表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
がん病棟の鍼灸師  作者: 中元信作


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/10

第9話 私の思いついた「裏切り」と「無関心」への対処法

 今回は病院勤務で学んだ“宗教”について書きます。


 鍼灸師は、患者さんと接する時間も多く関わりも深くなるために、時として宗教に勧誘されることもあります。

 患者さんにできる限り寄り添い支えようと、勧誘される度に勧誘に乗り、洗脳される度に洗脳されていたら、仕事どころか人生すら続けられなくなってしまいます。ある程度の距離はしっかりと保ちながら、尚且つ信頼関係も構築できる患者さんとの向き合い方を工夫する必要があります。

 表題は分かりにくいのですが、私が病院勤務の経験からたどり着いた私なりの宗教への向き合い方です。


 その前にまず話を横道にそらします。


 鍼灸といえば腰痛肩こり専門と思われがちです、

 そのためがん患者さんばかりの総合病院で、私のような鍼灸師が何をやっているのか不思議に思われることも多々ありました。


「がんの人が肩こりごときで騒いでる場合か?もう鍼打ってどうこうの病気じゃないだろ?」というわけです。


 そこで宗教について語る前に、改めて私の仕事について説明しておきます。

 当時、帯津病院では現代医学と代替療法を組み合わせて病気に対処しようと試みていて、現代医学だけではもはやどうしようもないと言われた末期がんの患者さんが全国から集まってきていました。

 私は、縁あってこの病院で鍼灸その他手技療法を用いて疼痛コントロールやその他あらゆる症状の緩和を担当し、主に入院の、時々外来の患者さんの希望に応じ、鍼灸室や病室で、1回20〜30分くらいの施術を1日に5人〜10人ほど、多い時には20人ほど施術を行なっていました。

 入院患者さんの場合、たいてい皆さん私が勤務している平日は毎日の施術を希望されたので、患者さんと接する時間は医師や看護師よりも多かったはずです。

 そうはいっても、鍼灸の施術は手を使い、言葉はあまり必要とはしません。毎日患者さんと一対一で会っているとはいえ、基本あまり会話はありません。

 ところが、時としてどうしても話をしなければならないことがあります。

 その一つが宗教に勧誘された時です。


 私を含め日本人はあまり特定の宗教にのめり込むことが少ないためか、末期がんのような重い病気を患っても宗教に救いを求める方はそれほど多くはなかったように思います。また、仏教やキリスト教など歴史のある伝統的な宗教を信仰されている方は、たいていとてももの静かに信仰され、私たちを勧誘することもまずありませんでした。


 病室が宗教色でものすごくにぎやかになったのは、新興宗教に入っている患者さんが入院されてこられたときです。そのような方の施術に入ると、ほぼ100パーセントの割合で勧誘を受けました。新興宗教にもいくつかありますが、みな大体同じです。


 そんなときのため、私はお断り用の決まり文句を準備していました。


「お誘い、本当にありがとうございます。

 私はどちらかといえば信心深いほうだと思っています。だけどごめんなさい、不勉強なものでこちらの神様は存じ上げません。もちろん、神様仏様ご先祖は信じております。毎日お日様やお月様に手を合わせるくらい熱心に信じております。だけど、大変申し訳ないのですが、宗教というものをわたくしはまったく信じてはおりません。

 と、申しますのも、神様仏様は人間が作ったものではありませんが、宗教は人間が作ったものだからです。神様は完璧でも、人間が作ったものに完璧なものはありません。必ず欠点があります。人間が作ったどんなにいい車だっていつかは必ず故障しますし、最後には間違いなく廃車になるように、宗教だって人間が作った組織です。たとえ皆様の神様が本物でも、人間には必ず偽物がいて、皆様の作った宗教にも一人は必ず偽物が紛れ込んできて、せっかく作った組織にも結局欠陥が出てきてしまいます。そのようなわけで、こうして誘っていただいたのも何かのご縁ではありますから、一人静かに個人的に皆さまの神様にも私なりの方法で手を合わさせていただきます。が、こうしたわけで皆様の組織のお仲間になることはできません。あしからず。」

