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10 壁の向こう

古い古い建物の中へ入っていきながら、古い話をする。浸出液が固まっていても、剥がさず、そっと触ってみただけだった。

 朝、二人で外を歩いた。

靴音がよく響く。

車から離れて少し行くと、道の砂利が所々岩の表面が出ている。


その上を歩くと音が変わった。

エリコは帽子の後ろへ髪を出し、ときどき首筋を指で拭っていた。


近くに寄ると、壁は遠くまで続き、より高くなっていった。

手前には小さな石を積み、その間へさらに薄い石を差し込んである。

大きな一枚の岩を置いたところもあり、同じ壁の途中で、作業が変わっているように見えた。


私は案内の紙を開いたが、今いる場所が車からどっちなのか、すぐにはわからなかった。


「それ、逆じゃない?」

 エリコが覗いた。


「向きは合ってるはずだけど」

 紙を回すと、さっきまで奥にあると思っていたものが手前へ来た。

「ほら」


「こういうの、地図のほうで勝手に回ってほしいね」


「携帯に慣れすぎなのよ」

 彼女は笑い、先へ歩いた。


 いつ作られたか、誰が作ったかわからないその建物の前に立つ。


「行くの?」

「でしょ?」


入口は低く作ってあり、身をかがめないと入れない。


入った先には、別の部屋があった。

さらに向こうにも低く四角い通路があり、その先には明るい地面が見えていた。


 屋根のない部屋に立ってみると、空が近かった。

この建物の外にいたときと同じ空なはずなのに、、周りを壁で切り取られると

こちらが落ちて行きそうな、見上げるのと逆な、空に落ちていくような深さがあった。

ここは何人くらいで住んでいたのだろう。

何を置き、どこで寝ていたのか。

簡単な案内板が、建物の外にあったが、好奇心が先に建物に引っ張り込んでいた。

私は、ここに居たとすれば、この部屋の隅へ小さな荷物を置くだろうことを想像した。

昨日、ベッドの脇へ自分の鞄を押し込んでいたから、この壁のどこが寝床になっていたんだろうと考えた時、自分の鞄を置くことを考えた。


 エリコは隣の部屋にいた。

ここから壁に開いた低い穴、その向こうに背中と腰が見えた。

彼女は下を向き、しばらく動かず、何かを見ていた。


 私は彼女をじっと見ていた。声もかけなかった。


 こういう場所で彼女が黙って何かを見ている。

何を感じているのだろう。

何も言わなくても、こちらがその沈黙に意味をつける。

そのせいで聞きづらくなり、黙ってしまう。


 彼女が振り返った。

「何してるの?」


「いや、待ってた」

「ああ、紐、緩んじゃって」

 彼女は靴を指した。

しゃがみ込んでいた理由は簡単だった。

 私は笑った。


「何?」

「いや。何を見ているのかと思って」


 エリコは私を見た。

そのあと、壁から少し離れた平らなところで膝を折った。


「足が痛いの。何か感じる」

「ごめん」


 彼女は紐を結び直した。


「ここで何があったかなんて、私だって知らないわよ」


 言い方は静かで、感情的でなく、私との会話と言うより、自分と話しているみたいだった。


低い穴を通り抜けて、屈んでいる彼女のそばへ行った。

靴を結び終えた彼女へ手を出すと、その手を見ずに立った。

だが立ってから、膝についた土を払うために、私の腕を掴んだ。


土と石で積み上げた壁まで歩き、日陰へ入って水を飲んだ。


 頭上、空高く細い雲が空の端に向けて伸びて行っていた。

風は感じられない。伸び切った雲は後ろの方から少しずつ形を崩していた。


「西へ行ったら、どこに置くの」

 

「家?」

「うん。これから引っ張っていく先」


 エリコはボトルを膝に立てた。


「いくつか聞いてるわ。でもまだ決めてない」


「知ってる人のところ?」

「近くにはね」


「そうか」

 私は水を飲んだ。ボトルの底に残った水は冷たく無かった。


「仕事は?」


「今やってることは、続けられると思う。全部じゃないけど」

「それで、やっていける?」


 エリコは蓋を閉めた。

「ここでも、やってきたわよ」


 そう言われると、聞き方が悪かったようで何か言わなきゃと思った。


「心配してるだけだよ」

「うん」


 彼女は理由も説明も何もしなかった。


目の前の壁の上を、小さな影が走った

。鳥が飛んだのだろうか。見上げたときには、何もいなかった。


「僕が帰ったあと?」

「何が?」


「西へ行くの」

 エリコは私を見た。


「あなた、いつまでいられるの」

「便は、言ったとおりだけど」


「そうね」

「その前に、運ぶのかと思ってた」


 彼女は何も言わず、ボトルを鞄へしまった。


 聞かなければよかった。

聞かないままでは、わからないままだ。


「一緒にそっちに行くつもりと思ってた?」

 彼女が聞いた。


「そりゃ、手伝いに来たんだから」

「運び終わったら?」


「そこから、帰るの?」


 私は答えなかった。

自分ではそういうつもりで来たんだ。

こちらが思い込んでいた勝手な予定と

違うと言われたわけではない。


 エリコは帽子を取り、内側を手で払った。


「急いで決めなくていいわよ。私も、まだちゃんとは」


 言い終えずに帽子をかぶった。

「暑くなるから、戻りましょ」

 彼女が立ち、私も立った。

日陰を出た途端、首の後ろが熱くなった。


二つ目の穴を潜ったあと

彼女の歩みが遅くなった。


「5年前ね」

 彼女が言った。


「うん」

「私、残るって言ったでしょ」


「言ったね」

「あれ、あなたは、どう聞いてたの」


 私は足元を見た。

赤い土に小石の色が混ざり、白い石が強く光っていた。


「一緒に帰らないって」

「そうね」


「こっちで、やりたいことがあるんだろうって」

 エリコは頷いた。


「あったわよ」

「だから、邪魔しちゃいけないと思った」


 彼女は歩き続けた。

「私も、そう言ったんだと思う」


「違った?」

「違わない」


 返事はすぐだった。

そのあとが、少し遅かった。

「でもね、あのとき、そんなに早く、わかったって言われるとは思ってなかった」


 車が遠くに見えてきた。フロントガラスが白く光っていた。


 私はもっと詳細に思い出そうとした。

どの部屋で話したのか、座っていたのか立っていたのか。

すぐには出てこなかった。空港で別れたときの姿ばかりが浮かんだ。


「何て言ったら……」

 

 エリコは車のほうを見た。

「わからないわ」


 私たちは、それ以上話さずに歩いた。

ちょっと飛ばし気味。また少し戻るかもしれません。

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