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悪役令嬢ですが、攻略対象を全員無視して隣国の王子を奪います  作者: サトー
第二章 隣国の王子と始まる新たな物語
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未来を捨てようとする少年

 扉の向こう側。


 そこに、一人の少年が立っていた。


 リヴィアたちは誰も言葉を発することができなかった。


 少年は十六、七歳ほどに見える。


 淡い茶色の髪。


 少し長めの前髪。


 薄い青色の瞳。


 白いシャツに、古びた黒い上着。


 貴族にも平民にも見えない。


 ただ一つ。


 その少年の姿には、奇妙な違和感があった。


 存在しているはずなのに。


 まるで世界から半分だけ切り離されているようだった。


「……誰?」


 フィリアが小さく尋ねる。


 少年は答えない。


 ただ、こちらを見つめている。


 その目には。


 驚きも。


 恐怖も。


 怒りもなかった。


 諦めだけがあった。


「君は、この施設の研究員か?」


 ルシアンが一歩前に出る。


 少年は首を横に振った。


「……違う」


 初めて声を出した。


 弱々しい声だった。


「では、誰なのですか?」


 リヴィアが尋ねる。


「僕は……」


 少年は少し俯いた。


「誰でもない」


「……」


 ミレイアが眉を寄せる。


「名前は?」


「ない」


「そんなこと……」


 ミレイアが言葉を止める。


 しかし。


 リヴィアには、その言葉の意味が分かった。


 フィリアも。


 最初は名前を持っていなかった。


 存在そのものが記録されていなかったからだ。


「あなたも、記録されていない存在なんですか?」


 リヴィアが尋ねる。


 少年は顔を上げた。


「……違う」


「では?」


「僕は」


 少年は静かに答えた。


「記録されたことがある」


 その瞬間。


 部屋中の水晶が一斉に光った。


「……!」


 水晶に映像が浮かぶ。


 幼い少年。


 王都。


 学院。


 家族。


 友人。


 笑っている姿。


 泣いている姿。


 剣を握っている姿。


 本を読んでいる姿。


 様々な人生。


 しかし。


 それらすべてに一本の黒い線が引かれていた。


『選択――放棄』


『未来――破棄』


『存在――記録終了』


 リヴィアは息を呑んだ。


「あなたが……自分で未来を捨てたんですか?」


 少年は頷いた。


「うん」


「どうして?」


「必要なかったから」


「……」


「僕がいなくても、世界は続く」


 少年は淡々と言う。


「僕が何を選んでも、誰かの未来が変わる」


「だったら」


 少年は目を閉じる。


「最初から何も選ばなければいい」


 リヴィアの胸が締め付けられる。


 それは。


 以前の自分とは正反対だった。


 リヴィアは決められた未来から逃げた。


 でも。


 この少年は。


 未来そのものから逃げようとしている。


「あなたは、本当にそれを望んでいるんですか?」


「……」


「未来を捨てることを」


「うん」


 即答だった。


「後悔していませんか?」


「してない」


「一度も?」


「……」


 少年は少し黙った。


「たぶん」


 その答えに。


 リヴィアは気づいた。


「たぶん、ですか」


「……」


「本当に後悔していないなら」


 リヴィアは一歩近づく。


「どうして、この部屋にいるんですか?」


 少年の表情が初めて揺れた。


「……」


「未来を完全に捨てたのなら」


「どうして、ここに残っているんですか?」


 少年は答えない。


 フィリアが小さく言った。


「寂しい?」


 少年の目がフィリアへ向く。


「……」


「未来を捨てたから?」


「違う」


「じゃあ?」


「……分からない」


 フィリアは少し考えた。


「私も、最初は自分が何者なのか分からなかった」


「……」


「でも、リヴィアが名前をくれた」


 フィリアは微笑む。


「それで、自分で選びたいと思った」


 少年は黙っている。


 リヴィアはフィリアを見る。


 そして少年を見る。


「あなたにも、選べます」


「何を?」


「名前を」


「……」


「未来を」


「……」


「ここに残るのか」


「それとも外へ出るのか」


「誰かと一緒に生きるのか」


「一人で生きるのか」


 リヴィアは静かに言う。


「何も選ばないということも、一つの選択です」


 少年の目がわずかに揺れる。


「……それを選んだ」


「本当に?」


「……」


「あなたは、自分の未来を捨てたいんじゃない」


 リヴィアは一歩近づく。


「未来を選ぶことが怖いんじゃないですか?」


「……!」


 少年が初めて強く反応した。


 拳を握る。


「違う!」


 声が部屋に響いた。


「僕は……」


 少年は苦しそうに顔を歪める。


「選んだんだ」


「……」


「僕が選んだせいで、家族が……」


 言葉が途切れる。


「友達が……」


 少年の呼吸が震える。


「僕が未来を選んだから、誰かが傷ついた」


「だから」


「僕がいなければいいと思った」


 ミレイアが静かに目を伏せた。


 ルシアンは黙って少年を見る。


 リヴィアは。


 その言葉を聞いた瞬間。


 かつての自分を思い出した。


 悪役令嬢として生きれば。


 誰かを傷つける。


 ヒロインと対立すれば。


 誰かが苦しむ。


 だから。


 何もしない。


 関わらない。


 逃げる。


 それが最も安全だと思っていた。


「……私も」


