13.3 体の残る場所(前編)
少し時間が戻ります。書ききれていなかった部分です。
ここで少し、時間を戻しておきたい。
日本からサンフランシスコに着いて、まだ体がこの街の時刻を知らなかったころのことだ。
夜中に目が覚めた。
目を開けるより先に、もう眠れないとわかった。
眠りの底から押し上げられたというより、体のどこかで係の者が時間ですと告げ、勝手に明かりをつけてしまったようだった。
三時間ほどしか寝ていない。
昼間はあれほど眠く、歩いていても膝から下が他人のもののようだったのに。
今は寝返りを打つたび、シーツの皺が皮膚に触れるのがわかる。
十七時間の時差など、着いてから一度眠ればどうにかなると思っていた。
時計は直った。日付も確かめた。
それで済んだつもりになっていたが、体には何の連絡もなかった。
胃袋も瞼も、それぞれ日本での勤めを続けている。
頭だけが、どちらにも属さずにいた。
昼間聞いた英語が、意味を失った音のまま残っていた。
こちらに向けられた言葉なのか、隣の人への言葉なのか。
その区別さえ遅れる。
笑うところで黙り、もう終わった話に頷く。
相手は次へ進んでいるのに、私はひとつ前の音を頭の中で裏返している。
森に入って鳥の声を聞くようなものだった。
鳴いていることはわかる。
何を知らせ合っているのかがわからない。
日本では、人の声は聞き流していても暮らせた。
聞いていないことを悟られずに返事をするくらいの横着もできた。
ここでは、その横着をするための足場がなかった。
宿は下町の少し外れにあった。
ホテルという名で予約したのだからホテルなのだろうが、部屋に風呂も便所もない。
共同のシャワーとトイレは、廊下を十メートルほど進んで、突き当たりを右へ曲がったところにある。
シャワーでも浴びようかと思った。
そのためには起きて、服を着て、鍵を持って廊下に出なければならない。
誰にも会わなければ十メートルだが、誰かに会えば、そこには軽い挨拶やらどちらが先かの順番やら、まだうまく扱えないものが挟まってくる。
そう考えていると、背中が寝具に深く沈んだ。
湯を浴びたいのか、ただ今の自分を少し変えたいのか。
そのへんもはっきりしなかった。
天井を見上げた。
日本は何時だろう。
十七を足すのか、七を引いて日を変えるのか。
指を折り、途中でわからなくなって、また初めから数えた。
午前中か?
その答えにもあまり自信はなかったが、日本は明るい時間だろうということで、計算をやめた。
向こうでは、もう一日が始まり動いている。
誰かが湯を沸かし、誰かが出かけ、私のいないところで短い会話が交わされているだろう。
出発するまでは、自分がそこからいなくなることを、自分の側からばかり考えていた。
こうして離れてみると、私が抜けたあとにも滞りなく続く時間のほうが気になった。
続いてくれなければ困る。
それなのに、何事もなく続くのだと思うと、小さな空が胸に出来きた。
電話をするつもりはなかった。
無事に着いたそれだけだが、その先に何を言えばいいのかわからない。
眠れないと言ったところで、時差だからだよ…と言われるに決まっている。
それでも声を聞けば、時差だけでは片づかないものまで口に出してしまいそうだった。
あるいは、何ひとつ言えず、元気だとだけ答えてしまうかもしれなかった。
私はもう一度寝返りを打った。
普段なら、眠ろうとせず、ぐずぐずと寝具の中にいれば、そのうち眠りのほうから迎えに来る。
今夜は来ない。
待ち合わせの場所を間違えたように、体だけが律儀に起きていた。
明日のために寝なければ、と頭の中のもう一人が言った。
その声に急かされた気がして、私は起きた。
寝るために起きるのである。
妙な話だが、隣にデリがあったのを思い出したのだった。
何か腹に入れ、ビールの一本か二本飲めば、胃袋に血が集まって眠くなるだろう。
ずいぶん都合のよいことだが、夜中の私には十分な説得力があった。
シャワーには行けないのに、ビールなら行ける。
そういう自分を、日本からそっくり連れてきていた。
服を着ると、部屋が急によそよそしく、誰かの部屋になった。
さっきまで横たわっていたベッドにも、借り物の感じが戻っていた。
鍵を持ち、廊下に出る。扉を閉めてから取っ手を引いた。
かかったようでもあり、何かの拍子に開きそうでもある。
もう一度引いた。
さらに押した。
鍵の頼りなさを確かめているうちに、自分の手つきまで頼りなくなった。
廊下を出た先にあるエレベーターはとても古くさく、時代かかっていた。
外側の開き戸も、籠の内側の蛇腹の扉も、自分で開け閉めする。
これはまるで1960年台の映画『ブリット』に出てくるホテルそのままだ。
こちらはもう二十一世紀だったが、扉は同じように開ける人の手を待っていた。
蛇腹を引くと、金属の節々が順番にギシギシと鳴った。
自分でしっかり閉め切らなければ、籠は動かない。
最後まで引き寄せ、手を離す。
足もとがわずかに揺れ、体が下へ運ばれ始めた。
小さな仕事をひとつ済ませ、下に降り出したことで私はいくらか落ち着いた。
部屋では気づかなかった街の音が、下のほうから上がってきた。
まだ夜は終わっていない。
眠れずにいる私を待たず、街は街の夜を続けていた。
いきなり飛びますが、まぁ、そんなもんでして。




