初めての学院生活
王立セイレーン学院。
朝の校門前には、いつものように多くの生徒たちが集まっていた。
友人同士で話す者。
急いで教室へ向かう者。
教師に挨拶する者。
そんな日常の中へ。
今日から、新しい生徒が一人加わる。
「……」
銀色の髪を持つ少女は、学院の正門を見上げていた。
大きな石造りの門。
中央には王立セイレーン学院の紋章。
その向こうには、広い中庭と校舎が見える。
「ここが……学院」
「はい」
隣に立つリヴィアが頷く。
「今日から、あなたもここの生徒です」
「……」
少女は門を見つめたまま動かない。
「どうしました?」
「少し緊張している」
「緊張?」
「うん」
少女は胸元の青い結晶に触れる。
「今までは、世界を見ているだけだった」
「でも、ここでは自分が見られる」
「……」
リヴィアは少し驚いた。
確かに。
観測者だった彼女にとって。
これは初めての経験なのだ。
「大丈夫です」
リヴィアは微笑んだ。
「誰もあなたを観測対象として扱ったりしません」
「……本当に?」
「はい」
「普通の生徒?」
「普通の生徒です」
フィリアが横から口を挟む。
「私も普通」
「……」
リヴィアはフィリアを見る。
「フィリアは少し特殊です」
「どうして?」
「パンを一度に三個買おうとするからです」
「それは普通」
「普通ではありません」
少女が少し笑った。
「面白い」
「でしょう?」
フィリアが得意そうに胸を張る。
「私は学院生活の先輩」
「まだ通っていませんよね?」
「これから」
「それは先輩とは言いません」
そんなやり取りをしていると。
「リヴィア!」
明るい声が聞こえた。
振り返る。
そこにはエヴリンがいた。
淡い茶色の髪が朝の風に揺れている。
「おはよう!」
「おはようございます、エヴリン」
リヴィアが笑う。
「待ってたんだよ」
「ありがとうございます」
エヴリンは少女を見る。
「あなたが、昨日話していた……」
「はい」
少女が少し緊張したように頷く。
「今日から学院に通うことになりました」
「そうなんだ!」
エヴリンは笑顔を向ける。
「私はエヴリン・ローゼン。よろしくね」
「……」
少女は少し迷った。
それから。
「私は……」
言葉が止まる。
「まだ名前がない」
「え?」
エヴリンが目を丸くする。
「名前が?」
「うん」
フィリアが説明する。
「自分で決めるって」
「ああ……」
エヴリンは納得したように頷いた。
「じゃあ、楽しみだね」
「楽しみ?」
「うん」
「どうして?」
「自分で名前を決められるんでしょう?」
「……」
「それって、すごく素敵なことだと思う」
少女はエヴリンを見つめた。
「……そう?」
「うん」
エヴリンは笑う。
「決まったら、最初に教えてね」
「分かった」
その時。
「おはよう」
別の声が聞こえる。
アルベルトだった。
「おはようございます、アルベルト様」
リヴィアが頭を下げる。
「今日から新しい生徒が来ると聞いている」
「はい」
アルベルトは少女を見る。
「よろしく」
「……よろしく」
少女は少しずつ緊張を解いていく。
誰も。
彼女を特別な存在として扱わない。
普通に話しかける。
普通に笑う。
それが。
彼女には新鮮だった。
「……」
少女が小さく笑う。
「学院って」
「はい?」
「思っていたより、普通」
リヴィアも笑った。
「学院なんて、だいたいそんなものですよ」
しかし。
その直後。
「リヴィア様!」
教師が走ってくる。
「はい?」
「今日の課題、提出しましたか?」
「……」
リヴィアの笑顔が固まる。
「課題?」
エヴリンが首を傾げる。
「昨日の文学史です」
「……」
リヴィアが静かに目を逸らす。
「……今から提出しても?」
「授業開始までなら」
「ありがとうございます」
エヴリンが笑う。
「リヴィアも忘れることあるんだ」
「ありますよ!」
「意外」
「私だって人間ですから!」
少女がフィリアを見る。
「リヴィアも普通?」
「うん」
フィリアが即答する。
「意外と慌てる」
「フィリア!」
周囲から笑い声が起こる。
少女も笑った。
そして。
ほんの少しだけ。
学院の空気に馴染んだ。
教室へ向かう。
今日の少女は、リヴィアと同じクラスではない。
新入生用の特別編入クラスで、基礎科目を学ぶことになっている。
「授業は一人で大丈夫ですか?」
リヴィアが尋ねる。
「うん」
「困ったら先生に聞いてください」
「分かった」
「それから」
リヴィアは少し考える。
「分からないことがあったら、私にも聞いてください」
「いいの?」
「もちろん」
「ありがとう」
少女は頷いた。
その時。
廊下の角から、ノアが歩いてきた。
「おはよう」
「おはようございます」
リヴィアが挨拶する。
ノアは少女を見る。
「新しい生徒?」
「はい」
「よろしく」
「よろしく」
続いてセドリック。
「おや?」
紫色の髪を揺らしながら、興味深そうに少女を見る。
「珍しい魔力ですね」
少女が少し身構える。
