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観測されない朝

 ヴァロリア王国。


 王立研究施設からエルディアへ戻る朝。


 リヴィアは、窓の外を眺めながら馬車に揺られていた。


 白い建物が少しずつ遠ざかっていく。


 昨日まで、あの地下には無数の未来が眠っていた。


 選ばれなかった未来。


 失われた未来。


 そして、観測者自身の未来。


 けれど。


 もう、それを管理する者はいない。


「……本当に終わったんですね」


 リヴィアが小さく呟く。


 向かいに座るルシアンが答えた。


「そうですね」


 隣にはフィリア。


 その向かいにはノエルとミレイアがいる。


 そして。


 リヴィアのすぐ横には、昨日まで観測者だった少女が座っていた。


 彼女はまだ名前を持っていない。


 白い服。


 銀色の長い髪。


 淡い金色の瞳。


 昨日まで世界を記録していたその瞳は。


 今はただ、窓の外を眺めていた。


「……」


 少女は街道を走る馬車や、道端の花をじっと見ている。


「何か気になるものがありますか?」


 リヴィアが尋ねる。


「全部」


「全部?」


「はい」


 少女は頷く。


「今まで、私は世界を見ていた」


「でも」


 窓の外を指差す。


「あの人が何を食べているのか」


「あの子がどうして笑っているのか」


「どうして馬があんなに速く走れるのか」


「そういうことを考えたことがなかった」


 リヴィアは少し笑った。


「観測者だったからですか?」


「たぶん」


「今は?」


「分からない」


 少女は自分の胸元にある青い結晶を見る。


「今は、全部が気になる」


 フィリアが隣から言った。


「それが人間?」


「そうなの?」


「たぶん」


 フィリアは真面目な顔で答える。


「私も最初は、全部気になった」


「パンも?」


「うん」


「……」


 リヴィアが口を挟む。


「パンは少し例外です」


「どうして?」


「フィリアは食べ物への興味が強すぎますから」


「大切」


「はいはい」


 リヴィアは苦笑する。


 すると。


「そういえば」


 ルシアンがフィリアを見る。


「昨日、パンを一個だけにする約束でしたよね?」


「……」


 フィリアが目を逸らす。


「フィリア?」


「二個食べた」


「……」


 リヴィアの目が細くなる。


「どうしてですか?」


「一個は普通に食べた」


「はい」


「もう一個は、未来のために」


「未来のため?」


「お腹が空いた未来」


「それはただの空腹です!」


 馬車の中に笑い声が広がる。


 ミレイアも口元を押さえて笑っていた。


 ノエルは少し驚いた顔をしている。


「……こんなに騒がしいものなんだ」


「何が?」


 リヴィアが尋ねる。


「未来」


 ノエルは窓の外を見る。


「僕が未来を捨てようとしていた時は、何もなかった」


「でも今は?」


「うるさい」


「……」


「でも」


 ノエルは少し笑った。


「嫌じゃない」


 リヴィアも微笑む。


 しばらくして。


 馬車はエルディア王国へ入った。


 王都の門が見える。


 懐かしい景色。


 高い城壁。


 石造りの建物。


 行き交う人々。


 そして。


 遠くに見える王城。


「帰ってきましたね」


 リヴィアが呟く。


 ルシアンが頷く。


「はい」


 馬車が王城へ向かう。


 到着すると、出迎えたのはレオンハルトだった。


「おかえり」


「兄上」


 ルシアンが降りる。


 リヴィアたちも続く。


 レオンハルトは全員を見渡した。


「全員無事だな」


「はい」


「それはよかった」


 そして。


 彼の視線が、新しく加わった少女へ向く。


「……彼女は?」


 少女が一歩前へ出る。


「まだ名前がありません」


「……」


 レオンハルトが瞬きをする。


「名前がない?」


「昨日までは観測者でした」


「なるほど」


 レオンハルトは少し考える。


「……なるほど?」


 もう一度少女を見る。


「つまり?」


 ルシアンが説明する。


「簡単に言えば、観測する立場をやめた存在です」


「……」


「そして今は、自分の未来を選ぼうとしています」


 レオンハルトは腕を組む。


「分かった」


「理解が早いですね」


「理解したふりをしているだけだ」


「兄上……」


 ルシアンが苦笑する。


 レオンハルトは少女を見る。


「では、まず何をしたい?」


 少女は少し考えた。


「……学院へ行きたい」


「学院?」


「リヴィアが言っていた場所」


 リヴィアは頷く。


「はい。私たちの学院です」


「勉強したい」


「いいですね」


「それから」


 少女が少し迷う。


「友達が欲しい」


 レオンハルトの表情が柔らかくなる。


「それなら、学院が一番いいだろう」


 少女は頷いた。


「……はい」


 その日の午後。


 王城の応接室。


 今回の出来事について、正式な報告が行われた。


 エルディア側からは国王アレクシス。


 レオンハルト。


 ルシアン。


 リヴィア。


 そしてミレイア。


 フィリアとノエルは少し離れた場所に座っている。


「観測者は、世界への干渉をやめた」


 ミレイアが報告する。


「第四記録は、選ばれなかった未来を保存するための仕組みだった」


