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8 後ろにあるもの

動かす前は、こんなに狭かったのかと思った。

 両側の張り出しを戻すと、台所とテーブルの間が、人ひとり通るだけの幅になった。

椅子を寄せ、床の荷物を動かす。

窓辺にあったものをしまうと、暮らしていた部屋が急によそよそしく見えた。


 エリコは最後まで奥にいた。

 呼びに行くと、寝室の棚を開けていた。

すぐ閉めたので、何を確かめていたのかは見えなかった。


「もういい?」

「うん」

 彼女は窓を見回し、手を棚の取っ手へ戻した。

閉まっていることを、もう一度確かめていた。


 まだ寒い外に出てロイと一緒に周りを回った。

昨日まで何度も見たところを、朝の光の中でまた見る。

彼の指が止まるたびに、私は腰をかがめた。


 ジューンのそばで、ベンがこちらを見ていた。

エリコが膝をつくと、すぐ立って近づいてきた。

彼女はその両耳を手で挟み、短く言った。


「行ってくる」

 私も声をかけた。

ベンは私を見たが、次にジューンが餌の袋を持ち上げると、そちらへ行った。


「薄情なやつ」

「助かるわよ」


 エリコが立ち上がった。


 初めは彼女が運転した。

 パークの出口で、私は思わず体を前へ出した。

トラックが道へ出てしまっていても、後ろの家はまだ敷地の中にあった。

いつものように曲がれば、何かにこすりつけそうだった。


「大丈夫?」

「見てる」

 エリコは首を左右を振り、ゆっくりハンドルを戻した。


 道へ出てしまうと、昨日の練習とは違う速さで周りが動いた。

後ろの窓からは何も見えず、横のミラーに白い壁だけが映っていた。

曲がるたび、その壁が少し斜めになる。


 私はミラーばかり見ていた。

「酔うわよ」

「いや、気になるから」


「ちゃんと後ろについてるわよ」

 彼女は前を見たまま言った。


 しばらく走ると町が後ろへ遠のいた。

道の先に、明るい空が低く広がっていた。


 エリコがラジオをつけ、すぐ音量を下げた。

誰かの声が聞こえたが、音楽になる前に切った。


「うるさい?」

「いや、いいけど」


「今日は、いいわ」

 エンジンの音だけになった。


 彼女はいつもよりしっかりと両手でハンドルを持っていた。

肩に力が入っているのが、助手席からでもわかった。

前の車との距離を長く取り、後ろに車がたまると、譲れるところを探した。


 私は言いかけた助言を、何度か飲み込んだ。

私にも、うまくできるかわからないことだった。

 広い駐車場のある店を見つけた。

やたらと広くて、バックも折り返しもいらない、入ってそのまま抜けて出られる敷地に

小さな店があった。


 エリコは水を二本買ってきた。

一本を私の手元へ置き、もう一本の蓋を開ける。

ペキペキと蓋が捩じ切れる音がする。


私が座席を後ろに少し動かすと、彼女は膝を少し引いた。


「後ろ、よく見るのよ」

「さっきは、見るなって言ってたじゃない」


「助手席で、よ」

「わかってるよ」


 何か言わないと、発進できない気がした。

言っても、あまり楽にはならなかった。


 トラックだけのときはもちろん知らないが、アクセルに対する返事が遅い気がした。

速度が上がり始めると、その遅さが今度は止まるほうにもあることがわかった。

足を離すたびに、後ろの重さが前に押してくる。


 しばらく喋らなかった。


「肩、上がってる」

 エリコが言った。


 気がつくと、思った以上に首が固くなっていた。


「今、話しかけないで」

「はいはい」

 少しきつい言い方にだった。

だが、言い直す余裕がなかった。


 坂道に入ると、エンジンの音が変わった。

対向車が通るたび、風が車体を押した気がした。

私は前を見て、ミラーを見て、また前を見た。

遠くの風景を眺める隙間は頭の中にない。


 空港から乗せてもらった日、私は道が長いと言った。

あのとき、彼女はずっとこの席にいたのだ。


 広い道を離れてから、道は急に細かく揺れ始めた。

 速度を落としても、振動がどこかに残った。

ダッシュボードの上の紙がカサカサと震え、ボトルの水が揺れた。

後ろで何がどうなっているのか、想像すると嫌な汗が出た。


「もう少しゆっくりでいいんじゃない」

「落としてるよ」


「うん。でも」

 私はもう少し右足を引いた。

かえって揺れが大きくなるところがあり、何が正解なのかわからなくなった。


「昨日のうちに、もっと詰めとけばよかったな」


「詰めたわよ」

「いや、動かないように」

「したってば」


 私が何か言う前に、前方で道幅が広がった。私は車を寄せて止めた。

 エンジンを切ると、耳の奥にだけ振動が残った。


「何?」

「一度、見てくる」


 外へ出ると、風が熱かった。

後ろへ回り、ドアを開けた。

細い通路の奥に、昨夜畳んだタオルが落ちていた。

それ以外には、何も変わりはなかった。


 タオルを拾う。隣の棚を押すと、きちんと閉まっていた。

 エリコがドアの下から見上げていた。


「どう?」

「タオルだけ」


「それ、私が最後に出したの」

 彼女は手を伸ばした。私は渡した。


 気をつけているのに失敗することはある。

それくらいはわかっている。

しかし彼女に渡してから、私は棚をもう一度押した。

彼女はその手を見ていた。


「私が運転しようか」

「いや、まだ大丈夫」


「疲れてるでしょう」

「このくらい、平気だよ」

 エリコはタオルを畳み直した。


「平気じゃなくなってからじゃ、困るの」

 私は入口に立ったまま、彼女を見た。


「そんなに信用ない?」

 言ってしまったら、彼女の顔が変わった。


「何で、そういう話になるの」

 エリコは低い声で言った。


「替わろうって言っただけよ」

 私はステップを降りた

。靴が土を踏み、少し滑った。

手すりを掴むと、熱かった。


 鍵を彼女へ渡した。

 彼女は受け取ったが、すぐには歩かなかった。

私はドアを閉め、助手席へ回った。


 車が動きだしてから、水を飲んだ。

 一度口をつけると、なかなか離せなかった。

クシャッとへこんでしまうまで飲み、ようやく膝へ置いた。


 エリコが何か言うかと思ったが、何も言わなかった。

 私は窓の外を見た

。低い草が生えているだけの土地に、ときどき深い溝が走っていた。

そこに水はなかった。

乾ききっているのに、ここを水が通った形だけが残っていた。


「ごめん」


 声が小さくなった。

 エリコはこちらを見なかった。


「聞こえた?」

「聞こえたわよ」


 少し走ってから、彼女は言った。

「次は、先に止まってね」

「うん」

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