第6話 手は身体の声を聞く
病院に鍼灸師がいると患者さんにとってどんな良いことがあるのだろう?
これはどうしたって考えます。だいたい日本のほとんど全ての病院には鍼灸師がいません。いなくても、だいたいどこもうまく回っていることを考えればなおさら考えます。
鍼灸師の立場から申し上げますと、病院という場所が人の身体の問題を扱っているにも関わらず、患者さんとのコミュニケーションの方法としてあまりにも「言葉」だけに依存しすぎているように思えます。これはとても不十分で、もどかしさを感じます。身体が問題になっているのに、なぜ患者さんの身体に直接触れて情報を得ようとしないのか。
患者さんの体に触れる。このコミュニケーションが病院で鍼灸師が働く意義になると私は考えています。
患者さんが今ご自分の身体にどんな辛さを感じているのか?
これを知るには言葉だけではやはり物足りません。
実際のところ、ある程度経験を積んだ鍼灸師なり手技療法家なら手で患者さんに触れればだいたいの症状、特に患者さんが感じている痛みの症状はわかります。加えて、触れ方を工夫すれば「私は今あなたの辛さを理解しました」と言葉を使わずに手だけで患者さんへメッセージを送ることもできます。
ところが現代の医療現場では、患者さんは言葉だけで自分の辛さを医療者に伝えなければなりません。
例えば体のどこかに痛みを抱えている場合、患者さんは病院スタッフに対し、今どこが痛いのか、それはその場所の奥か、表面か、どんな痛みなのか、ズキズキか、シクシクか、鈍痛か、その痛みの強さは0から10の11段階の10をマックスとするとどの段階にあるのか、などなどを痛みをこらえながら書いたり語ったりする必要があります。
最後に挙げた痛みの11段階評価については私も帯津病院に勤務している頃、ほんのわずかな期間だけ利用したことがあります。これは小さな物差し、その名もペインスケールを用いて、まさに長さを測るように痛みを客観的に捉える優れた方法です。この小さな新兵器を病院から配られると、私は意気揚々と患者さんの病室へ向かいました。
「マックスの痛みが物差しのここ、10の目盛りだとすると、◯◯さんの今の痛みは物差しのどの段階にありますかね?」
相手はお爺さんの患者さんでした。(お爺さんに『マックス』。現代医学はなぜか英語を使いがちです)。すぐに答えが返ってくるかと思いきや、当の患者さんは首を傾げていつまでも物差しを指さそうとはしません。こんなに痛みをわかりやすく簡単にそれも客観的に表現できるのに、何を悩むことがあるのだろう?
「いいですか。ここの10のところがマックス。◯◯さんにとっての一番最大で最悪の痛みです。一番ひどい、マックスの痛み。すると、今の⚪︎⚪︎さんの痛みは物差しのどの辺になりますか?」
「だからそのマックスってのがわからねえんだよ。一番ひどい痛みってのはどんな痛みだ?そんな痛みを俺は経験したことがねえ。だから今の痛みがそれと比べてどのくらいかって聞かれても、わからねえんだよ。あんたはそのマックスの痛みってのを知ってるのか?」
確かにその通り。実は私もそんな恐ろしい痛みをまだ経験したことがありません。すぐに納得した私は以後ペインスケールを使うのをやめました。
手で痛みがわかると言ってもそんなに難しいことではありません。鍼灸師でなくても誰だってすぐにわかります。
まず痛みを我慢している人、こらえている人にリラックスしている人はいません。痛みがあるにもかかわらず温泉から上がりたてのように体全体が緩んでいる人はまずおりません。例外なく、痛みのある人の体は緊張しています。固く、小さく震えるような嫌な緊張です。試しにタンスの角に足の小指をぶつけたご家族の肩か背中にそっと両手を置いてみください。体は硬く、緊張し、ほんのわずかに震えているように感じるはずです。
私たち鍼灸師はその固い体の奥を探り、よりいっそう硬くなっている点を探し出します。これがいわゆるツボ、治療点、トリガーポイントなどなど私たちの業界が様々な名称で呼ぶ場所で、ここを押さえると患者さんは
「ああ!そうそう!そこそこ!それ何!どうしてそこがわかったの!」
