選んだ未来の、その先へ
王立セイレーン学院の朝。
窓から差し込む柔らかな日差しが、教室の机を照らしていた。
生徒たちはそれぞれ友人と話しながら、授業が始まるのを待っている。
その中で、セレネは自分の席に座り、窓の外を眺めていた。
昨日と同じ景色。
学院の庭。
噴水。
遠くに見える王都の街並み。
そして、青い空。
けれど、昨日とは少しだけ違って見えた。
「セレネ」
隣から声をかけられる。
振り向くと、エヴリンが笑顔でこちらを見ていた。
「おはよう」
「おはようございます」
「昨日の授業、どうだった?」
「楽しかったです」
「本当に?」
「はい」
セレネは少し考えてから答えた。
「分からないことがあるのが、楽しかったです」
「……なるほど」
エヴリンが少し驚いたように目を瞬かせる。
「普通は、分からないと困るって思うものだけど」
「以前の私は、そうでした」
「以前の?」
「……いえ」
セレネは小さく首を振った。
「今は、分からないことがあるなら、これから知ればいいと思っています」
エヴリンは嬉しそうに笑った。
「うん。それでいいと思う」
その時、教室の扉が開いた。
「おはようございます」
リヴィアが入ってくる。
灰金色の長い髪を整えながら、自分の席へ向かって歩いてくる。
その少し後ろにはルシアンがいた。
「おはよう、リヴィア」
「おはよう、エヴリン」
リヴィアはセレネにも笑いかける。
「おはよう、セレネ。昨日はどうだった?」
「楽しかったです」
「それならよかった」
リヴィアは安心したように微笑んだ。
そして、自分の席へ座る。
すると――。
「リヴィア」
「何?」
「今日の放課後、時間はあるか?」
ルシアンだった。
「放課後?」
「少し付き合ってほしい場所がある」
「どこ?」
「秘密だ」
「……」
リヴィアは怪訝そうな顔をする。
「秘密って、嫌な予感しかしないのだけど」
「安心しろ。危険な場所ではない」
「それなら最初から言えばいいでしょう?」
「驚かせたい」
「……」
リヴィアは頬を少し膨らませた。
「そういうところ、本当にずるいわね」
「褒め言葉として受け取っておこう」
「褒めてないわ」
セレネは二人の会話を見ながら、昨日と同じように小さく笑った。
その時だった。
「おはようございます!」
勢いよく扉が開く。
「……」
全員が振り返る。
そこには、両手いっぱいにパンを抱えたフィリアが立っていた。
「……フィリア」
リヴィアが頭を抱える。
「どうしたの?」
「朝食を持ってきました」
「どうしてそんなに?」
「皆さんの分です」
「多すぎない?」
「昨日、セレネが美味しいと言ってくれました」
「だから?」
「もっと食べてもらおうと思いました」
フィリアは満面の笑みだった。
セレネはパンを見る。
「ありがとうございます」
「どういたしまして!」
「でも、これは……」
セレネがパンの数を数える。
「十二個あります」
「はい!」
「四人分ですよね?」
「はい!」
「一人三個です」
「正解です!」
リヴィアが額を押さえた。
「フィリア。朝から三個は多いでしょう」
「では二個にします」
「減らすのは一個だけなのね……」
エヴリンが笑い出す。
「いいじゃない。せっかくだし」
「エヴリンまで……」
その時、ルシアンがパンを一つ手に取った。
「俺は食べる」
「ルシアン?」
「朝食を抜いてきたからな」
「……」
リヴィアはしばらく彼を見る。
「それなら一つだけよ」
「分かった」
「本当に?」
「ああ」
ルシアンはパンを一つだけ取った。
フィリアが満足そうに頷く。
「これで安心です」
「何が安心なの?」
「パンが食べられました」
「……そう」
リヴィアはもう何も言わなかった。
そんな何気ないやり取りの中で、セレネはふと窓の外を見る。
昨日と同じ空。
昨日と同じ学院。
けれど、自分はもう昨日の自分ではない。
観測者ではない。
世界を記録する者でもない。
未来を守るために、すべての可能性を見続ける必要もない。
今は、一人の学院生としてここにいる。
それだけだった。
そして――。
それだけで十分だった。
午前の授業が終わると、セレネはリヴィアたちと一緒に中庭へ向かった。
昼食を食べながら、エヴリンが話しかける。
「セレネは、学院でやってみたいことってある?」
「やってみたいこと?」
「うん」