リヴィアがすぐに気づく。
「セドリック」
「何です?」
「初対面の人を魔力鑑定しないでください」
「まだ何もしていませんよ」
「目が完全に研究者の目です」
「……」
セドリックは少し笑う。
「分かりました」
そして少女へ向き直る。
「よろしくお願いします」
「よろしく」
カイルもやってくる。
「おはよう」
「おはようございます」
こうして。
学院の主要な生徒たちが次々と彼女へ挨拶していく。
彼女は一人ずつ顔を見る。
名前。
声。
表情。
話し方。
今までなら。
すべてを記録していた。
でも。
今は記録する必要がない。
ただ覚えていけばいい。
その違いが。
少し嬉しかった。
「……」
少女は胸元の青い結晶を見る。
まだ何も記録されていない。
なのに。
不安はなかった。
自分の記憶として。
少しずつ残っていくから。
昼休み。
中庭のベンチ。
リヴィアたちは昼食を食べていた。
フィリアはパン。
エヴリンもパン。
ノエルは普通の昼食。
ミレイアは紅茶。
そして。
少女はまだ何を食べればいいのか分からず、料理を眺めていた。
「何を食べるか決めました?」
リヴィアが尋ねる。
「分からない」
「好きなものを選んでいいんですよ」
「好きなもの……」
少女は料理を見る。
肉料理。
魚料理。
野菜。
スープ。
パン。
「……」
しばらく考えた後。
「これ」
少女が指差した。
「パン?」
「うん」
フィリアが嬉しそうに頷く。
「仲間」
「仲間?」
「パン仲間」
「……」
リヴィアはため息をつく。
「変な仲間意識を作らないでください」
しかし。
少女は楽しそうだった。
パンを一口食べる。
「……」
「どうですか?」
リヴィアが尋ねる。
「おいしい」
その言葉。
たった一言。
けれど。
少女にとっては初めてだった。
自分で選んだ食事。
自分で感じた味。
自分で言葉にした感想。
誰かに記録されるためではない。
ただ。
自分がそう思ったから。
「おいしい……」
もう一度呟く。
エヴリンが笑う。
「よかったね」
「うん」
少女は嬉しそうに頷いた。
その日の午後。
授業が終わる。
少女は教室から出てきた。
少し疲れた顔。
しかし。
その目には明るさがあった。
「どうでした?」
リヴィアが尋ねる。
「難しかった」
「最初はそうですよ」
「でも、楽しかった」
「それはよかったです」
少女は少し考える。
「名前」
「はい?」
「決めた」
リヴィアの目が輝く。
「本当ですか?」
「うん」
少女は胸元の青い結晶に触れる。
「私は――」
少しだけ息を吸う。
「セレネ」
「……」
リヴィアが微笑む。
「セレネ」
「うん」
「とても素敵な名前ですね」
セレネは少し照れたように笑った。
「自分で決めた」
「はい」
「私の最初の選択」
「……」
リヴィアの胸に温かなものが広がる。
「では」
リヴィアは手を差し出す。
「改めて、よろしくお願いします。セレネ」
セレネはその手を見る。
そして。
そっと握った。
「よろしく」
フィリアが横から覗き込む。
「セレネ」
「なに?」
「パン」
「……」
セレネは少し考える。
「今日の昼に食べた」
「明日も食べる?」
「うん」
「仲間」
「……うん」
「フィリア、セレネをパン仲間にするのが目的だったんですか?」
「大事」
「もういいです……」
リヴィアは苦笑する。
しかし。
その笑顔は穏やかだった。
セレネ。
かつて観測者だった少女。
今は。
一人の学院生。
自分で名前を選び。
自分で食べるものを選び。
自分で友人を選び始めている。
それだけのこと。
けれど。
それこそが。
未来だった。
夕方。
学院の校門前。
帰りを待っていたルシアンがいた。
「お疲れ様です」
「ルシアン様?」
「セレネさんの初日を見届けようと思いまして」
「……」
セレネがルシアンを見る。
「セレネ」
「はい」
「いい名前ですね」
「ありがとう」
「自分で決めたそうですね」
「うん」
ルシアンは微笑む。
「それなら、きっと大切な名前になります」
セレネは少し嬉しそうに頷いた。
その隣で。
リヴィアは二人を見ていた。
そして。
ふと。
ルシアンと目が合う。
「……」
「……」
二人とも何も言わない。
ただ。
少しだけ笑った。
未来はまだ決まっていない。
婚姻も。
学院生活も。
これから起こる出来事も。
何一つ確定していない。
でも。
リヴィアはもう。
それを怖いとは思わなかった。
選べるから。
迷えるから。
やり直せるから。
そして。
誰かと一緒に考えることができるから。
空が夕焼けに染まっていく。
学院の時計塔が、静かに時を告げる。
セレネは空を見上げた。
「……明日も来たい」
リヴィアは微笑む。
「もちろんです」
「明日も学校?」
「学院です」
「学院」
「はい」
「じゃあ、明日も来る」
その言葉は。
誰かに命令されたものではなかった。
誰かに記録されたものでもない。
ただ。
一人の少女が。
自分で選んだ。
明日という未来だった。