 リヴィアが言った。


 少年が顔を上げる。


「以前は、あなたと同じでした」


「……?」


「誰かを傷つけるくらいなら」


「最初から何もしない方がいいと思っていた」


「でも」


 リヴィアは少し笑った。


「それでは、誰も傷つけない代わりに」


「自分自身も、何も得られませんでした」


 少年は黙って聞いている。


「友達も」


「大切な人も」


「笑える時間も」


「自分で選んだ未来も」


 リヴィアは胸元に手を当てる。


「全部失ってしまう」


 少年の目に。


 ほんの少しだけ光が戻る。


「……じゃあ」


「はい?」


「誰かを傷つけても、未来を選べっていうの?」


「違います」


 リヴィアは首を横に振る。


「誰かを傷つける未来を選べ、という話ではありません」


「では?」


「選んだ結果に責任を持つんです」


「……」


「もし間違えたなら、やり直せばいい」


「もし誰かを傷つけたなら、謝ればいい」


「もし別の道があるなら、探せばいい」


 リヴィアは少年を見る。


「未来は、一度選んだら終わりではありません」


「……」


「生きている限り、次の選択があります」


 ルシアンが静かに口を開く。


「その通りです」


 少年が彼を見る。


「僕もそう思います」


 ルシアンは続ける。


「僕自身、選べなかった未来をいくつも見ました」


「……」


「存在すら否定された未来も」


「それでも」


 深い青色の瞳が少年を見つめる。


「今ここにいる」


「……」


「それだけで、次の選択はできる」


 少年は長い間、何も言わなかった。


 やがて。


「……名前が欲しい」


 小さな声だった。


 リヴィアが目を見開く。


「名前を?」


「うん」


「どんな名前がいいですか?」


「分からない」


 少年は困ったように笑った。


「自分で決めたことがないから」


 フィリアが手を挙げた。


「じゃあ、リヴィアに決めてもらえば?」


「フィリア」


 リヴィアが驚く。


「私が?」


「うん」


 少年は少しだけ考える。


「……それでもいい」


 リヴィアは少年を見る。


 白い服。


 淡い茶色の髪。


 薄い青い瞳。


 未来を捨てた少年。


 しかし。


 今。


 もう一度、未来を選ぼうとしている。


「では……」


 リヴィアは少し考えた。


「ノエル」


「ノエル?」


「はい」


 リヴィアは微笑む。


「冬のように静かな場所にいたけれど」


「そこから春へ進めるように」


「……」


 少年はその名前を何度か口にした。


「ノエル……」


 そして。


 小さく笑った。


「気に入った」


 その瞬間。


 部屋中の水晶が一斉に輝いた。


『存在名――確定』


『ノエル』


『選択――再開』


『未来――未確定』


 黒い水晶が震える。


『第四記録――更新』


 しかし。


 次の瞬間。


 部屋の奥から、別の音が響いた。


 ――ピシッ。


 一本の水晶に亀裂が入る。


「……!」


 リヴィアが振り返る。


 亀裂は広がっていく。


 その水晶に映っているのは――。


 ノエル。


 しかし。


 今度は一人ではない。


 その隣に。


 見覚えのある女性が立っている。


「……!」


 ミレイアの顔が青ざめる。


「お母さん……?」


 水晶の中。


 ミレイアの母が、ノエルの肩に手を置いていた。


 そして。


 こちらを見ている。


『この子をお願いします』


 ミレイアの目から涙が落ちる。


「お母さん……」


『この子は、未来を捨てたんじゃない』


『未来を誰かに奪われるのが怖かっただけ』


 水晶が再び揺れる。


『だから――』


『あなたたちが教えてあげて』


『未来は、一人で背負うものではないと』


 映像が消える。


 ミレイアはその場に立ち尽くしていた。


 ノエルも何も言わない。


 リヴィアはミレイアの肩にそっと手を置いた。


「……」


「お母さんは」


 ミレイアが震える声で言う。


「ずっと、この子を……」


 そこまで言って。


 彼女は涙を拭った。


「……ありがとう」


 誰に向けた言葉なのか。


 リヴィアには分からなかった。


 けれど。


 それはきっと。


 遠い未来にいる母へ向けた言葉だった。


 その時。


 部屋の中央に、巨大な文字が浮かんだ。


『第四記録――終了条件変更』


『未来を捨てた存在――再選択』


『選択――成功』


『現在の未来――維持』


 そして。


『第四記録――完了』


 静かな光が部屋を包む。


 ノエルは自分の手を見つめる。


「……未来」


 小さく呟く。


「まだ、あるんだ」


 リヴィアは微笑んだ。


「はい」


 ルシアンも頷く。


「ここからです」


 フィリアがノエルの隣に立つ。


「明日から何する?」


「……」


 ノエルは少し困った顔をした。


「分からない」


「じゃあ、一緒に考えよう」


「……うん」


 その会話を聞いて。


 リヴィアは笑った。


 未来を捨てようとしていた少年は。


 今。


 初めて、明日のことを考えている。


 しかし。


 誰も気づかなかった。


 研究施設のさらに奥。


 第四記録が終了したはずの黒い水晶に。


 一つだけ文字が残っていた。


『第四記録――完了』


『人間の未来――継続』


『観測――不要』


 そして。


 その下に。


 これまで存在しなかった一文が浮かぶ。


『次なる記録――観測者自身』


 黒い水晶の奥で。


 小さな銀色の瞳が。


 ゆっくりと開いた。

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