5 箱
朝だと思って目を開けると、窓はまだ暗かった。
携帯を見た。
こちらでは四時を少し過ぎたところだった。
日本の時刻を考えかけて、面倒になった。
狭いベッドで寝返りを打つと、壁に肘が当たった。
薄い壁は向こうに冷えた外気があるように冷たかった。
寝る前は邪魔で足元で丸まっていた毛布を肩まで引き上げた。
奥で、エリコが咳をした。
起きているのかと思ったが、そのあとは音がしなかった。
ベンの爪の音が床を掻いて動き、私のところで止まった。
ベッドの縁から鼻が出てきたので撫でると、
それで用は済んだらしく、また奥へ戻っていった。
携帯の画面をつけ直した。
水無月の名前は、少し前のところにあった。
来ていたことを知らなかったわけではない。
件名だけ見て、そのときは開けなかった。
あとでと思って、あとになっても開けなかった。
指で画面を動かし、その名前を上へ送った。別のメールが並んだ。
仕事の連絡を一通読み、返事を途中まで書いた。
今返せば、すぐ次が来る気がした。下書きのまま閉じる。
小さな窓の端が少し白くなってきた。
エリコが起きてきたとき、私はコーヒーメーカーの前に立っていた。
「早いのね」
「使い方がわからん」
「そこのボタン」
「水は入れたよ」
「粉は?」
「入れた」
彼女は蓋を開けて見た。
「多いわねぇ」
「これくらいだろ、普通」
「まあ、今日はそれでいいわ」
コーヒーが落ち始めると、狭い部屋に匂いが広がった。
エリコは窓のブラインドを少し上げ、外を見た。
まだ寝るときの薄い長袖を着ていて、袖口を指の付け根まで引っ張っていた。
「寒い?」
「少しね。昼はまた暑いけど」
私はカップを二つ出した。
昨日洗ったものだった。
片方は取っ手が大きく、もう片方は小さかった。
「どっち?」
「どっちでも」
小さいほうを彼女へ渡した。
受け取るとき、彼女は両手で包んだ。
冷蔵庫が突然、ごとごとと鳴った。
私は顔を上げた。
「氷」
エリコが言い、二人で少し笑った。
朝食のあと、テーブルの脇の段ボールを開けだした。
エリコは上の紙を剥がしたが、途中で手を止め、私のほうへ押した。
「何から始める?」
「まず出してみないとね」
私は蓋を起こした。
一番上に、古いタオルが畳んであった。
それを除けると、延長コード、軍手、口の欠けたプラスチックの容器、太さの違う紐が出てきた。
工具箱かと思っていたが、小さな台所の引き出しをそのまま移したような中身だった。
「使うものと、捨てるものを分ければいいんだろ」
「うん」
「ベリンダに送るものも、まだある?」
「あれば。でも、写真とか手紙はもう送ってあるから」
私はスーパーの袋を広げ、椅子の背にかけた。
「とりあえず、明らかにいらないものから」
容器の底に、錆びた釘が何本か入っていた。
捨てるには袋を突き破りそうだったので、古い紙に包んだ。
空の乾電池の箱、固まった接着剤、キャップだけになったペン。
それらについては、彼女も何も言わなかった。
一本のコードを引き上げると、ほかのものが絡まって持ち上がった。
私は椅子に座り、膝の上でほぐした。
「こういうの、取っとくんだよねぇ」
「何の線?」
「見たことない端子だな。何かの充電器じゃない?」
「使えない?」
「本体があればね」
答えながら、本体を見た気がした。箱の底に黒いものがあった。
しかし、引き出してみると、懐中電灯だった。
大きくて重かった。握るところに黒いテープが巻いてあり、スイッチの周りに赤土が詰まっていた。
押してみたが、つかなかった。
「電池か」
尻の蓋を回そうとすると、固くて動かなかった。もう一度力を入れ、ようやく少し回った。
中には白い粉がこびりついていた。
「漏れてる。これは駄目かも」
私は懐中電灯を袋のほうへ寄せた。
「それは、ちょっと」
エリコが言った。
「使ってるの?」
「使ってないけど」
私は手を止めた。
「直るかどうかは、わからんよ。今なら小さいやつのほうが明るいし」
「うん。わかってる」
それでも彼女が手を出したので、渡した。
エリコはテープの巻いてあるところを握り、親指でスイッチを一度押した。