「そして第五記録では、観測者自身が選択した」


 リヴィアが続ける。


「これで、世界を管理する観測者はいなくなったと考えていいでしょう」


 国王アレクシスが頷く。


「ならば」


「はい」


「これから先は、我々自身が未来を作ることになる」


 リヴィアは静かに頷いた。


「そうです」


 国王はしばらく考えた。


「……それは王としては、なかなか恐ろしい話だな」


「え?」


「未来が完全に決まっている方が、政治は楽だからな」


 リヴィアは思わず苦笑した。


「確かに……」


「しかし」


 国王は微笑む。


「自由に選べるからこそ、選んだ責任も自分たちで持てる」


 リヴィアはその言葉に頷いた。


「はい」


 会議が終わる。


 リヴィアが部屋を出ようとすると。


「リヴィア」


 国王に呼び止められた。


「はい?」


「一つ、話しておきたいことがある」


「……?」


 国王の表情が少し真剣になる。


「ヴァロリアとの関係についてだ」


 リヴィアの足が止まる。


「……」


 嫌な予感。


「先日の話し合いを、覚えているか?」


「はい」


「ルシアン王子との婚姻についてだ」


「……」


 リヴィアの頬が少し赤くなる。


「……はい」


「今回の事件が落ち着いた以上」


「改めて正式に話し合う必要がある」


「……」


 リヴィアは指先を握った。


 逃げることはできない。


 しかし。


 以前とは違う。


 誰かに決められる話ではない。


「分かりました」


 国王は頷く。


「ただし」


「?」


「これは命令ではない」


「……」


「お前自身が決めることだ」


 リヴィアは静かに頭を下げた。


「ありがとうございます」


 部屋を出る。


 廊下にはルシアンが待っていた。


「聞きましたか?」


「はい」


「婚姻の話」


「……はい」


 リヴィアは少しだけ俯く。


「また、考えなければいけませんね」


「そうですね」


 ルシアンは急かさない。


 ただ。


 いつものように、リヴィアの隣を歩く。


「ルシアン様」


「はい」


「観測者は、未来を選びましたね」


「ええ」


「ノエルも」


「はい」


「フィリアも」


「はい」


 リヴィアは歩きながら考える。


「私も……」


 そこで言葉が止まる。


「私も、自分の未来を選ばなければいけませんね」


 ルシアンは少しだけ笑う。


「急がなくていいですよ」


「……」


「僕は待つと言いましたから」


 リヴィアは彼を見る。


「本当に待ってくれるんですか?」


「もちろん」


「どれくらい?」


「君が必要なだけ」


「……」


 まただ。


 この人は。


 どうしてそんなに簡単に言えるのだろう。


 リヴィアの頬が少し赤くなる。


「……ずるいです」


「またですか?」


「はい」


「では、今日の僕はずるい王子ということで」


「開き直らないでください」


 ルシアンが笑う。


 その時。


 廊下の向こうから、フィリアが走ってきた。


「リヴィア!」


「どうしました?」


「学院へ行けるって」


「はい」


「明日?」


「明日からではありません」


「明後日?」


「準備が必要です」


「三日後?」


「フィリア」


「はい」


「少し落ち着いてください」


「……分かった」


 しかし。


 数秒後。


「四日後?」


「落ち着いてください!」


 ルシアンが笑い。


 リヴィアも思わず笑った。


 その様子を少し離れた場所から見ていたノエルが、ミレイアに尋ねる。


「未来って、こういうものなの?」


「……たぶんね」


 ミレイアは微笑む。


「予定通りには進まないものよ」


「なるほど」


 ノエルは頷く。


「それなら、僕にもできそう」


「何が?」


「未来を選ぶこと」


 ミレイアは一瞬だけ驚いた。


 そして。


「ええ」


 小さく笑った。


「きっとできるわ」


 夜。


 リヴィアは自室の机に向かっていた。


 机の上には。


 あの学院の課題。


『自分が望む未来について記述せよ』


 以前書いた文章を読み返す。


『私が望む未来は、自分の大切な人たちと、一緒に笑っていられる未来です』


 そして。


 その下に空白。


『そして、その隣に誰がいるのかは――』


 リヴィアはペンを持つ。


 しばらく迷う。


 そして。


 ほんの少しだけ書き足した。


『まだ、決めていません』


 そこまで書いて。


 リヴィアは微笑んだ。


「……これでいい」


 まだ答えは出ていない。


 でも。


 答えが出ていないことを恐れる必要もない。


 明日。


 明後日。


 その先。


 毎日の小さな選択の中で。


 いつか答えを見つければいい。


 その夜。


 王城の地下。


 かつて観測室だった場所。


 黒い水晶は静かに眠っていた。


 もう瞳は開かない。


 文字も浮かばない。


 ただ。


 その表面に一瞬だけ。


 小さな光が映った。


 それは観測の光ではなかった。


 記録でもない。


 誰かの意思によって灯った光。


 そして。


 すぐに消える。


 世界は静かだった。


 自由だった。


 未来は。


 まだ白紙だった。


 そしてその白紙に。


 一人一人が、自分の物語を書き始めていた。

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