついていく。


高要は、次第に押され、ついに膝を付いた。


高要は、死を覚悟した。





……ふわり


蝶。


銀色の蝶。


つばぜり合っている二人の間をふわりと飛ぶ。


輝く鱗粉が、舞い落ちる。


夜哭からスッと力が抜ける。


幻魂邪手朱香の、幻術。


高要は、今だとばかりに、夜哭を押し返し、

後ろに後退する。


「俺が、君上を抑えつける。その間に、夜哭を

取り上げろ!!!」


獅岳しがくが叫び、君上を後ろから羽交い締めにする。


温如春は、素早く君上に近づき、夜哭に手を伸ばす。


「………許さぬ、許さぬ。」


君上の、呟く声。


あと、あと少しで手が届く。


夜哭さえ、叩き落とせれば………


「何処にいる、沈七っ!!!!!!」


ゴオッッッ


凄まじい剣気。


夜哭が悲鳴を上げるように鳴いた。


凪払うように、振るわれた剣。


形のない、黒い炎を纏った剣気で、

全員がはね飛ばされる。


如春は、激しく柱に打ち付けられた。


「がはっ」


つぅーと、口の端から血が伝う。


「はぁ、はぁ」


口元の血を拭いながら、君上をみる。


黒い炎は、床に燃え広がり。


君上は、炎に囲まれるように立っている。


勝てない。


このままでは、君上を止められない。


今君上は、精神が乱れ、夜哭の力は殆ど発揮されていない。


それなのに、手も足も出ない。






…ポタン


黒い波紋が、足元の水鏡に広がる。


優しい声が、玄夜に問いかけた。


『玄夜。まだ殺せないのかい?』


違う


『沈七は、そこにいるのに。何をしている?』


違う


師尊は、そんな事絶対に言わない。


『ほら、早く殺しておしまい。そうすれば、心がかるくなる。』


違う。


沈七。あの、男は結局誰なのか?


『玄夜。何を迷っている?』


最初から、迷ってなどいない。


真実だけが知りたい。


『ほら、早くしないと、逃げられてしまうよ。』


そうだ、沈七は逃げた。


何処に?


きっと、正派。


武林盟に…



『ほら、よく見て。あそこに沈七がいる』


何処にいる?


よく見えない。


違う。


あそこにいるのは……………



町の喧騒。


食事をする食器のカチャカチャという音。


食欲を誘う、温かな香り。


黒目に黒髪。


簡素な着物。


何処にでもいる、ごく普通の青年。沈七。


「裴兄。試作品の桃饅頭です。一つは小豆と胡桃。もう一つはカスタードが入ってます。」


「甘くて、美味しいですよ。」


ほかほかと、湯気の立ち上る饅頭を差し出してくる沈七。


口元に、淡い笑みを浮かべている。




狂おしいほど、懐かしい。


ほんの少し前の事なのに。


俺を騙した沈七が、憎い。


殺したい。


………でも


もう一度。


もう一度話がしたい。




パリィ―ン―・・・



師尊の美しい姿が、ドロリと溶けた。


『……玄夜』


『………また、私を殺すのか?』


「お前は、師尊ではない。夜哭の見せる心魔だ。」


渦を巻くように、夢は消えていく。


黒く濁っていた、視界がようやく晴れる。


最初に目にしたのは、折れた柱。


倒れる部下……………


俺が、やったのか…………………


玄夜は、己の失態に、呆然とした。


握り締めた夜哭だけが、小さく震えていた。









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