つかないことは、今見たばかりだった。
「ハリーの?」
「そう」
「よく使ってたんだね」
「うん」
彼女はそれをテーブルの端へ置いた。
しばらく、コードをほぐす音だけになった。
私は作業の順番を考え直した。
必要かどうかを一つずつ聞いていては、終わらないだろう。
けれど、終わらせるためだけなら、誰に頼んでもできる。
そう考えると、自分が何をしに来たのか、少しわからなくなった。
「これも、ハリーの?」
布に包まれたカップを出した。
飲み口の縁が欠けていた。揃いのものらしい、同じ模様の皿もあった。
「それはいらない」
エリコはあっさり言った。
「いいの?」
「欠けてるし、使わないもの」
「でも、こういうほうが……」
「何?」
「いや、毎日使ってたんじゃないの」
「ベリンダが、割れたら捨ててって言ってた。棚の奥に残ってたのよ。
私も一度使って、唇切りそうになったし」
そう言われれば、取っておく理由はもうなかった。
私は皿とカップを別々に紙で包んだ。
懐中電灯には触れなかった。
次の箱は、中のものが一つずつ新聞に包まれていた。
ほどくたびに、使わない金具や小さな部品が現れた。
何かを直そうとして買ったのか、直して余ったのか、見ただけではわからなかった。
エリコがその中から、短い木片を取り上げた。
「これ、何?」
片面だけ白く塗ってあり、真ん中に細い線が引かれていた。
「当て木かな」
「使う?」
「今は、別に」
「じゃあ、これはいいわね」
彼女が袋へ入れようとしたので、私は手を出した。
「ちょっと見せて」
受け取って裏返した。
釘穴が二つあり、片方だけが楕円に広がっていた。
長く使って緩んだのだろう。角は手で触れるところだけ、少し丸くなっていた。
「何かわかった?」
「いや。こういうの、あとで何だったかわかることがあるから」
「でも、それを言いだしたら、全部そうじゃない?」
「まあね」
私は木片を膝の上へ置いた。
彼女は何も言わなかった。
何も言われないと、こちらから説明したくなった。
あとで必要になる部品はある。
捨てた翌日に使い道がわかることだって、ないわけではない。
しかし、それは彼女も知っているだろう。
私は木片をテーブルへ移した。懐中電灯から少し離れたところへ置いた。
「とりあえず、わからないものは別にしよう」
「うん」
「あとで、ロイにでも聞けばいい」
「そうね」
それで、椅子が一つ使えなくなった。
座面には、判断のつかないものが少しずつ積まれていった。
昼近くになって、エリコが外へ出た。
ベンを連れて少し歩くという。
私は椅子に残り、工具の汚れを古い布で拭いた。
入口のドアが閉まると、二人でいたときには気づかなかった機械の音が聞こえた。
冷蔵庫、エアコン、そのどちらでもない、床の下からの低い音。
家の中は、止まっているようで、どこかがいつも働いていた。
箱の隅から、小さなノートが出てきた。
開くと、日付と数字が並んでいた。
燃料の量らしい数字、走った距離らしい数字、その横に町の名前。
何ページか先には、部品の名前と値段が書いてあった。
冷蔵庫のフィルター。タイヤ。何かのパッキン。
私は自分の鞄に入っている、似たようなノートを思い出した。
仕事で使うものの型番、忘れないように書いた寸法。
書いたときは必要だったのに、今見ると何の数字かわからないものもある。
ハリーの字は、ページの前のほうでは小さく詰まっていた。
後ろに捲っていくと、行の間が広くなり、数字が少し傾いていた。
私はその違いを見ながら、勝手に時間を当てはめようとしている自分に気づいた。
ノートは最後まで使われてはいなかった。
白いページのほうが多かった。
閉じて、工具の上へ置いた。
外で、エリコが誰かと話していた。
笑い声がした。
相手は男だった。
短いやり取りのあと、また笑った。
私は耳を澄ましたが、何を言っているかまではわからなかった。
ドアが開くと、ベンが尻尾をゆっくりと振りながら先に入ってきた。
エリコは帽子を脱ぎ、テーブルの端へ置いた。
「ロイだった。明日の肉、楽しみにしてるって」
「明日?」