と歓喜の声を上げます。
こうやって治療者が患者さんの痛みを肌で共有し共感することは、患者さんにとってとても良いことではないでしょうか。言葉だけが支配する病院に鍼灸師がいる意味もそこにあるような気がしています。
ただ一度困ったことがありました。
その患者さんは1週間の体験入院でいらした、まだ若い30代前半、当時の私と同世代の男性で、腰と背中の強い痛みを訴えていました。ところが、体がまったく緊張していません。むしろリラックスしています。私の言ういわゆる”痛い体”ではないのです。
それでも「痛いですか?」と聞くと
「痛い。」とおっしゃる。
「背中?」
「背中。」
「腰も?」
「腰も。」
両方ともとてもよくほぐれていてリラックスしています。まったくもって痛い人の体でありません。困りました。
「ものすごく痛い?」
「ものすごく痛い。」
その時、私の脳裏には病室に入る前にナースステーションで仕入れた情報が浮かんできました。
”この人には大量の麻薬系鎮痛剤が処方されている。”
今でこそ医療用麻薬やフェンタニルはアメリカで社会問題になっていますが、当時はまだそんな問題はなく、むしろ「痛みのある人にとって麻薬系鎮痛剤は副作用も少なくどんどん使わなければならない」という考え方が主流でした。医療用麻薬も実は麻薬と同じなのではないか。そんなことを疑うのは、私のような現場にはいても医学界の外にいる人間か、はみ出し者の薬剤師ぐらいなもので、そんな二人が病院の廊下でばったり出くわしたときにこっそり話すくらいの問題でした。
もしかしたら、この人は麻薬が欲しくて痛いと嘘をついているのでは?そんな疑念が頭に浮かびました。それでも私は患者さんに
「あなた、もしかしたら全然痛くないのではないですか?麻薬が欲しくて痛いと言っているだけなんじゃないですか?」
とは聞きませんでした。
ナースステションへ行って、担当ナースか主治医に
「あの患者さん、本当は痛くないと思います。」
とも言いませんでした。
何も言わず、そのまま痛みがあるフリをして黙って施術をしました。
手で触れば人の痛みがわかると言っても、それは私が言っているだけの話で、ペインスケールのように客観的に証明のしようがありません。それに病院ではその頃「痛みは本人にしかわからない。だから痛いと言われれば躊躇なく鎮痛剤を出せ」と言うのが支配的な考えで、私が「あの患者さんは痛みを感じていない」と言ったとしても誰も聞く耳を持ちません。
もちろんそれは当然です。「どうして薬を出さないんだ!」と患者さんが怒った時に、鍼灸師が「痛くない」と言ったから鎮痛剤を処方しなかったとなれば、それこそ訴訟問題です。「お前たちは患者より鍼灸師を信じるのか!」となります。病院では患者さんが一番大切にされなければなりません。
ただ私が何も言わなかったのは、「だって誰も聞いてくれないじゃん」と言う前からいじけていたからではありません。
言うべきではないと思ったので言いませんでした。
自分の心の中だけで秘めておくべきだと判断しました。
もちろん目の前で人が麻薬に溺れていくのを黙って見ていることには罪の意識を感じ心が痛みました。
ただ痛みというのは体だけはありません。心も痛みます。その患者さんは若くして命がまもなく終わると宣告されました。この病は嘘では誤魔化せない逃れようのない事実でした。こんな恐ろしいことを宣告され、心が痛まないはずはありません。私の小さな罪の意識なんて目の前の患者さんの心の苦痛に比べたら屁みたいなもの。麻薬で心が少しでも楽になるのなら、それでいいじゃないか。と思ったので誰にも言いませんでした。
それに、私は母を看病しているとき、母が薬漬けになるのが怖くて麻薬系鎮痛剤や睡眠薬、精神安定剤を飲もうとするととても反対し、時には大喧嘩になったことを、母が亡くなった後になってから冷たいことをしたととても後悔していました。
今でも私の手は彼のやわらかい背中と腰を覚えています。
心の痛みにも自分の手が届くように願いながら、明るい午後の日差しの病室で施術をしました。
次回、第7話は自然治癒力の高め方を考えます