 こんな感じで入信をお断りします。


 新興宗教を熱心に信じている方が入院してくると、病室はたいていいつもお見舞いや付き添いに来る同じ宗教の信者さんであふれかえり、私が部屋に入ると皆さんものすごく怖い顔をして熱心に勧誘してきたものでした。

 その激しい勧誘の嵐に打ち勝ち、誰も傷つけずに無事病室を出るためには、私もちょっとした演説を打つ必要がありました。

 「目には目を。歯には歯を。長い話には長い話を」というわけです。

 上のような決まり文句をこっちも負けずに熱心に伝えれば、まあだいたい皆さんそれ以上勧誘してくることはありませんでした。

 「こいつはどうしようもない屁理屈野郎だ」と呆れられたのだと思います。


 新興宗教を信じている患者さん本人も、その仲間の信者さんや指導者たちも、ご自分の神様が病気を治してくれると絶対の自信を持って確信していました。

 奇跡が目の前で起こるのを、この目で見届けようと毎日入れ替わり立ち替わりたくさんの信者が病室を訪れては、大声で祈祷を行い、たくさんの聖なるグッズで部屋を埋め尽くしていきました。

 ところが、待てど暮らせど、一向に病気が治らない。

 それどころか、(これは私にとっても)あってはならないことに次第に悪くなっていく。

 するとパタっと誰も来なくなります。

 あれだけたくさん病室に来ていた仲間の信者や聖職者たちがピタッ、ある日を境に一人もいなくなってしまいます。

 そして誰もいなくなった。

 一人寂しく、病室に取り残される患者さん。


「最近、お友だちの姿が見えませんね?」


 私は意地悪ではないので、もちろんそんなことは言葉に出して聞きません。心の中で思いつつ、黙って施術をするだけです。こうなってしまうともう患者さんだって一言も口をきかなくなります。


 だいたいいつも、どこの新興宗教の患者さんもこのパターンでした。


 こうして病室に誰もいなくなり、最終的には私も患者さんも何も話をしなくなるので、どうして宗教の仲間が一人も来なくなってしまったのか、正確な理由は分かりません。

 私なりに推測すると、いつまで経っても病気が治らないのは、そもそもその患者さんが悪いのであって、神様が悪いのではないということに宗教の側で話がまとまってしまったからだと思います。

 こんなに一生懸命みんなで祈っているのに、待てど暮らせど病気が治らないのは、この患者(信者)さんに何かしら良くない因縁があって、神様がお見捨てになられたからだ。そんな神様に嫌われるような悪人と関わってはいけない。関わればこっちまで神様のお怒りを買ってしまう。これ以上お見舞いに行くのはみんなでもうやめてしまおう。と、なったのだと推測しました。


 可哀想に。

 一生懸命に信じ、身も心もおそらく財産も捧げた患者さんは、こうして宗教から裏切られ、捨てられました。

 そんな薄情な宗教なんて、こっちから捨ててしまえ!

 私は勝手に想像し、勝手に腹を立てました。


 ただ私の立場からすれば、患者さんはこれでようやく神様と二人きりなれたともいえます。

 裏切ったのは神様ではなく、宗教です。うるさい人間どもが全部いなくなった今こそ、一対一で直接神様にお祈りすれば、願いも届きやすいと思いました。

 どんな神様でも神様は裏切らない。と、私は信じています。

 一方人間はしょっちゅう裏切ります。

 仲間だと信じていた人間に裏切られ、見捨てられた患者さんが、それでもなお一度は信じた神様に祈りを続けたかどうかは定かではありません。

 そんな個人的なことはとても聞けません。

 そうだったらいいなと思いながら、私は黙って施術を続けました。


 一方、信者を最後まで見放さなかった宗教も見ました。

 キリスト教です。

 キリスト教の聖職者は、患者さんの闘病中も、不幸にしてお亡くなりなった時も静かに寄り添い支えておられる姿をよく見ました。

 私が病気になった時もこうやって支えてもらいたい。それにキリスト教に入っておいたら、死んだ時も葬儀などの面倒な手間が省けそうだ。そう考えた私はキリスト教に入信しようかと心が揺れたこともありました。しかし思いとどまりました。

