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新しい日常と、まだ決まらない答え

 ヴァロリアでの一件を終えてから、三日が過ぎた。


 王都エルディアには、いつもの日常が戻っていた。


 朝の市場には人が集まり。


 商人たちは声を上げ。


 馬車が石畳の上を走る。


 王立セイレーン学院では、生徒たちが授業の準備をしている。


 世界を観測していた存在が消えた。


 未来を記録する巨大な仕組みも終わった。


 それでも。


 世界は、何事もなかったかのように朝を迎えていた。


 リヴィアは自室の鏡の前に立っていた。


 灰金色の長い髪を整え、銀色の髪飾りをつける。


 今日は学院へ行く日ではない。


 王城で、ヴァロリアとの正式な話し合いが行われる予定だった。


 そして。


 その議題の一つが――。


「……婚姻について」


 リヴィアは小さく呟いた。


 口にしただけで、頬が熱くなる。


「……落ち着いてください、私」


 鏡の中の自分を見る。


 青灰色の瞳。


 少し緊張した表情。


 そして。


 何度も握ったり開いたりしている指。


「大丈夫です」


 自分に言い聞かせる。


「誰かに決められるわけではありません」


 それは分かっている。


 国王もそう言ってくれた。


 ルシアンも急かさないと言っている。


 だから。


 怖がる必要はない。


「……でも」


 リヴィアは少しだけ俯いた。


「本人を目の前にすると、緊張するんですよね」


 その時。


 コンコン。


 扉がノックされた。


「リヴィア様」


「はい」


「フィリア様がお見えです」


「……」


 リヴィアは一瞬だけ目を閉じた。


「どうぞ」


 扉が開く。


「リヴィア!」


 フィリアが勢いよく入ってくる。


 その後ろには、銀色の髪の少女。


 かつて観測者だった少女だ。


 今は白い服のまま。


 ただし。


 胸元には小さな青い結晶が輝いている。


「おはようございます」


 少女が頭を下げる。


「おはようございます」


 リヴィアも微笑んだ。


 少女はまだ、自分の名前を決めていない。


 そのため、王城でも皆がどう呼べばいいのか少し困っていた。


 フィリアだけは普通に、


「観測者」


 と呼んでいる。


 本人は特に気にしていないようだった。


「今日は学院へ行く日?」


 少女が尋ねる。


「あなたは学院へ行く予定ですね」


「はい」


「私も?」


「もちろんです」


 リヴィアは頷く。


「学院で生活するなら、まずは制服が必要ですね」


「制服?」


「はい」


 侍女が持ってきた衣装を見せる。


 王立セイレーン学院の女子制服。


 白を基調とした上着。


 紺色のリボン。


 長めのスカート。


 学院の紋章が胸元に刺繍されている。


 少女は制服をじっと見る。


「これを着るの?」


「はい」


「なぜ?」


「学院の生徒だからです」


「生徒になると、これを着る」


「そうです」


「なるほど」


 少女は真剣な顔で頷いた。


 そして。


「では、観測者の服はどうする?」


「……」


 リヴィアが少し考える。


「それはもう、必要ないと思います」


「そう」


 少女は自分の白い服を見る。


「この服は、観測者だった頃の私のもの」


「はい」


「捨てる?」


「いえ」


 リヴィアは首を横に振る。


「無理に捨てる必要はありません」


「……」


「それも、あなたが歩いてきた時間ですから」


 少女は少しだけ微笑んだ。


「分かった」


 フィリアが制服を手に取る。


「着てみる?」


「うん」


「じゃあ、一緒に行こう」


 二人が部屋の奥へ向かう。


 リヴィアはその背中を見ながら微笑んだ。


 ほんの少し前まで。


 彼女は世界そのものを観測していた。


 それが今では。


 制服の着方を覚えようとしている。


「……」


 リヴィアは胸の奥が温かくなるのを感じた。


 すると。


「リヴィア」


「はい?」


 少女が振り返った。


「一つ聞きたい」


「何でしょう?」


「学院では、何を勉強するの?」


「魔法、歴史、文学、数学、礼儀作法など……色々あります」


「全部?」


「基本的には」


「難しい?」


「人によります」


「リヴィアは?」


「私は……」


 リヴィアは少し考える。


「勉強は嫌いではありません」


 少女が頷く。


「では、大丈夫」


