13 シンクの皿
ジューンに抱かれていたベンは、エリコを見てもすぐには降りようとはしなかった。
前脚だけこちらへ伸ばし
胸の下から支えているジェーンの腕が緩むと、今度はその腕に爪をかけた。
エリコが笑った。
笑いながら両手を出して、犬の重さが移ってきたところで、顔を毛の中へ埋めた。
私は後ろで食料品の袋を提げていた。
袋の底から、鶏肉の冷たさが触れている腿に伝わってくる。
ベンはエリコに抱かれながら
私の指先をひと舐めし、またジューンを見た。
旅行中に何か覚えたらしく、ジェーンが舌を鳴らすたび
エリコの腕の中で尻だけが動いた。
「夜、少し鳴いたけど」
ジューンはそう言ってから、犬の頭を撫でた。
その先の英語を私は聞き取れなかった。
エリコは笑うのをやめ、ありがとう、と二度言った。
返してもらった荷物には
ジェーンに渡した覚えのない青い縞のタオルが混じっていた。
エリコが渡された袋の中からそれを抜き取ろうとすると
ジューンが袋の口を押さえた。
彼女の手は大きく、指の関節に白い粉のようなものがついていた。
「洗って返すわ」
「いいのよ」
二人はそのやり取りを、言い方を変えて何度かしていた。
私は先に家へ入った。
出発前と同じ場所に置いたのだが、窓から見える隣の車が少し近かった。
ロイが外で車輪を確かめて回っている。
窓越しに手を上げると、彼は工具を持ったほうの手を上げ、そして屈みこんだ。
彼の背中の向こうに、まだ犬を挟んで立っている二人が見えた。
部屋に入り、荷物を置いて、鶏肉を袋から出した。
冷凍ではないが、しっかり冷えた肌色の肉塊は、指の熱を奪って、代わりに痛みを戻してきた。
鶏肉は塩を振って焼くために、多めに買っていたので、今から使う分を取り分けて
残りは冷蔵庫に収まっていく。
何に使うとも言わずにエリコが買い物カゴに入れていた玉葱を袋からだし
切り始めるために皮を剥いた。
あまり切れる包丁でも無く薄く切るつもりが、切っていると外側だけ大きく剥がれてしまう。
玉ねぎの香りがしてきた頃に目が沁み、そして彼女が戻ってきた。
「手伝う?」
「ん、まぁ、もう少しだから」
包丁を握って作業していると、自分の作業がどの程度進んだのか
あまり客観的に見れなくなるものなのか、その進行具合が実際より多く感じる。
まだフライパンも出していなかった。
彼女は中身を出し切らずに放置された買い物袋を空にし
それを畳んでから冷蔵庫を開け、また閉めた。
私の肘のすぐ後ろで、扉から出た冷気が背中を包んだ。
彼女が二度目に開けようとしたとき、私は少し前へ寄った。
「ごめん」
「ううん」
ベンは縞のタオルを咥えたまま、台所から寝床へ行った。
エリコは私から離れ、自分の寝床で落ち着いているベンを跨いで、椅子に座った。
玉ねぎ作業を終えて、包丁を流しに立てて後ろを振り向いて、冷蔵庫からマーマレードと醤油の瓶を取り出す。その横に密閉容器があって何かのオイル漬けが入っている。
「ねぇ、これ使っていい?」
冷蔵庫から顔を上げて、彼女の方を見た。
彼女は携帯を見ている。
いつもは私が何か訊けば顔を上げるのだが、伏せたままで見える顔は
いつも私と話す時の顔では無かった。
明るい画面を見下ろしているせいか、口元が下がって見えた。
「ねぇ」
「ああ、ジェーン」
携帯のテキストの相手の話だ。
容器を手に持ったままの姿を見てもオイル漬けのことは、返事は返ってこなかった。
「ジューン、何て?」
「いつ?」
何がいつなのか、わからない。
「夜、鳴いたって」
「ロイのベッドに入れたら、寝たって」
携帯でのやり取りの話では無かった。
そこで立ち話していた犬のことを説明された。
「甘やかされたな」
エリコは携帯から目を上げず、小さく鼻で笑った。
フライパンが焼ける匂いがしてきた。
皿を二枚出している時、ロイを呼ぶべきか、ふと思った。
外はもう静かだった。
彼はいつの間にか居なくなっていて
いつ帰ったのか、私は気づかなかった。
「そういえばお礼、言ってないよ」
「言ったわよ、私」
「僕が」
「明日、会うでしょう」
エリコは立ち上がって、食器棚からフォークを二本出した。
そのうち一本を、少し見てから流しへ置いた。
汚れていたのか何か、私には見えなかった。
「これ、おいしい」
「肉のほうは、もう少し」
「うん」
私はその返事に励まされようとしていた。
その「褒め言葉」を待っていた。
彼女は私の料理を食べた。そして素直に話した。
それだけのことだった。
一人で何かを作る時には、焼けていなければ焼き直していた。
食べ始めたら、旅行の話なしなかった。
ジューンの家の洗濯機が壊れかけていること
ロイが同じ部品を二度買ったことを聞いたの、エリコが話した。
笑いどころは心得ているつもりだった。
同じ部品は、どちらも違っていて使えなかったらしい。
返品して買い直したんだろうか。その続きは聞けなかった。
彼女が私の皿へ残りの肉を移した。
「多かった?」
「ちょっと」
食べた。
以前から彼女は、私が食べ終わる少し前にそうする。
食べられないのか、こちらに食べさせたいのか。
皿の上の鶏を寄せていたら別の話題になっていた。
洗い物をしていると、エリコが携帯取ると、女の声が流れた。
親しい挨拶のあと、急に聞こえなくなった。
エリコが携帯を耳へ当て奥の椅子に座り直していた。
私は水を止めた。
止めては見たものの、なんとなく不自然で、洗った皿を少し手荒く水切りに重ねた。
「ベリンダ?」
エリコは頷いた。
「明後日、こっちへ来るって。取りに来たいものがあるって」
皿の縁に、親指が滑った。落としはしなかった。
「まだあったんだ」
「そうね」
ぬるい水が、洗い終わっている皿をもう一度流れていった。




