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6 火の周りで

 肉を切り始めると、ベンが足元から動かなくなった。

 さっきまでは、私が通るたびに仕方なく場所を空けていたくせに

今は膝へ鼻を寄せ、包丁の動きに合わせて顔を上げる。


「落とすの待ってるわよ」

 エリコが後ろから言った。


「落とさないって」

「あなたに言ったんじゃないの」

 声をかけられたと思ったベンは、尻尾だけ動かした。


 肉の塊は、包みから出すといっそう大きかった。

まな板の外へはみ出す脂を避けながら、筋に沿って刃を入れた。

普段使っている包丁より少し軽く、力を入れると先だけが思わぬほうへ進んだ。


 エリコは隣でじゃがいもの皮を剥いていた。

私が一枚切る間に、彼女の手元では丸いものが二つ三つ、裸になって転がって行った。


「これ、何人分だっけ」

「八人かな。私たち入れて」


「多くない?」

「余ったら明日食べればいいわよ」


 肉のことなのか、人のことなのか、わからない。


 窓の外で車が止まった。

ドアの閉まる音のあと、誰かが家の壁を軽く叩いた

。チャイムを探す様子もない、その叩き方に、いつも来ている人なのだとわかった。


「開いてるわよ」

 エリコが英語で言った。

 ロイは細い男だった。

帽子を取ると、額の白いところと頬の焼けたところが、はっきり分かれていた。

手には折り畳み椅子を二脚持っていた。


 握手をしようとして、私は両手を上げた。片方は包丁、片方は肉の脂で光っていた。


 ロイは頷き、私の肘に自分の肘を軽く当てた。


「大事な仕事の最中だ」

 そう言ったのだとわかった。


続いて何か言ったが、聞き取れなかった。

私が笑うと、ロイも笑って椅子を外へ運んでいった。


「何て?」


「責任重大だねって」

「そんなの、聞くんじゃなかった」


 エリコはじゃがいもを水に沈めた。

 外へ出ると、ロイはもうグリルのそばにいた。


 蓋を開けて中を確かめ、私が来たのを見ると、トングを差し出した。

こちらが持つまで離さなかったので、受け取り方が違うのかと思ったが、何かひと言添えたかったらしい。


「今日は君のものだ」

 今度はわかった。


「燃やさない程度にやるね」


 私がそう言うと、ロイは眉を上げ、それから声を出して笑った。

正しく伝わったのかは怪しかったが、仕事を任されたことだけは確かだった。


 エリコが運んできた皿を脇へ置き、肉を網へ載せた。

脂が落ちて、煙が短く立った。


 風は家の角を回り、足元ではこちらへ流れるのに、顔の高さでは向こうへ抜けた。

煙を避けて立つ場所を変えていると、ロイが自分の椅子を引きずってきた。

座るのかと思ったら、肉の皿を置く台にしてくれた。


 少しずつ人が増えた。

 ロイの妻のジューンは、縁の欠けた大きなボウルを抱えてきた。


隣の夫婦は飲み物を持ってきて、自分たちの椅子も持ってきた。

誰かが紙皿を出し、誰かがテーブルの脚の下へ平たい石を入れた。

私が肉を裏返している間に、食べる場所ができていた。


 エリコは名前を呼ばれ続けていた。

 エリィ、と呼ぶ人もあれば、エリコ、と最後まで言う人もいた。

彼女はどちらにも同じ速さで振り返った。


 日本で一緒に暮らしていたころ、彼女の知り合いに会えば、誰なのかを大抵は知っていた。

知らなくても、前に話を聞いたことのある人だった。


ここでは、紹介されて名前を聞いても、その名前を置く場所が私の中にない。

握手をし、笑い、また肉を見る。

その繰り返しで、私はどうにかこの場にいた。


 ロイが網の上を指した。

「それ、そろそろ」

「わかってるよ」


 口から出たのは日本語だった。


 ロイは頷き、引っ込めた指でビールの飲み口を持ち上げた。


わかっているのは彼のほうだった。

 キャシィが来たときには、最初の皿が空になりかけていた。


 赤い髪を頭の上で雑にまとめ、片手にドーナツの箱、もう片方に野菜の入った袋を提げていた。エリコを見つけると肩を抱き、私を見ると、口の端を上げた。


「やっと会えた」

 英語だった。やっと、というところだけ、よく聞こえた。


「そんなに待ってもらってたんですか」

 私が言うと、彼女はエリコに顔を向けた。


「話せるじゃない」

「ゆっくりならね」

 エリコが答えた。


「じゃ、無理だわ」

 キャシィはそう言って笑った。ゆっくりなのを待てないのだろう。


 袋からトマトを出し、エリコに渡した。

そのうちの一つは、下のほうが少し割れていた。


「これは先に使って」