「何がですか?」


「リヴィアが教えてくれる」


「……」


 リヴィアは目を瞬いた。


「私が?」


「うん」


「先生ではありませんよ?」


「でも、知っている」


「それは……」


 リヴィアは少し困った。


「できる範囲なら、お手伝いします」


「ありがとう」


 フィリアが横から口を挟む。


「私も教える」


「フィリアは何を?」


「パンの買い方」


「それは授業ではありません!」


 リヴィアが即座に突っ込む。


 少女が首を傾げた。


「パンの買い方は重要?」


「フィリアにとっては重要です」


「なるほど」


「納得しないでください!」


 部屋に笑い声が響いた。


 その後。


 三人は王城の廊下を歩いていた。


 学院へ向かう前に、王城の庭を通る。


 そこにはルシアンが待っていた。


「おはようございます」


「おはようございます、ルシアン様」


「おはよう」


 ルシアンは少女を見る。


「制服、似合っていますね」


 少女は自分の服を見る。


「まだ着ていない」


「……」


 リヴィアが固まる。


 フィリアが笑う。


「まだ試着中」


「そうでしたか」


 ルシアンが微笑む。


「では、感想は後ほどですね」


「はい」


 リヴィアは額に手を当てた。


「朝から何をしているんでしょう……」


「楽しそうですね」


「ルシアン様まで」


 すると。


 少女がルシアンを見る。


「あなたは、学院で何をしていたの?」


「僕ですか?」


「はい」


「僕は学院に通っていました」


「リヴィアと?」


「同じ学院ですが、学年は違います」


「では、学院で出会った?」


「いいえ」


 ルシアンがリヴィアを見る。


「僕たちは学院とは別の場所で出会いました」


 少女がリヴィアを見る。


「どこ?」


「それは……」


 リヴィアは少し言葉に詰まった。


「庭だったり」


「事件だったり」


「地下遺跡だったり……」


「……」


 少女が考える。


「普通の出会いではない?」


「はい」


 リヴィアが即答する。


「かなり普通ではありません」


 ルシアンが笑った。


「でも、僕はその出会いを大切に思っています」


「……」


 リヴィアの顔が赤くなる。


「ルシアン様」


「はい?」


「朝からそういうことを言わないでください」


「本当のことですよ」


「……」


 フィリアが少女に囁く。


「リヴィア、今ちょっと嬉しい」


「分かる」


「聞こえていますよ!」


 三人が笑う。


 しかし。


 その穏やかな時間は長く続かなかった。


 王城の奥から侍従がやってきた。


「リヴィア様」


「はい?」


「国王陛下がお呼びです」


「……」


 リヴィアの笑顔が少し固まった。


「婚姻についての話し合いですか?」


「はい」


「……分かりました」


 ルシアンを見る。


「僕も同席します」


「……」


 リヴィアは小さく頷いた。


「お願いします」


 二人は並んで会議室へ向かった。


 会議室には。


 エルディア国王アレクシス。


 王妃。


 レオンハルト。


 そして、ヴァロリアから来た使者たちが待っていた。


 少女とフィリアは別室で待機することになった。


 扉が閉まる。


 リヴィアは静かに席についた。


「では」


 国王が口を開く。


「先日の話を正式に進めたいと思う」


 リヴィアは頷いた。


「はい」


「ヴァロリア王国から、ルシアン王子とリヴィア嬢の婚姻について正式な提案が来ている」


 室内が静かになる。


 リヴィアは両手を膝の上で重ねる。


「……」


 以前なら。


 ここで恐怖を感じていたかもしれない。


 未来が決められてしまう。


 悪役令嬢としての結末がまた近づいてくる。


 そんな不安。


 でも。


 今は違う。


 国王が言う。


「これは両国にとって政治的にも大きな意味を持つ」


「ですが」


 ルシアンが口を開く。


「僕は、それを理由に彼女へ決断を迫るつもりはありません」


 国王も頷く。


「分かっている」


 リヴィアはルシアンを見る。


 彼はいつものように落ち着いている。


 けれど。


 その手がわずかに握られていることに気づいた。


 緊張している。


 自分だけではない。


 そう思うと。


 少しだけ心が軽くなった。


「リヴィア」


 国王が呼ぶ。


「お前の考えを聞きたい」


 リヴィアは目を閉じる。


 そして。


