第25話 窮奇
窮奇。
古代中国で災厄をもたらす四体の怪物。
その中の一体。
虎の体、牛のような角に、翼をもつ巨大な妖獣。
善人を憎み、悪人を好む。
正しい人間を襲い、悪人には力を貸す。
太古から存在する厄災の妖獣である。
しとしと
雨が振っていた。
宿屋の女将、張蘭玉は、今日の営業を終えて、
暖簾を仕舞うために外に出た。
その時だった。
雨の中、一人の男が立っていた。
「どうなされました。びしょ濡れですよ。」
優しさから声を掛けた。
「あ・・・あいつは、ど・・こ・・・だ・・」
「えっ?」
蘭玉は、そこではじめて、男の顔をよく見た。
無表情。
ただ、無表情なだけではない。
瞬きを一切していない。
全身びしょ濡れになりながらも、
ただ、そこに立っている。
「・・・・し・・んせ・・い・・げ・・つ・・・・あい・・つ・・・はど・・こ・・だ」
蘭玉は、急に恐くなった。
急いで、宿の中に戻ろうと踵を返す。
ザッ
ザッザッ
ザザザザザッ
「ひぃっ」
それまで、動かなかった男が、
信じられない速さで、近づいてきた。
扉を締めようとした、その瞬間。
ぐにゃり
おぞましい。
おぞましい笑顔。
そのまま、男の口が割けた。
耳の後ろまで。
蘭玉は、必死に逃げようした。
しかし、いつの間にか、男に肩を掴まれている。
あっと、思った瞬間、
頭から喰われた。
骨が砕ける音が響く。
降っていた雨が、
止んだ。
「女将さん、どこですか?」
暖簾を仕舞いにいった女将の姿が見えない。
従業員の男は、女将を探しに外に出た。
そこには、濡れた暖簾と、
巨大な獣の足跡が残っていた。
その日を境に、蘭玉を見たものはいない。
魔天閣の執務室で、玄夜は書類を整理していた。
護法の高要が、駆け込んでくる。
珍しい、この男が慌てているとは。
「君上。ご報告があります。」
「話せ」
「最近、月影教の領土になった、南部の町で、
窮奇が現れました。」
ガタッ
「何だと?!」
窮奇が現れたとなれば、町一つ程度の被害で、
すむはずがない。
月影教存続の危機にさえなりかねない。
古代から生きる伝説の獣。
今まで討伐出来たという報告はない。
玄夜は、全魔頭を召集するよう命を出した。
窮奇が出現したという噂は、瞬く間に広がった。
沈七も、噂を聞いた。
でも、何だか、現実味がない。
この世界には、確かに不思議な霊草、霊獣、邪祟などが存在する。
でも、今の沈七には、どうも想像出来ない。
薬仙時代なら、そんな事はなかったはずだ。
平和ボケ。
自分でも、そう思った。
窮奇の討伐準備が、忙しい玄夜に
会う時間は、ますます少なくなる。
まぁ、大の大人。
それも魔教主だ。
いつまでも、師尊、師尊と言っているわけは、
ないだろう。
何だか、少し寂しい。
でも、これが普通だ。
自分で、自分に言い聞かせる。
慌ただしい周囲を他所に、沈七だけは、
いつも通りだった。
数日後。
窮奇討伐を次の日に控え、宴が開かれる事になった。
なんと、討伐には、沈七率いる薬王閣も
参加するらしい。
後方支援では、あるが、久々の戦闘の気配に、
内心怯えていた。
なにしろ、35年ぶり。
日本で産まれ、日本で育った。
簡単には、戦う感覚を思い出せない。
仕方なく、薬剤の最終チェックを終えて、
宴に向かう。
ここ数日、ずっと嫌な予感がする。
これ以上、前に進めば、
もう二度と戻れない。
そんな予感が。