「あ、今日ね。私まで時差ぼけになっちゃった」
「こっちは今日が何日かも、怪しいけどね」
彼女は笑い、ノートに気づいた。
「それ、あったのね」
「探してた?」
「うん。フィルターの番号が書いてあるはずだから」
ページを繰る手つきに迷いがなかった。
目当てのところを開き、携帯で写真を撮った。
「これ、使うもののほうでいいね」
私は聞いた。
「ええ。助かった」
ノートは台所の引き出しへ入った。
ほかの説明書やレシートの間に、収まりのよい隙間があった。
エリコが戻ってきて、テーブルの懐中電灯を見た。
「最初の冬にね」
私は布を置いた。
「何?」
「ここ、夜に電気が落ちたの。私、まだ慣れてなくて。ブレーカーがどこにあるかも、ろくにわかってなくて」
彼女はテーブルの向こうに座った。
「ハリーがそれ持って来たのよ。歩くの、もう結構しんどかったころ」
「それで、直してくれた?」
「私が直したの。ハリー、椅子に座って、あそこ開けろとか、そっちじゃないとか、言うだけ」
笑ってから、彼女は懐中電灯のテープを爪で押した。
「私が手元を見たいのに、違うところばっかり照らすの。
顔に当てたりしてね。見えないって言うと、こっちも見えないって怒るのよ」
「そりゃ困る」
「困ったわよ。寒いし、暗いし」
私は彼女の話の続きを待った。
エリコはまだテープを触っていた。
その端が少し剥がれかけていたが、剥がさずに押し戻した。
「でも、帰らなかったわ」
それだけ言うと、彼女は手を離した。
エアコンが止まった。
急に静かになり、外の音が聞こえ出した。
「これ直るか、見てみようか」
私は言った。
エリコは少し考えてから首を振った。
「無理しなくていい。使いたいわけじゃないから」
「そうか」
「うん」
捨てないでおこうとも、残そうとも、どちらも言わなかった。
懐中電灯はそこに置いたまま、私たちはまた箱へ手を入れた。
午後になる前に、箱は一つ空いた。
袋に入ったものは思ったより少なく、残すものと、あとで考えるものが、椅子と床の上に広がっていた。
元の状態より散らかったが、エリコは空いた箱を見て、よかった、と言った。
「これでよかったの?」
「だって、開いたもの」
私は畳もうとしていた蓋から手を離した。
「ずっと、開けなかった?」
「何回かは。でも、一人で始めると、途中でほかのことしちゃうのよ。
洗濯とか、電話とか。そうしてるうちに、またそのまま」
彼女は散らばった新聞紙を集めた。
私は空の箱を持って外へ出た。
日なたでは、段ボールの匂いまで乾いて感じた。
箱の底を広げ、古いテープを剥がした
。抵抗する紙を押さえると、ぱりぱりと音がして、ようやく平らになった。
戻ると、エリコが地図をテーブルに広げていた。
「それ、何」
「チャコ」
「行くの?」
「この家、動かしてみようと思って」
私は窓の外を見た。
トラックが目の前に停まっていた。
昨日は大きく見えた車が、この中から見ると、思ったほど大きくなかった。
「いきなり西海岸まで行く前にね。一度、短いところで」
「短いって、どのくらい?」
「五日か、一週間くらい」
「それ、短いのかね」
「帰ってくるんだから、短いわよ」
彼女は地図を指で辿った。爪の脇に、箱のクズが少し残っていた。
「いつ出るつもり?」
「準備できたら」
「まだ荷物、残ってるよ」
「うん」
「全部片づけてからじゃないの?」
彼女は地図から指を離した。
「そう思ってたんだけど」
その先は言わなかった。
私はさっきの木片を持ち上げた。
捨てるつもりで触ったのではなかった。
地図の端が丸まっていたので、そこへ置いた。
ちょうどよく押さえになった。
「タイヤ、見ないとね」
「うん」
「水と、ガスも。それに連結のやり方、ちゃんと教えてもらわないと」
「ロイに頼めるわ」
「じゃ、肉をうまく焼かないといかんな」
エリコが笑った。
彼女の横から地図を覗いた。
指が辿った道を、今度は私が目で追った。
まだ知らない地名が、途中にいくつもあった。
台所で、冷蔵庫が氷を落とした。
エリコは顔を上げなかった。
私もそのまま地図を見ていた。




