百回目の朝と、選びたい未来
王立セイレーン学院の鐘が鳴った。
澄んだ音が校舎の中を駆け抜け、廊下にいた生徒たちがそれぞれの教室へと向かっていく。
いつもと変わらない朝。
けれど、リヴィアにとっては少しだけ特別な日だった。
「……百話、か」
教室へ向かう途中、リヴィアは小さく呟いた。
「どうした?」
隣を歩いていたルシアンが聞き返す。
「何でもないわ」
「そうか?」
「ええ」
リヴィアは微笑んだ。
もちろん、ルシアンにはその意味が分からない。
百話。
それは、この世界で生き始めてから積み重ねてきた時間そのものだった。
前世の神谷紗月としての人生。
リヴィア・アーデントとして目覚めた日。
悪役令嬢として決められていた未来を避けようとした日々。
攻略対象たち。
エヴリンとの友情。
そして――ルシアンとの出会い。
最初は、彼がゲームに存在しないことが怖かった。
知らない存在。
知らない未来。
自分の知識が通用しない相手。
だからこそ、距離を取ろうとした。
なのに。
気づけば、彼の隣にいることが当たり前になっていた。
「リヴィア?」
「……何?」
「また考え事をしている顔だ」
「少しだけ昔のことを思い出していたの」
「昔?」
「私がこの学院に来たばかりの頃」
ルシアンが少し笑う。
「ずいぶん変わったな」
「……そうね」
「最初の頃は、俺を見るたびに逃げようとしていた」
「それは……」
リヴィアが目を逸らす。
「あなたがゲームに存在しなかったからよ」
「今は?」
「今?」
「俺はまだ、君の知っている物語には存在しないか?」
リヴィアは足を止めた。
ルシアンも立ち止まる。
朝の光が、二人の間に差し込んだ。
リヴィアは少しだけ考えた。
そして、首を横に振った。
「もう違うわ」
「そうか」
「あなたは……」
リヴィアはルシアンを見る。
「私の物語にいるんじゃない」
「……」
「私たちが作っている未来の中にいるのよ」
ルシアンは何も言わなかった。
ただ、柔らかく微笑んだ。
「それなら、悪くない」
「でしょう?」
リヴィアも笑う。
その時。
「お二人とも!」
後ろから声がした。
振り返ると、エヴリンがこちらへ走ってくる。
「もうすぐ授業が始まりますよ!」
「分かっているわ」
「だったら、どうして廊下の真ん中で止まってるんですか?」
「……少し話していただけよ」
エヴリンは二人を交互に見る。
「ふーん」
「何よ、その顔」
「別に?」
「その『別に?』は絶対に何かあるでしょう」
エヴリンは楽しそうに笑った。
「百回目の朝ですから、特別なことでも話していたのかなって」
「……」
リヴィアの表情が固まった。
「エヴリン」
「はい?」
「あなた、知っていたの?」
「何を?」
「百回目だって」
「え?」
エヴリンが首を傾げる。
そして数秒後。
「あ……」
リヴィアとエヴリンが顔を見合わせる。
「……偶然ね」
「偶然ですね」
ルシアンが小さく笑った。
「二人とも、何をしているんだ?」
「何でもないわ」
「何でもありません」
「そうか」
そこへ、さらに別の声が加わった。
「おはようございます」
セレネだった。
昨日と同じ学院の制服。
銀色の髪を肩の後ろへ流し、淡い金色の瞳で三人を見る。
「おはよう、セレネ」
エヴリンが笑顔で手を振る。
「昨日は眠れた?」
「はい」
「今日はどう?」
「楽しみです」
「何が?」
セレネは少し考える。
「分かりません」
「え?」
「だから、楽しみです」
エヴリンが目を丸くした。
それから、嬉しそうに笑った。
「なんだか、セレネらしい答えね」
「そうですか?」
「うん」
セレネも微笑んだ。
「では、今日は何が起こるのか、見てみます」
「うん。そうしよう」
その言葉を聞いたリヴィアは、胸の奥が温かくなるのを感じた。
以前なら。
今日何が起こるのかは、ゲームのシナリオによって決められていた。
誰が誰と出会うのか。
どのイベントが起きるのか。
誰が恋をするのか。
誰が悪役になるのか。
そして、誰が最後に笑うのか。
すべてが決まっていると思っていた。
けれど、今は違う。
セレネが知らない未来を楽しみにしている。
エヴリンが今日の出来事を楽しみにしている。
ルシアンが放課後の予定を考えている。
そして、自分自身も。
まだ決めていない未来を抱えている。
「リヴィア」
セレネが呼びかける。
「何?」
「昨日、あなたに一つ聞き忘れました」
「聞き忘れた?」
「はい」
セレネは真剣な顔をして尋ねた。
「学院では、友達と一緒に昼食を食べるものですか?」
「もちろんよ」
「では、今日も一緒に食べてもいいですか?」
「ええ」
リヴィアは笑った。
「もちろん」
「ありがとうございます」
その瞬間。
「では、パンを持ってきます」
フィリアが現れた。
「……」
リヴィアはゆっくり振り返る。
「どこから出てきたの?」
「廊下の角です」
「見れば分かるわ」
「昼食用のパンを準備していました」
「まだ朝よ?」
「昼食は昼に来ます」
「時間の話をしているのよ!」
フィリアは首を傾げる。
「では、今食べればいいのですか?」
「そういう話でもない!」
エヴリンが笑い出した。
「ふふっ……リヴィア、朝から大変ね」
「どうして私が……」
ルシアンも肩を震わせている。
「笑わないで」
「すまない」
「絶対にすまないと思っていないでしょう」
「よく分かったな」
「もう……」
リヴィアは呆れながらも笑ってしまった。
その様子をセレネが眺めている。
「……これが友達と過ごす時間」