 せっかく日本人に生まれ、世界中のあらゆる神様に心から祈ることのできる寛容な民族に育ったのに、八百万(やおよろず)の神様に顔を背け、イエス様一人を神として崇めるのは心情的にどうしても難しかったのと、葬式のためだけに入信するのも真剣なキリスト教徒の皆さんに対して失礼だと思ったからです。

 

 だいたい私は同じような前科があり、大学生時代、イスラム教に心が傾いたこともありました。

 授業で教えてもらった、テレビで報道される暴力的な側面とはまったく正反対の理知的なイスラム教の教えに感銘を受け、入信してもいいなと思いました。

 ただよくよく聞いてみると、ムスリムになると一生豚肉が食べられません。トンカツも生姜焼きも死ぬまで口にできない。どこからどう考えても入信は無理な相談でした。


 病院で見た宗教の中で、特異な動きをしていたのが仏教です。


 ご存知の通り現代の仏教は葬式専門で、どこの誰より死を忌み嫌う病院では僧侶を見かけることなどまずありません。

 ところが帯津病院はO(オー)名誉院長が仏教書を多く読まれていたことや、月に一回お寺で講演するなど仏教と関わりがあったこともあり、時々お坊さんが病院にやってくることがありました。


 私の覚えているのは10年間で3人、僧侶が病院にやってきました。

 そのうちの二人は、お坊さんでありながら医師の免許も持っている二刀流の人で、体のケアだけではなく僧侶として心のケアもできる医者として、研修医のような形で病院にやって来て、しばらくの間O先生に帯同したり、病室に患者さんを訪ねたりしていました。

 もう一人の方は、これがものすごく偉いお坊さんで、確か数千年に及ぶ日本仏教の歴史を通して、わずか数人しか成し遂げたことのない山での厳しい修行を一度ならず二度までもやり遂げた大変な老僧だということでした。当時NHKのドキュメンタリー番組でこの方の特集が放送されたほどの高名なお坊さんです。

 どんなご縁があったかは知りませんが、そんな立派なお坊さんが病院へやって来て、道場で講演していただいたことがありました。


 いずれのお坊さんも患者さんの事前の期待は大変大きく、来る前から皆さんとてもワクワクしていました。

「ようやく人の痛みのわかる人が来てくれる」

 みんなそんな気持ちでお坊さんが来る日を待ち望んでいました。


 一方のお坊さんたちも、それぞれに大きな志を持って病院へ来てくれたのだと思います。

 何しろ先ほども申し上げた通り、お葬式の専門だと思われているお坊さんが病院の敷居をくぐるのは、現代では大変なタブーです。そのタブーにあえて挑戦し破ってまで、病院に来ようというのですから相当な信念を持ってのことと思われます。

 死んだ人だけではなく、今まさに生きている人にも仏教は役に立つことを証明しよう。そんな強い意気込みで来られたのだ。と俗世界にまみれた私はいつものように勝手に想像しました。


 結論から申し上げますと、患者さんたちの期待も、お坊さんたちの野望もいずれも成就することはありませんでした。

 残念ながら、二人の僧侶兼医師(医師兼僧侶)のみならず、国内最高峰の偉大な老僧でさえも患者さんたちの心を掴むことはできませんでした。


 強調しておきますが、私はここで誰かの悪口を言うつもりはありません。また仏教を批判するつもりも毛頭ありません。

 3人のお坊さんはいずれも物静かな好人物で、会った瞬間に好感を持ちました。一方の患者さんたちだってみんなごく普通の善男善女です。


 いずれにしても、僧侶兼医師または医師兼僧侶はお二人とも、最初のうちこそ熱心に病室を回っていたものの、そのうちに病棟から姿が消え、そのまま誰かの心に印象を残すこともなく、やがていつの間にか病院からもいなくなっていました。

 偉大な老僧の講演会も、終了直後から翌日の午前中くらいまでは病院のそこかしこで様々な感想が聞かれたものの、その日の午後になるともう誰もその話題を口にする人はいませんでした。


 なぜ3人の僧侶は患者さんの心をがっちり鷲掴(わしずか)みにできなかったのか?


