選ばれなかった未来の部屋
ヴァロリア王国、王立研究施設。
地下へ続く扉の前で、リヴィアたちは立ち止まっていた。
白い石造りの壁。
青い魔力結晶。
そして、扉の向こうから漏れてくる淡い銀色の光。
今まで見てきた観測施設とは、どこか違っていた。
黒い水晶ではない。
青い結晶でもない。
ただ静かな銀色。
まるで、誰かの記憶を閉じ込めた光のようだった。
「この先は?」
ルシアンが研究員に尋ねる。
「記録には存在しない区画です」
「存在しない?」
「はい」
研究員は震えながら答えた。
「施設の設計図にもありません。古い記録にも、この扉についての記述は一切ありませんでした」
ミレイアが扉を見る。
「母も、この場所について話したことはありません」
「では、なぜ今になって?」
リヴィアが尋ねる。
「分かりません」
研究員が首を横に振る。
「ただ、昨日から保存記録に異常が発生していて……」
「一つの未来が消えた」
ミレイアが呟く。
「はい」
その瞬間。
銀色の光が強くなった。
扉の中央に文字が浮かぶ。
『第四記録』
リヴィアの表情が変わる。
「……」
ルシアンが剣の柄に手を置いた。
「僕が先に入ります」
「待ってください」
リヴィアが彼の袖を掴む。
「一緒に行きます」
「危険かもしれません」
「分かっています」
リヴィアはまっすぐ彼を見る。
「でも、一人で行かせるつもりもありません」
「……」
ルシアンは少しだけ目を細める。
「分かりました」
そして。
二人は並んで扉の前に立った。
ミレイアとフィリアも続く。
レオンハルトは後方から周囲を警戒している。
「開けるぞ」
レオンハルトが扉に手をかざした。
青い魔力が流れ込む。
しかし。
何も起こらない。
「反応しない?」
研究員が困惑する。
その時。
リヴィアの胸元にあった小さな銀色の装飾が光った。
「……え?」
淡い光が扉へ伸びていく。
すると。
カチッ。
小さな音がした。
扉が開く。
「……」
全員が息を呑む。
その先にあったのは。
部屋だった。
しかし。
普通の部屋ではない。
壁一面に、無数の透明な水晶が並んでいる。
水晶一つ一つの中に。
別々の景色が映っていた。
王都。
学院。
森。
王宮。
知らない街。
戦場。
そして。
誰もいない世界。
「……これが」
ミレイアが呟く。
「母の研究……」
リヴィアはゆっくり歩く。
水晶の一つに近づく。
そこには。
幼いミレイアが映っていた。
「……!」
ミレイアが立ち止まる。
水晶の中のミレイアは、今よりずっと幼い。
その隣には――。
「お母さん……」
ミレイアの声が震えた。
そこには一人の女性がいた。
長い黒髪。
穏やかな表情。
白い研究服。
ミレイアの母だった。
「これは……過去?」
ルシアンが尋ねる。
「違う」
ミレイアが首を横に振る。
「この場面は、起きていない」
「……」
「母と一緒に研究施設に来たことなんてない」
ミレイアは水晶に手を伸ばす。
指先が触れた瞬間。
映像が鮮明になった。
幼いミレイアが母に尋ねている。
『お母さん』
『なあに?』
『もし、別の未来があったら?』
母は微笑んで答える。
『その未来も、きっとどこかで生きているわ』
『会える?』
『いつかね』
映像が途切れる。
ミレイアは手を離した。
「……」
目に涙が浮かんでいる。
リヴィアは何も言わず、彼女の隣に立った。
「これは……」
フィリアが水晶を見る。
「本当に起きていない未来なの?」
「はい」
リヴィアが答える。
「選ばれなかった未来です」
すると。
部屋の奥から音がした。
カチッ。
カチッ。
カチッ。
無数の水晶が同時に光り始める。
「……!」
景色が次々と変化する。
リヴィア。
ルシアン。
ミレイア。
フィリア。
エヴリン。
アルベルト。
カイル。
セドリック。
ノア。
そこには、全員の「選ばなかった未来」が映っていた。
リヴィアは息を呑む。
ある水晶では。
自分は学院に入学していなかった。
別の水晶では。
エヴリンと出会っていない。
さらに別の水晶では。
ルシアンと一度も会っていない。
「……」
そして。
一つの水晶に目が止まった。
そこにいたのは――。
黒髪の少女。
現代の服。
