自分で選ぶ今日と、まだ知らない明日
王立セイレーン学院の朝は、昨日までとは少し違って見えた。
正確には、学院そのものが変わったわけではない。
白い石造りの校舎も、広い中庭も、朝の光を受けて輝く噴水も、いつもと同じだ。
生徒たちが友人と話しながら廊下を歩き、教室から笑い声が聞こえてくる。
けれど――その景色を見つめる少女にとっては、すべてが初めてだった。
「……今日も、来た」
セレネは校門の前で立ち止まり、小さく呟いた。
銀色の髪が朝の風に揺れる。
淡い金色の瞳が、目の前に広がる学院を映していた。
昨日までは、未来を記録する側だった。
誰かが選んだ道。
誰かが選ばなかった道。
生まれた可能性。
消えた可能性。
それらを見つめ、記録し、忘れないようにすること。
それが彼女にとっての「生きる」ということだった。
けれど今は違う。
今日は何を食べるのか。
誰と話すのか。
どこへ行くのか。
そして――明日もここへ来るのか。
そのすべてを、自分で決める。
「セレネ!」
聞き慣れ始めた声が飛んできた。
振り向くと、リヴィアがこちらへ歩いてくるところだった。
灰金色の長い髪が肩から背中へ流れ、朝の光を受けて柔らかく輝いている。
その隣にはルシアン。
黒に近い青髪と深い青色の瞳。
今日も落ち着いた表情をしているが、リヴィアとの距離は以前より少しだけ近い。
「おはようございます、リヴィア」
「おはよう。昨日はちゃんと眠れた?」
「はい」
セレネは少し考えてから答えた。
「……楽しみで、なかなか眠れませんでした」
「ふふっ」
リヴィアが笑う。
「学院が楽しみで眠れないなんて、なんだか可愛いわね」
「可愛い……?」
セレネが首を傾げる。
その反応を見て、ルシアンが小さく笑った。
「リヴィア。君がそういうことを言うと、本人が本気で意味を考え始めるぞ」
「え?」
リヴィアが瞬きをする。
「……それは、どういう意味ですか?」
「そのままの意味だ」
「……?」
セレネは二人を交互に見た。
「二人は、よく分からない会話をしますね」
「……!」
リヴィアの頬が一瞬で赤くなる。
「そ、そうかしら?」
「はい」
「……」
ルシアンが口元を押さえた。
「ルシアン」
「何も言っていない」
「笑っているでしょう」
「気のせいだ」
「絶対に笑っています」
セレネは二人を見つめたあと、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「……面白いですね」
「でしょう?」
リヴィアが嬉しそうに答えた。
「学院には、こういう時間もあるのよ」
「こういう時間?」
「意味のない会話をしたり、友達と笑ったり。そういう時間」
セレネはその言葉を心の中で繰り返した。
意味のない会話。
それは、以前の自分には存在しなかった。
すべての言葉に意味があり、すべての行動には記録する価値があると思っていた。
でも――。
「……良いですね」
「え?」
「意味のない時間」
セレネは空を見上げた。
「記録しなくてもいい時間というのは……きっと、自由なのですね」
リヴィアは少しだけ目を細めた。
「そうね」
そして優しく笑った。
「だから、今日は記録しなくていいわ」
「はい」
セレネは頷いた。
「今日のことは、私が覚えておきます」
その言葉に、リヴィアは嬉しそうに微笑んだ。
「それなら十分よ」
四人は学院へ向かって歩き始めた。
正確には、四人ではない。
少し遅れて、フィリアが走ってくる。
「待ってください!」
銀髪を揺らしながら、フィリアが大きな袋を抱えていた。
「フィリア?」
「これを忘れています!」
フィリアが袋を掲げる。
中からパンがいくつも顔を出していた。
「……どうして朝からそんなに持っているの?」
リヴィアが尋ねる。
「学院では昼食が必要です」
「一つで十分でしょう?」
「一つでは足りません」
「二つなら?」
「不安です」
「……」
「三つなら安心できます」
「なぜ?」
「パンは多いほど安心だからです」
セレネが真顔で頷いた。
「それは重要な知識ですね」
「セレネ!?」
リヴィアが驚く。
「信じないでください!」
しかしセレネはフィリアの袋を覗き込んだ。
「これは何ですか?」
「クロワッサンです」
「こちらは?」
「クリームパンです」
「こちらは?」
「ジャムパンです」
「……」
セレネの淡い金色の瞳が少し輝いた。
「全部、食べてみたいです」
「セレネまで……」
リヴィアは額に手を当てた。
「どうして私の周りにはパンに弱い人が増えていくの……」
「リヴィアも食べますか?」
「私は――」
差し出されたクリームパンを見る。
「……一つだけ」
「はい!」
フィリアが満面の笑みになる。
その様子を見て、ルシアンが呟いた。
「結局、君も弱いじゃないか」