「……」
セレネは考える。
「まだ分かりません」
「じゃあ、興味があることは?」
「それならあります」
「何?」
「図書館です」
「図書館?」
「はい」
セレネの目が少し輝く。
「昨日、たくさんの本があることを知りました」
「それなら放課後に行ってみる?」
「いいのですか?」
「もちろん」
「では、お願いします」
リヴィアが微笑む。
「私も一緒に行くわ」
「リヴィアも?」
「学院の図書館には昔からよく行っているから」
するとルシアンが口を挟む。
「俺も行こう」
「あなたも?」
「放課後の予定が変わった」
「……」
リヴィアがジト目で見る。
「秘密の場所は?」
「また今度でいい」
「最初から図書館でよかったのでは?」
「いや」
ルシアンは少し笑う。
「君と一緒に行きたい場所は、いくつあっても困らないからな」
「……!」
リヴィアの顔が赤くなる。
「そ、そういうことを突然言わないで!」
「なぜ?」
「心の準備が必要なの!」
エヴリンが口元を押さえて笑う。
「ふふっ」
「エヴリン!」
「ごめん、ごめん」
セレネは二人を見ながら、また小さく笑った。
以前の自分なら、この会話にも何らかの意味を探していただろう。
未来にどんな影響があるのか。
誰が誰を好きになるのか。
その結果、どんな出来事が起こるのか。
でも、今は違う。
ただ楽しい。
それだけでいい。
午後。
授業が終わる。
生徒たちが帰り始める中、セレネたちは図書館へ向かった。
学院の図書館は、三階まで吹き抜けになった大きな建物だった。
高い本棚が壁一面に並び、窓から差し込む夕方の光が床に長い影を落としている。
「すごい……」
セレネが立ち止まる。
「ここが図書館」
「そうよ」
リヴィアが笑う。
「好きな本を探してみて」
セレネは本棚の間を歩き始めた。
一冊。
また一冊。
歴史書。
魔法書。
料理の本。
恋愛小説。
冒険譚。
どれも自分が知らないものばかりだった。
その中で、一冊の本に手を伸ばす。
背表紙には――。
『未来の選び方』
と書かれていた。
「……」
セレネはしばらくその本を見つめた。
そして、静かに手に取る。
「それ、面白そう?」
リヴィアが後ろから尋ねる。
「はい」
セレネは本を胸に抱いた。
「読んでみたいです」
「じゃあ、借りていきましょう」
「はい」
その時。
セレネの胸元にある青い水晶が、ごく僅かに光った。
けれど、今度は誰も気づかなかった。
光はすぐに消える。
セレネは本を抱えたまま、窓の外を見た。
夕暮れの空が赤く染まっている。
未来は見えない。
何が起こるのかも分からない。
それでも――。
「明日は、この本を読みます」
セレネはそう言った。
「うん」
リヴィアが頷く。
「明日、読めばいいわ」
それだけだった。
けれど、その言葉がセレネには嬉しかった。
明日がある。
明日を約束してくれる誰かがいる。
そして、その明日を自分で選べる。
図書館を出る頃には、空はすっかり夕暮れに染まっていた。
リヴィアとルシアンが並んで歩く。
少し後ろでは、エヴリンとセレネが話している。
さらにその後ろでは、フィリアが今日のパンについて熱弁していた。
ノエルはその話を聞きながら、困ったように笑っている。
そんな光景を見て、リヴィアはふと思った。
以前は、こんな未来を想像したことすらなかった。
自分は悪役令嬢だった。
物語の中で決められた役割。
決められた結末。
決められた未来。
でも――。
今、自分の隣にはルシアンがいる。
前を歩くエヴリンたちがいる。
そして、自分で未来を選ぼうとしている仲間たちがいる。
だから。
「ルシアン」
「何だ?」
「……今日も、楽しかったわ」
ルシアンは少しだけ笑った。
「ああ」
そして、二人は並んで歩き続けた。
まだ答えはない。
まだ未来は決まっていない。
けれど、それでいい。
選ぶべき未来が一つしかないのなら、迷う必要なんてない。
いくつもの未来があるからこそ、人は迷い、悩み、それでも自分の道を選ぶ。
それが――。
自分たちで選ぶ未来なのだから。
夕暮れの学院に、帰宅を告げる鐘が鳴った。
その音を聞きながら、リヴィアは歩く。
一歩。
また一歩。
物語の外へ。
そして、自分たちだけの未来へ。
その先に何が待っているのか。
まだ、誰にも分からない。
だからこそ――。
明日が楽しみだった。