 彼女は傷を指で示した。

エリコは頷き、それを別にした。


 やがてキャシィは私の横へ来て、肉の焼けるところを見た。


「帰ってきたの?」


 答える前に、彼女が言い直した。


「住むの? ここに」

「いや。今回は、手伝いに」


「手伝い」

「引っ越しというか。荷物とか」


 言葉が足りず、私はトレーラーへ顎を向けた。


「彼女と西へ行くんでしょう?」

 そう聞こえた。


「ああ、その前に、少し走ってみるらしい」


 私は肉を持ち上げて裏を見た。

網にくっついたところが剥がれ、小さな炎が上がった。


「気をつけて」

 キャシィが言った。


「大丈夫、燃えてないよ」

そう私が答えたあと

 彼女は私の顔を見て、何か言いかけた。

だがジューンに呼ばれ、箱の蓋を持ち上げてそちらへ行った。


 どのくらい焼ければいいのか、急にわからなくなった。

肉を刺すトング越しに、熱さが顔をほてらせた。


 食べ始めると、周りの話は私がついていける速さを越えていた。


 どこかの店が閉まった話、誰かが膝を悪くした話、車の部品が届かない話。

ひとつの話を聞き取ろうとしている間に、別の人が思い出したことを話しだし、皆が笑った。

私は皆が笑い終わるころ、さっきの話の意味がわかった。


 それでも、肉は段々となくなっていった。

ロイは私の肩を叩き、皿をもう一度差し出した。


 エリコはテーブルの向こうにいた。

片膝を椅子の上へ載せ、キャシィの話を聞いていた。

口を開けて笑い、言い返し、その途中でジューンへ手を伸ばして、空の皿を受け取った。


 知っている仕草もあった。知らない表情もあった。

 私といるときには、彼女の話がどこへ向かっているかを、私は大抵わかったつもりでいた。

途中を省いて聞いても、返事ができた。

ここで彼女が話す英語に、私の知らない出来事の続きを知っている人たちが、すぐに返事をする。


 私は新しいビールを開けた。


「エリィが、あんなふうに焼いたことがあった」

 隣でジューンが言った。彼女は私の顔を見て、ゆっくり続けた。


「冬。みんなに食べさせるって。でも、火が消えたのに気づかなくて」

 肉を指し、それから両手を開いた。


 エリコがこちらを見た。


「その話、しなくていいの」

 日本語だった。


「聞いてないよ」

「今、聞いてるでしょう」


 皆が笑った。言葉は通じなくても、話の具合はわかるらしかった。


「最終的には、ちゃんと食べられたのよ」

「誰が?」


 私が聞くと、ジューンがロイを指した。

ロイは両手を上げた。


何かを弁明するように、長く話した。

今度はエリコが一番笑った。

 私も笑った。少し遅れて、胸の中に、名前のつけにくい感触が残った。


 彼女の失敗を、私は知らなかった。

その失敗を何度でも笑って話せる人が、ここにはいた。


 日が低くなると、皿の上に残った脂が白くなり始めた。

 ロイたちは椅子を持って帰り、キャシィだけが残った。

彼女は紙皿を重ね、残りの肉を容器に移し、空き缶を一つずつ袋へ落とした。

さっきまでのフランクな話し方から、片づけずに置いて帰るんだろうと、私は勝手に思っていた。


 最後にエリコが肉を少し包んで渡すと、キャシィは一度断り、それから受け取った。


「これ、あの人が好きなの」


 誰のことかと思っていると、エリコが夫の名前らしいものを口にした。キャシィは頷いた。


 そのあと、二人の声が低くなった。


 私はグリルの網をこすった。

聞かないようにしていたのではなく、もう聞き分ける力が残っていなかった。

金属のこすれる音が、自分の手元ではっきりするのが気持ちよかった。


 キャシィが去るとき、エリコは途中まで一緒に歩いた。

 私は網を戻し、蓋を閉めた。二人は車の横で向かい合っていた。

キャシィの手には、肉の包みがぶら下がっていた。


 帰ってきたエリコに、私は聞いた。


「旦那の愚痴?」

「それもね」


「仲が悪いのに、好物は持って帰るんだ」

「持って帰りたかったんじゃない?」


「まあ、そりゃそうだろうけど」

 エリコは私がまとめた空き缶の袋を持った。

底を一度見てから、別の袋を重ねた。


「あの人、明日また電話してくる?」

「かもしれないわね」


「出かけるって言っといた?」

「言ったわ」


 私はその返事を聞いて、台所へ皿を運んだ。

 後ろでエリコが、持ってきた容器の蓋を合わせていた。

合わないものを何度か回し、別の容器へ載せ直した。

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