 ゆっくり息を吐いた。


「私は……」


 言葉を探す。


「ルシアン様と過ごす時間を、大切に思っています」


 ルシアンの目が少しだけ動く。


「一緒にいると安心します」


「楽しいと思うこともあります」


「困った時には頼りになります」


 そこで。


 リヴィアは少しだけ頬を赤くした。


「……時々、私を困らせますけど」


 ルシアンが苦笑する。


「それは申し訳ありません」


 会議室に小さな笑いが起こった。


 しかし。


 リヴィアはすぐに真剣な表情に戻った。


「ですが」


「まだ」


「私は、結婚する未来を選んだわけではありません」


 はっきりと告げる。


「……」


 誰も口を挟まない。


「だから」


 リヴィアは続ける。


「もう少しだけ、時間をください」


 ルシアンが静かに頷いた。


「もちろんです」


 その答えは。


 以前と変わらなかった。


「僕も、君に選んでもらいたい」


 国王は二人を見る。


「分かった」


「では、正式な婚約については保留とする」


 リヴィアはほっと息を吐いた。


 その時。


 会議室の外から。


 ドンッ!


 大きな音が響いた。


「……?」


 全員が扉を見る。


 続いて。


「リヴィアー!」


 フィリアの声。


「パンが二つしかない!」


「……」


 リヴィアは目を閉じた。


「……どうして今なんですか」


 ルシアンが笑いを堪えている。


「おそらく、重大な問題なのでしょう」


「そんなわけありません」


 リヴィアが立ち上がる。


 扉を開ける。


 そこには。


 パンを二つ抱えたフィリア。


 隣には制服姿の少女。


 そして。


 少し困った顔をした侍女。


「どうしました?」


「パンが足りない」


「誰と食べるんですか?」


「私と彼女」


 少女が頷く。


「一つずつ」


「……」


 リヴィアは二人を見る。


 そして。


 小さく笑った。


「それなら、ちょうどいいじゃありませんか」


「うん」


 フィリアも笑う。


 少女も。


 ほんの少しだけ笑った。


 それを見たリヴィアは。


 なぜか胸が温かくなった。


 世界を観測する必要はもうない。


 未来を記録する必要もない。


 こういう小さな出来事を。


 自分たちが選んでいけばいい。


 その日の午後。


 少女は初めて学院へ向かう準備を始めた。


 制服を着る。


 髪を整える。


 鞄を持つ。


 鏡の前に立つ。


「……」


 自分の姿を見る。


 以前なら。


 この姿を観測対象として記録していた。


 今は。


 一人の少女として見る。


「変かな?」


 少女が尋ねる。


 リヴィアは首を横に振った。


「とても似合っています」


「本当に?」


「はい」


 フィリアが横から頷く。


「かわいい」


「……」


 少女は少し照れたように目を逸らした。


「ありがとう」


 その言葉を口にしただけで。


 少し嬉しそうだった。


「では」


 リヴィアが言う。


「学院へ行きましょう」


「はい」


 少女が一歩進む。


 その歩みは。


 観測者だった頃よりも少しだけ不安定だった。


 でも。


 それでいい。


 決められた道を歩く必要はない。


 迷って。


 立ち止まって。


 時には間違えて。


 それでも。


 自分で選べばいい。


 学院へ向かう馬車の中。


 少女は窓の外を見ていた。


 エルディア王都。


 青い空。


 行き交う人々。


 そして。


 遠くに見える王立セイレーン学院。


「……」


 少女は胸元の青い結晶に触れる。


 そこには。


 まだ何も記録されていない。


 白紙の未来。


「リヴィア」


「はい?」


「私」


 少女は少し考える。


「明日までに、名前を決める」


 リヴィアは微笑んだ。


「分かりました」


「自分で決める」


「それが一番いいと思います」


 少女は窓の外を見る。


 そして。


「私の最初の選択にする」


 リヴィアは頷いた。


 馬車は学院へ向かって進んでいく。


 その先に。


 新しい日常が待っている。


 新しい友人。


 新しい授業。


 新しい悩み。


 そして。


 誰にも決められていない未来。


 その未来の最初の一ページは。


 まだ白紙だった。

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