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13.5 体の残る場所(後編)

後編です。筆休め?

 鉄格子のあるフロントを横目に、外へ出た。

 冷たい空気だった。

頬に当たると、かすかに湿り気があった。

海が近いのだと思ったが、海そのものは見えない。


夏は寒く、冬は暖かいというこの街では、季節についての心得まで、少し持ち替えなければならないらしかった。


 遠くで消防車が、ばあばあと鳴っていた。

その音が薄くなると、今度はホテルのボーイがタクシーを呼ぶ笛が聞こえた。

どこかでは火事が起こり、どこかでは客が車を待つ。


私にはどちらの用もなかった。

ボーイなど居ない安宿から出て、タクシーを使うまでもない隣の店へ行く。

それだけの外出だった。


 散歩を楽しむ暇もなく、数歩でデリに着いた。

間口は一間ほどしかない。まぁ、こちらで一間というのも変だが。


狭い店内に入るとすぐに袋や箱が積まれ、棚の隙間にまで売り物があった。

入り口でいったん足を止めたが、いらっしゃいという声はしない。


声をかけられなければ入ってはいけないわけでもないのに、私はそこで一呼吸ぶん待ってしまった。

 日本で身につけた小さな習慣が、こういうところで足を引っぱった。


 一番奥の冷蔵庫へ進む。

腹に何か入れるために来たはずなのに、気持ちは早くもビールに向かっていた。

冷蔵庫の扉を開けると、外より乾いた冷気が手に触れた。


 ビールは六本ずつプラのリングで束になっていた。

 一本づつの値段はついていない。

六本の値段だけがあり、ご丁寧に、ばらすなという注意書まで書いてある。


こういう英語は読める。

読めるときには、大抵こちらの自由がひとつ減る仕組みになっている。


 六本もいらないだろう、と一度は思った。


 しかし、足りなくなってまた買いに来る手間が省ける。

そういう都合の良い考えになるまでに、たいして時間はかからなかった。

明日の自分にも飲む権利はある。

そういうことにして、赤い缶の束を引き抜いた。


冷たさと重さが指にかかる。

持ったとたん、多いかなと思っていた六本の束は、全てが自分のものになった。


 入り口近くのカウンターへ戻ると、そこに店員がいた。

 ビールをカウンターに置き、壁の品書きから、なんとかという名前を指差して注文した。


店員は何か言った。

時間がかかる、ということらしかった。


そのあとにも呟いているのか聞かせたくないのかが分からない言葉が続いたが、そんなものはどうでも良かった。

 ただ、聞き返したところで、もう一度言わせたところで次にはわかるという保証がなかった。


通じないと思ったのか、彼は同じ言葉を少し大きな声で繰り返す。


時間がかかる、どんなものが出てくるか分からないものに執着するより

私はガラスケースの中のサンドイッチを指差した。

 チーズとハムを、もう挟めませんというところまで詰めたパンだった。


パンは薄く潰れて、チーズとハムの層が、ほとんど同じ厚さをしている。


これは何か見ればわかる。

 店員はまた何か尋ねた。ソースか、付け合わせか。

私はノー、ノー、ノーと三、四度繰り返した。


 一度で足りるところを繰り返すと、自分の声が思いのほか強く聞こえた。


店員の手が、そのたびに一瞬止まる。

私は断りたいだけだったが、何かを拒絶しているようにも聞こえただろう。

 面倒くさそうにさっさと終わらせたい表情の店員だ。


しかし向こうから見れば、質問に答えず、同じ言葉ばかり重ねる客だったかもしれない。

こちらの不自由は、黙っていれば相手には見えない。

見えないまま、態度だけが相手に渡ってしまう。


 パンを包む手もとを眺めながら、もう少し違う言い方があった気がした。

見ていると包み紙を巻いているのか引っ付けただけなのか分からない無様な包みができた。


 そのとき、六本のビールにこのパン一本では釣り合わないことに気がついた。

ビールが余る。

余ったビールたちに寂しい思いをさせるのは申し訳ない。


そういう立派な理由を思いついたので、カウンター横に下がっていた揚げた豚の皮と干した牛肉も追加した。

 今度は指差すだけで通じた。


 店員が袋を広げ、私が品物を寄せる。


短い間だけ、二人の手が同じ仕事をした。

代金を払い、袋を受け取る。

礼を言うときには、さっきより少し声を落とした。


 酒は茶色の紙袋に入っていた。ほかのものは、ごく薄いスーパー袋だった。

 外へ出ながら、酒を見えなくするのはなぜなんだろうと考えた。


映画に出てくる、足もとのおぼつかない男も、茶色い紙袋に瓶を入れている。

日本でわざわざ中身を見えなくして渡される女性用のものとは違う。


なんとなく感じた違和感を、私は知っていることに結びつけて納得した。

しかし、この袋ひとつの理由さえ、本当のところは知らなかった。


 またエスカレータの二枚の扉を手で動かし、部屋に戻った。

 鍵を確かめ、机に袋を置く。


紙が擦れる音が、夜中の部屋では大きかった。

パンの包みを開くと、微かにチーズと肉の匂いがした。


缶を一本外し、口を開ける。

短い音が鳴って、それでようやく、今夜の用事が終わった気がした。


 パンは重かった。

噛むたびに中身がずれ、落とさないよう両手で持ち直した。


ビールを飲む。

冷たさが喉を通り、腹に届いた。

眠くなるかどうかは、まだわからなかった。


 残りの五本は、机の奥へ寄せて置いた。

 日本では今ごろ、とまた考えかけたが、今度は指を折らなかった。


時刻がわかっても、向こうの部屋へ戻れるわけではない。

誰かの声を聞きたい気持ちはそのままあった。

それを急いで片づける代わりに、私はもう一口パンを食べた。


 窓の外で、また笛が鳴った。

 買ってきたものを広げた机と、脱いだ上着と、半分になったパンがそこにあった。


寝るだけだった部屋に、私のしたことが少しずつ残り始めていた。

日本から着いた体を、今夜はここで養う。

そんな当たり前の仕事に、私は思ったより長くかかっていた。


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