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15 向こう側の朝

古き友人、痛みと傷口に触れることができる人、こちらの痛みは友人の痛みと共通で、そして、その領域は同心円ではなく、また、コインの裏表でもなく、重なったところだけが焼けずに残った不出来なせんべいのように、味わうでもなく、懐かしみながら、うまく焼けなかったことを思う。

 水無月と電話で話したのは、その晩だった。

 こちらはもう日が落ちてかなりになる。

向こうは明るい日中の空気であることを頭の中ですり合わせて、通話ボタンを押した。

待っている間、窓に映った自分の顔を見ていた。

映る自分の頬に、鉢植えの葉が重なっていた。


「もしもし」

 聞き慣れた声のはずだった。

だが、私が聞き慣れているその声より、電話に出るために整えられていた。


「今、大丈夫?」

「大丈夫だから、かけてって書いたんですけど」


 私は笑いかけて、やめた。

彼女も笑わなかった。すぐに紙を動かす音がした。


 部屋を引き払うのは月末だった。

私の箱を取りに行くには、帰国後では間に合わないかもしれない。

昨日送ったメールには二日以内に方法を知らせると書いたので、今日のうちに業者連絡していたのかもしれない。

引き取りと保管先を頼めるところは見つかった。

箱の中身を訊かれ、答えられなかった。


「大きさは?」

「普通の段ボールよ」


「普通って、どのくらい?」

「写真、送ったでしょう」


 私は膝の上に置いたメモを見た。縦、横、高さ、と書いた下が空いている。


「測るもの、ある?」

 電話の向こうで、何かが硬く当たった。


「あるけど、今じゃないとだめ?」

「いや」

 今じゃなくていい、と続ける前に、彼女は電話をどこかへ置いた。

遠いところで引き出しを引く音がした。

私は何もせず座っていた。

エリコは寝床のほうにいたが、カーテンは半分閉まっていた。

ベッドの毛布の端から、裸足の踵が見えた。


 戻ってきた水無月は、箱を一つずつ測った。

私は数字を書き留めた。

二つの箱は同じ大きさではなかった。


「これ、小さいほう、私のものも入ってるかもしれない」


「開けていいよ」

「もう、開けました」


 その言い方で、私が何を許したつもりになっていたのか、ようやくわかった。

水無月は、私に叱られるのを恐れて箱を閉じていたわけではない。


「母の手紙を探してるの。引っ越す前に見たかったんだけど」

「君のお母さんの?」


「ほかに、誰の」

 今度は向こうが先に少し笑った。


 昔、水無月の母から手紙が来ると、彼女は台所で封を切った。

便箋を広げて読むより先に、封筒を逆さにして振った。

何か入っていることがあったのだ。

切手だったか、薄い紙に包んだ何かだったか。

思い出そうとすると、封筒を振っている手だけが、何度も同じ動きをしていた絵が出てきた。


「僕の本に挟んだ?」

「わからない。それで訊こうと思ってたんだけど、まあ、覚えてないわよね」


「どういう封筒?」

「見ればわかると思ったんだけど」


 見ればわかるということが私への言葉なのか、彼女自身に向けたものなのか。


 箱の中には古い帳面と本、写真があり、彼女は、本の題名を二つ読んだ。

どちらも読んだ覚えがなかった。

あと、小さい白い皿、と言った。


「皿?」

「青い線の」


「それ、君が使ってたんじゃない?」

「あなたが持ってきたのよ」


 私は窓を見た。白い皿なら、いくつも頭に浮かんだ。

どれも誰かの家にあった。


「割れないようにして送るから」

 水無月が言った。


「包むのは、その、頼んである業者に…」

「もう包んであるの」


 その言葉のあとで、向こう側の生活の音が聞こえてきた。

水が流れ、止まった。

彼女が受話器を離していたのか、ほかに誰かがいるのか、それを聞く理由はなかった。

私はメモの数字を見直した。


 集荷の候補日を二つ伝え、彼女の都合を聞いた。

明日のうちに確定させて連絡する。

水無月は、そこだけは、はっきりした声で、お願いしますと言った。


「エリコさんにも、お手数をかけて」

「いや、それは」


「お礼は自分で言います」

 私は返事をしなかった。


「まだ、そちらにいるの?」

「うん」


「そう」


 そっちに残してきた仕事の都合がつけば少し遅くなるかも

それからどう動くはまだ決まっていなかったが

いずれ帰るつもりなことが、頭の中で組み立てられたが声に出さなかった。


彼女は朝の忙しい時間に、二つの箱を測ってくれたのだった。


私は、手紙が出てきたら連絡して、と言った。


「出てこなくても、荷物は渡していい?」

「うん」

「帰ってからちゃんと見といてください」

「もちろん」


 彼女はそこで初めて、ちゃんと息を吐いたようだった。


 電話を切ると、窓の私の顔の前の葉が少し近く見えた。

携帯の温かみが手のひらにある。

日本の朝が消えるには、指を一度動かすだけでよかった。


 エリコはカーテンを開けて出てきた。

肩に薄い布を掛けている。


「終わった?」

「うん。荷物、送ってもらうことにした」


「そう」

「何度くらい、連絡あったの。君のほうに」


 エリコは冷蔵庫の前で止まった。


「数えてないわ」

「そんなに?」

「数えるほどじゃなかったけど……」


 彼女は扉を開け、何も出さずに閉めた。

水を飲もうとしたのかもしれない。

私が座っていたせいで、カップのある棚へ行きづらかった。


「で何んだって?」

「荷物のこと」


 私は待った。彼女は肩の布を直した。


「ほかにも少し」

 それ以上は言わなかった。

私は自分の膝の上のメモを二つに折った。

いつか二人が出会って、一人の男を挟んだ話をすことはあるだろうと思っていたが

私の知らない話が、すでに二人の間にあるとは想像できなかった。


「水、飲む?」

 訊くと、エリコは頷いた。

私が立ち上がるとき、その指が背中に触れた。

通るために寄せたのか、呼び止めたのか。

私は振り向かずにカップを二つ出した。

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