 私は仏教だけでなく宗教にもまったくの無知であり、とても偉そうなことを言える立場ではありません。また言うつもりもありません。

 ただ僭越ながら病院で働いていた立場から謹んで偉そうに申し上げますと、失礼ながらお3人とも患者さんとの距離がものすごく遠かった気がしました。その遠さは、まるで通りすがりの観光客が病院にやって来たようでした。


 仏教のお坊さんも厳しい修行をするのかもしれませんが、がんの患者さんだって闘病という厳しい修行をしています。その上、がんの闘病の場合は自分で進んで始めたわけでもなく、自分の意思でやめることもできません。嫌でも自分の病気と向き合い、不快という言葉では足りないほどのあまりにも厳し過ぎる数々の症状と付き合い続けなければいけません。

 そんな終わりの見えない恐ろしい修行をやりたくもないのにやっている患者さんから見れば、自分から進んで修行している健康なお坊さんたちはむしろアスリートに思えたようです。結局、いずれにせよ病院とは無縁の人種でした。


 大昔、私たちにとって宗教は仏教の一択でした。

 はるか昔の仏様だけが私たちの信仰の対象だった時代には、お坊さんだけでなく誰でもみんな仏様だけを見て手を合わせていました。お坊さんと私たちがまっすぐ同じ方向を見ていたのどかな時代には、お坊さんの言葉はさぞかし心を打ったことでしょう。

 それはあたかも美しい月を肩を寄せ合い眺めているようなものだったかもしれません。

「きれいですね。」

「ええ本当に。」

 そんな短いやり取りでさえ、涙が出るほど心が震えるように、共に同じ仏様を見つめながら聞く、お坊さんの言葉はすっと私たちの心の奥底にまで届いたことでしょう。いえ、言葉なんて必要なかったかもしれません。黙々と修行に励むお坊さんの背中を見ただけで、私たちは自然と心から手を合わせたに違いありません。

 大昔が(うらや)ましい。なぜか懐かしさすら感じます。


 今は多様性の時代、みんなが同じ方向を向くことはもはやなくなり、誰もがありとあらゆる方向を向いて暮らしています。10人いれば10人とも違う方向を見て、手を合わせたり合わせなかったり、そんな今のこの時代では、仏教だけではなく宗教が人々の心を惹きつけるのは大変なことだと思います。


 こんなバラバラな時代に生きる私は患者さん一人一人の中に仏様を見ています。

 患者さんお一人お一人を唯一無二の尊い存在としていつも(うやま)っています。


 こうやって患者さんに媚びたことを書くのは本当にいやらしいことなのはわかっています。特に今回ずっと宗教に冷淡なことを書いてきた最後になって患者さんに媚びへつらうようなことを書くのは、人の悪口を言って自分だけ好かれようとする卑怯なやり方だということも重々承知しています。

 まるで私自身がインチキ洗脳宗教の勧誘者のようです。

 でもしかたありません。

 患者さんを尊敬しているのは本当のことです。

 がん患者さんこそ真の修行者です。


 冒頭の方で申し上げた通り、私は人間の作ったものを信じていません。が、人間は信じています。人間は人間が作ったものではないからです。

 人間を作ったのが、神様か仏様か創造主か造物主かは知りません。呼び方がなんであれ人智を超えた宇宙の何かが人間を作ったのは間違いないので、私は一人一人の患者さんの中に神様を見つけてはこっそり拝んでいます。


 これが私のささやかな宗教生活です。

 いかなる団体とも組織とも他人とも関係がありません。おかげで裏切りや無関心に悩まされることもなく静かに毎日を過ごせています。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