「そうよ」
「賑やかですね」
「いつもこんな感じよ」
「楽しいです」
セレネの言葉に、リヴィアは優しく頷いた。
やがて予鈴が鳴る。
「急ぎましょう!」
エヴリンが先に教室へ走り出す。
「はい」
セレネも続く。
フィリアはパンの袋を抱えて追いかける。
「待ってください! パンが!」
「パンを先にするな!」
リヴィアが叫ぶ。
ルシアンが笑う。
「賑やかだな」
「……本当にね」
二人も教室へ向かった。
その日の授業は、魔法史だった。
教師が黒板に古代魔法の術式を書いていく。
セレネは真剣な表情でノートを取っていた。
しかし、途中で手が止まる。
「……?」
先生が話している内容は理解できる。
古代文明。
魔法体系。
歴史的な記録。
世界の変遷。
どれも以前の自分なら、誰より詳しく知っていた。
けれど。
「セレネ?」
隣の席からエヴリンが小声で呼ぶ。
「何ですか?」
「そこ、先生が言ったところと違うよ」
「……?」
ノートを見る。
セレネは、授業内容を記録する代わりに、先生が話した言葉をほとんどそのまま書き写していた。
「……なるほど」
「全部覚えようとしなくていいんだよ」
「覚えなくていい?」
「うん。試験に必要なところだけでいいの」
「……」
セレネはしばらく考えた。
「全部残さなくてもいいのですね」
「そうだよ」
「それは……」
セレネは小さく笑った。
「とても楽ですね」
「でしょ?」
エヴリンも笑う。
セレネはノートの端に小さく書いた。
『全部を残さなくてもいい』
そして、その言葉を見つめる。
それは、かつての自分なら絶対に書かなかった言葉だった。
でも今は。
必要だった。
昼休み。
中庭の木陰に、リヴィアたちが集まっていた。
テーブルの上には料理が並んでいる。
そして――パンが山のように積まれている。
「……フィリア」
「はい」
「これは何?」
「昼食です」
「多すぎない?」
「普通です」
「普通じゃないわ」
セレネがパンを一つ手に取る。
「これは食べてもいいですか?」
「もちろんです」
「では」
一口。
「……美味しい」
セレネの目が少し大きくなる。
その表情を見たフィリアが嬉しそうに笑った。
「でしょう?」
「はい」
セレネはもう一口食べる。
「明日も食べたいです」
フィリアが両手を握った。
「仲間ですね!」
「仲間?」
「パン仲間です!」
「……はい」
「増えたわね……」
リヴィアが遠い目をする。
エヴリンが笑った。
「いいじゃない。楽しそうだし」
ルシアンはリヴィアの向かいに座りながら言った。
「君も食べるか?」
「え?」
ルシアンがパンを一つ差し出している。
「……もらうわ」
リヴィアが受け取る。
「ありがとう」
「どういたしまして」
その何気ないやり取りを見ていたエヴリンが、にやりと笑った。
「……二人とも自然になったね」
「何が?」
「距離感」
「……!」
リヴィアがパンを落としかける。
ルシアンが素早く受け止めた。
「危ない」
「ありがとう……」
「どういたしまして」
エヴリンが笑う。
「ほら」
「何が『ほら』なのよ!」
リヴィアの顔が赤くなる。
セレネはその光景を見ながら、静かに笑った。
誰も記録していない。
誰も未来を決めていない。
それでも、ここには確かに残るものがある。
思い出。
笑い声。
誰かから受け取ったパン。
くだらない会話。
そして――。
自分で選んだ時間。
セレネは空を見上げた。
青い空には、何も書かれていない。
未来を示す文字も。
選択肢も。
記録もない。
ただ、青い空があるだけだった。
「……リヴィア」
「なに?」
「未来は、何も書かれていない方がいいのかもしれませんね」
リヴィアは少し考えた。
「そうかもしれないわね」
「怖くはありませんか?」
「もちろん怖いわ」
リヴィアは正直に答えた。
「私だって、これからどうなるのか分からないもの」
「それでも?」
「それでも――」
リヴィアは隣に座るルシアンを見る。
ルシアンも彼女を見ていた。
「自分で選びたいの」
セレネは頷いた。
「私もです」
その言葉は小さかった。
けれど、確かだった。
そして、その日の午後。
授業が終わったあと。
リヴィアは学院の廊下を歩いていた。
隣にはルシアンがいる。
「そういえば」
ルシアンが言った。
「何?」
「君、以前『まだ決めていない』と言っていたな」
「……」
リヴィアの足が少しだけ止まる。
「結婚のこと?」
「ああ」
「……そうね」
「今も?」
リヴィアはしばらく黙っていた。
そして、微笑む。
「今もよ」
「そうか」
ルシアンはそれ以上、何も言わなかった。
ただ、歩く速度をリヴィアに合わせる。
それだけだった。
リヴィアはそのことに気づいた。
「……ありがとう」
「何が?」
「待っていてくれること」
ルシアンは少しだけ目を細めた。
「俺が待ちたいと思っているだけだ」
「それでも」
リヴィアは前を見る。
「嬉しいわ」
二人は並んで歩く。
まだ答えはない。
まだ未来は決まっていない。
でも――。
百回目の朝を越えた今日も。
リヴィアは、自分の足で未来へ向かって歩いていた。
そして彼女は、まだ知らない。
この何気ない日々の中で。
新しい関係が少しずつ芽を出し始めていることを。
それがやがて、彼女自身の未来だけではなく、この国の未来さえ変えていくことを。
けれど今は、それでいい。
未来はまだ、白紙なのだから。
百回目の朝。
そして――。
百回目の今日。
物語は、まだ続いている。




