観測者自身の未来
ヴァロリア王国、王立研究施設地下。
第四記録が終了したはずの部屋に。
誰も触れていない黒い水晶が、静かに輝いていた。
その表面に浮かんでいる文字は、これまでとは違っていた。
『第四記録――完了』
『人間の未来――継続』
『観測――不要』
ここまでは、リヴィアたちが確認した内容と同じ。
しかし、その下。
今まで存在しなかった文字が、ゆっくりと浮かび上がっていた。
『次なる記録――観測者自身』
「……観測者自身?」
リヴィアが呟く。
隣に立っていたルシアンも、黒い水晶を見つめていた。
「観測者を観測する、という意味でしょうか」
「分かりません」
リヴィアは首を横に振る。
「でも……」
以前なら、こんな文字を見た瞬間に警戒していた。
また何かが始まる。
また世界が壊される。
また誰かが未来を奪われる。
そう思っていた。
しかし今は。
少し違う。
「第四記録までで、人間の未来を記録する仕組みは確認できました」
リヴィアは周囲の水晶を見る。
「でも、その先に『観測者自身』があるなら……」
「観測者もまた、誰かに観測されている可能性がありますね」
ルシアンが言った。
「……」
その言葉に。
リヴィアの表情が少しだけ曇った。
かつて会った白髪の観測者。
その存在もまた、さらに上位の存在に観測されていた。
そして。
巨大な瞳。
世界を一つの記録へ統合しようとした存在。
あれで終わったと思っていた。
だが。
「まだ残っていたんでしょうか」
「可能性はあります」
ルシアンが答える。
「ただし、以前のように世界へ干渉する存在とは限りません」
「……はい」
リヴィアも頷いた。
その時。
「リヴィア」
ミレイアが呼んだ。
「これを見て」
彼女の手には、一冊の古い記録帳があった。
母の研究室から持ち出したものだ。
「何ですか?」
「最後のページ」
ミレイアがページを開く。
そこには、母の筆跡で一行だけ書かれていた。
『観測者を観測することは、観測者を救うことと同じなのか』
「……」
リヴィアはその文章を見つめた。
「お母様は、これを知っていた?」
「分からない」
ミレイアは首を振る。
「でも、このページだけは研究記録の最後にあった」
「他には?」
「何もない」
ミレイアはページをめくる。
次のページは白紙だった。
その次も。
最後まで何も書かれていない。
「まるで……」
フィリアが呟く。
「書く前に終わったみたい」
「……」
ミレイアは静かに頷いた。
「たぶん、母はここまで辿り着いた」
そして。
「でも、答えを出せなかった」
ノエルが記録帳を覗き込む。
「観測者を救うって、どういうこと?」
「分かりません」
リヴィアが答える。
「でも、考えてみれば……」
リヴィアは黒い水晶を見る。
「私たちはずっと、観測する側と観測される側を分けて考えていました」
「違うの?」
フィリアが尋ねる。
「もし観測者自身にも未来があるなら」
「その未来を選ぶ必要があります」
「……」
「そうなれば、観測者もまた人間と同じなのかもしれません」
ノエルが首を傾げる。
「観測者にも、選ばなかった未来がある?」
「きっと」
リヴィアは頷いた。
「だから、この記録は『観測者を倒す』ためのものではないのかもしれません」
「では?」
ルシアンが尋ねる。
リヴィアは黒い水晶を見る。
「観測者にも、自分の未来を選ばせるため」
その瞬間。
黒い水晶が強く輝いた。
「……!」
部屋中の水晶が一斉に反応する。
無数の未来が浮かび上がった。
しかし。
今までと違う。
映っているのは、人間たちの姿ではなかった。
白い空間。
何もない場所。
その中央に。
一人の少女が立っている。
「……あれは?」
ミレイアが目を細める。
銀色の長い髪。
淡い金色の瞳。
白い服。
リヴィアは息を呑んだ。
「……あの人」
以前出会った観測者だった。
だが。
その少女は一人だった。
周囲には何もない。
世界もない。
人間もいない。
ただ、無限に広がる白い空間。
少女は両手を胸の前で握っている。
そして。
何かに怯えるように周囲を見ていた。
『私は、何を選べばいい?』
声が聞こえる。
リヴィアは目を見開いた。
「……」
『世界を残せば、別の世界が消える』
『可能性を残せば、記録は完成しない』
『一つを選べば、他を失う』
観測者の少女が俯く。
『だから私は、選ばなかった』
『すべてを保存すればいいと思った』
リヴィアの胸が痛む。
「……」
『でも』
『保存することは、自由にすることではなかった』
少女の周囲に無数の水晶が現れる。
そこには。
様々な世界。
様々な人間。
様々な未来。
そして。
そのすべてを見つめる巨大な瞳。
『私は、失うことが怖かった』
その声は。