「うるさいです」
リヴィアはクリームパンを受け取りながら、少しだけ頬を膨らませた。
「朝から食べ過ぎると授業中に眠くなるでしょう」
「では、半分にしますか?」
セレネが言った。
「そうね」
リヴィアが頷く。
セレネはナイフを取り出そうとした。
「……待って」
リヴィアが止める。
「なぜナイフを出したの?」
「半分にするためです」
「もっと普通に手で割っていいのよ」
「……なるほど」
セレネは真剣な顔でパンを両手に持った。
そして、慎重に二つに分けた。
「できました」
「うん……」
リヴィアは微笑んだ。
「それでいいのよ」
その光景を、ルシアンは少し離れた場所から眺めていた。
かつて世界そのものを見つめていた少女が、今は一つのパンを半分にする方法を覚えている。
それは、あまりにも小さな変化だった。
けれど――。
こういう小さな選択こそが、未来を作っていくのかもしれない。
そんなことを考えていると、リヴィアがこちらを振り返った。
「ルシアン?」
「何だ?」
「さっきから静かだけど、どうしたの?」
「少し考え事をしていただけだ」
「珍しいわね」
「俺だって考え事くらいする」
「そういう意味じゃなくて……」
リヴィアが少し困ったように笑う。
「何を考えていたの?」
ルシアンは一瞬だけセレネたちを見る。
それから、リヴィアへ視線を戻した。
「未来のことだ」
「……未来?」
リヴィアの表情が少し変わった。
「また難しい話?」
「いや」
ルシアンは穏やかに笑った。
「もっと簡単な未来だ」
「簡単?」
「今日の放課後、君とどこへ行こうかと思っていた」
「……」
リヴィアが固まる。
「……それは」
「嫌か?」
「嫌とは言っていないでしょう」
「では、問題ないな」
「そういうところ……」
リヴィアが小さくため息をつく。
けれど、その頬は赤かった。
セレネが二人を見て首を傾げる。
「リヴィア」
「なに?」
「ルシアンといる時、顔が赤くなることが多いですね」
「――っ!」
リヴィアが勢いよく振り向いた。
「セレネ!?」
「どうしてですか?」
「それは……」
言葉が詰まる。
ルシアンが楽しそうにこちらを見る。
「俺も知りたいな」
「あなたは黙っていてください!」
「分かった」
「……本当に黙ると、それはそれで腹が立つのよね」
「難しいな」
セレネはその会話を聞きながら、少し考えた。
「もしかして、これが学院でいう『恋』ですか?」
「違います!」
リヴィアが即答した。
あまりにも早い返事だった。
セレネは瞬きをする。
「違うのですか?」
「……」
リヴィアは言葉を失った。
そして視線を逸らした。
「……まだ、決めていないの」
小さな声だった。
ルシアンも何も言わない。
セレネは静かに頷いた。
「そうですか」
「ええ」
「では、決めなくてもいいのですね」
リヴィアはセレネを見る。
「……そうよ」
「今日決めなくても、明日決めなくてもいい」
「うん」
「それなら、私も同じにします」
セレネは学院の校舎を見上げた。
「私はまだ、どんな人になりたいのか分かりません」
銀色の髪が風に揺れる。
「でも、今日ここに来たいと思いました」
そして、ほんの少し笑った。
「明日も来たいと思っています」
リヴィアは微笑んだ。
「それで十分よ」
学院の鐘が鳴った。
生徒たちが一斉に校舎へ向かっていく。
セレネもその流れに加わった。
昨日までなら、すべての人間の姿を記録していたかもしれない。
誰がどこへ向かったのか。
誰が誰と話したのか。
どんな未来へ進んだのか。
けれど今は違う。
セレネは記録しなかった。
ただ、自分の足で歩いた。
教室へ向かいながら、ふと後ろを振り返る。
リヴィアとルシアン。
フィリア。
そして少し離れた場所には、ミレイアとノエルの姿も見えた。
それぞれが、それぞれの未来へ向かって歩いている。
誰かが決めた道ではない。
誰かに記録された結末でもない。
自分たちが選んでいく未来。
セレネは小さく笑った。
「……明日は、何をしよう」
その問いに答えはない。
だからこそ、彼女は嬉しかった。
答えが決まっていない。
未来が白紙である。
それは以前の彼女にとって、恐ろしいことだった。
けれど今は――。
楽しみだった。
そして教室の扉が開く。
「おはよう、セレネ!」
エヴリンが手を振った。
「今日は隣の席に座らない?」
「はい」
セレネは頷く。
「お願いします」
その瞬間。
胸元の青い水晶が、ほんの一瞬だけ淡く光った。
誰も気づかなかった。
それはもう、世界を観測するための光ではない。
新しい未来を記録する光でもない。
ただ一人の少女が、自分で選んだ「今日」を生きている証だった。
セレネは席へ向かう。
そして初めて、自分自身のために笑った。
――今日という未来を、自分で選ぶために。