以前の威圧的なものとは違っていた。
とても小さい。
まるで。
一人の少女の声だった。
『だから観測した』
『記録した』
『残そうとした』
『でも、そのたびに誰かの未来を固定してしまった』
リヴィアは静かに映像を見る。
そして。
小さく呟いた。
「……私と同じだったんですね」
「リヴィア?」
ルシアンが見る。
「私も」
リヴィアは続ける。
「失うのが怖かったから、未来を決められることを恐れていました」
「……」
「だから逃げていた」
「でも」
映像の中の観測者を見る。
「この人は、失うのが怖かったから、全部を保存しようとした」
「正反対のようで」
「実は同じだったんです」
フィリアが首を傾げる。
「同じ?」
「未来が怖かった」
リヴィアは微笑んだ。
「ただ、それへの向き合い方が違っただけです」
すると。
映像の中の観測者が、こちらを見た。
「……!」
リヴィアの背筋が伸びる。
まるで。
こちらの存在を認識したようだった。
『あなたは――』
観測者が呟く。
『私の未来を見ているの?』
リヴィアは驚く。
それでも。
ゆっくり頷いた。
「はい」
『怖くない?』
「怖いです」
正直に答える。
『それでも見るの?』
「はい」
『どうして?』
リヴィアは少し考えた。
そして。
「あなたも、未来を選べる存在なのか知りたいからです」
『……』
「あなたが観測者だからって」
リヴィアは続ける。
「永遠に観測する側でいなければならない理由にはならないと思います」
『……』
「あなた自身にも、選ばなかった未来があるなら」
「それを選び直すことだってできるはずです」
観測者は何も言わなかった。
しかし。
その目から。
一粒の光が落ちた。
「……泣いてる?」
フィリアが小さく呟く。
観測者の頬を、透明な涙が流れている。
『私は……』
声が震える。
『もう一度、選んでもいいの?』
リヴィアは頷いた。
「もちろんです」
『でも、私が選んだら』
『他の未来は消えるかもしれない』
「それでも」
リヴィアは言った。
「その結果を受け入れることが、選ぶということだと思います」
ルシアンが静かに続ける。
「全てを手に入れられないからこそ、人は選ぶ」
「……」
「そして」
彼は観測者を見る。
「選んだ未来を大切にする」
観測者は目を閉じる。
白い空間に。
一つの扉が現れた。
『未来』
その扉を見つめる観測者。
しかし。
彼女はまだ動かない。
『怖い』
「……」
『自分で選ぶのが怖い』
リヴィアは少し笑った。
「私もそうでした」
『あなたも?』
「はい」
「だから」
リヴィアは手を伸ばす。
届くはずのない距離。
それでも。
「一緒に選びましょう」
その瞬間。
黒い水晶が大きく輝いた。
そして。
『第五記録――開始』
文字が浮かぶ。
ミレイアが驚く。
「第五記録……」
ノエルが呟く。
「次は観測者自身なんだ」
フィリアがリヴィアの手を握る。
「リヴィア」
「はい?」
「観測者も、友達になれる?」
「……」
リヴィアは少し考える。
「まだ分かりません」
そして。
「でも、話すことはできると思います」
ルシアンが微笑む。
「それで十分かもしれません」
その時。
白い空間の中。
観測者が扉へ近づいた。
一歩。
また一歩。
そして。
扉の前に立つ。
手を伸ばす。
しかし。
その瞬間。
扉の向こう側から。
巨大な瞳が開いた。
『選択は禁止』
『観測者は観測者であれ』
空間全体が震える。
観測者の顔が強張る。
「……!」
リヴィアも息を呑む。
「まだ……」
あの存在が残っている。
世界を統合しようとした、さらに上位の存在。
巨大な瞳が観測者を見つめる。
『お前に未来を選ぶ権利はない』
『お前は記録するために存在する』
観測者が震える。
しかし。
その背後に。
一つの小さな光が灯った。
リヴィアたちの世界。
エルディア。
ヴァロリア。
学院。
フィリア。
ノエル。
そして。
リヴィアとルシアン。
観測者が振り返る。
そこに映っていたのは。
彼女がこれまで記録してきた無数の人間たちだった。
そして。
リヴィアの声が響く。
「あなたが観測してきた未来は」
「あなた自身の未来でもあるんじゃないですか?」
観測者の目が見開かれる。
巨大な瞳が震える。
『……』
そして。
観測者は。
初めて自分自身の未来へ向かって。
一歩を踏み出した。
その瞬間。
黒い水晶の文字が変わった。
『第五記録――選択開始』
『対象――観測者』
『選択肢――』
最後の文字が現れる。
『観測を続ける』
『それとも――』
『自分自身の未来を生きる』
リヴィアは静かに見つめた。
まだ。
答えは出ていない。
けれど。
初めて。
観測者自身が。
選択肢の前に立っていた。