鏡に映った顔。
「……私」
神谷紗月。
かつての自分だった。
しかし。
その世界では。
紗月は死んでいなかった。
「……」
リヴィアは水晶に近づく。
映像の中の紗月は、大学へ向かっている。
友人と笑っている。
普通の生活。
何も知らない。
そして。
リヴィアは思わず手を伸ばした。
「この未来……」
ルシアンが静かに言う。
「選ばれなかった未来ですね」
「はい」
紗月は生きている。
それは。
リヴィアが一度だけ考えたことのある未来だった。
もし死ななかったら。
もし転生しなかったら。
もし、あのゲームを知らなかったら。
もし――。
「私は、この未来を選ばなかった」
リヴィアが呟く。
「……」
ルシアンは何も言わない。
しばらくして。
リヴィアは水晶から手を離した。
「でも」
「はい?」
「この未来の私も、幸せそうです」
「……」
「だから、よかった」
リヴィアは微笑む。
「私が知らないところで、ちゃんと生きている可能性があるなら」
その瞬間。
水晶が淡く輝いた。
『記録――保存』
『選択されなかった未来――否定しない』
リヴィアは目を見開く。
「……」
以前なら。
自分の別の未来を見れば、どちらが本当の自分なのか悩んでいたかもしれない。
でも今は違う。
神谷紗月も。
リヴィア・アーデントも。
どちらも、自分の人生だった。
ただ。
別々の未来を歩いただけ。
「これが……」
リヴィアは静かに呟く。
「この部屋の目的なんですね」
ミレイアが振り返る。
「どういうこと?」
「未来を選ぶために、選ばなかった未来を消すんじゃない」
リヴィアは周囲の水晶を見る。
「選ばなかった未来も、存在した可能性として残す」
「……」
「そうすれば、自分が選んだ未来を否定する必要もない」
ミレイアの目に涙が浮かぶ。
「……母がやろうとしていたこと」
「はい」
「でも」
ミレイアが拳を握る。
「それなら、なぜ母はこの研究を捨てたの?」
その瞬間。
部屋の奥で。
一つの水晶が黒く染まった。
「……!」
リヴィアが振り返る。
黒い水晶。
その中には何も映っていない。
ただ。
一行の文字だけ。
『救済対象――選択されなかった未来』
そして。
『条件――現在の未来を一つ捨てること』
「……」
空気が凍る。
ミレイアが青ざめる。
「それ……」
「はい」
ルシアンが答える。
「代償を要求しています」
黒い水晶の中に、新たな文字が浮かぶ。
『一つの未来を救う』
『一つの未来を失う』
「そんな……」
フィリアが不安そうにリヴィアを見る。
「どちらかを選ばないといけない?」
「……」
リヴィアは答えなかった。
それは。
以前の観測者と同じ考え方だった。
一つを選ぶために。
別の可能性を切り捨てる。
しかし。
それなら。
自由とは何なのか。
「違います」
リヴィアが静かに言った。
全員が彼女を見る。
「私は、この条件では選びません」
「リヴィア?」
ミレイアが驚く。
「一つを救うために、一つを捨てる必要があるなら」
リヴィアは黒い水晶を見る。
「その選択自体を拒否します」
「……」
「未来は、誰か一人の犠牲を前提にしなければならないものじゃない」
ルシアンが静かに笑った。
「リヴィアらしいですね」
「……」
「でも」
ルシアンは剣を抜いた。
「その選択を拒否するなら、ここにある仕組みそのものを壊す必要があるかもしれません」
「はい」
リヴィアも頷く。
しかし。
その瞬間。
黒い水晶の中に、一人の姿が映った。
「……!」
全員が息を呑む。
そこにいたのは――。
ミレイアの母。
「お母さん……?」
ミレイアが一歩前へ出る。
水晶の中の女性は。
静かにこちらを見つめていた。
そして。
映像ではあり得ないはずなのに。
唇が動いた。
『ミレイア』
「……!」
『もし、この記録を見ているなら』
ミレイアの目から涙が落ちる。
『お願い』
『この研究を完成させないで』
「……」
『未来を救おうとしてはいけない』
『未来を選ぶのは、その未来を生きる人だから』
水晶が大きく揺れる。
『私が選ばなかった未来も』
『あなたが選ばなかった未来も』
『救う必要はない』
『ただ――』
女性は微笑んだ。
『忘れないで』
その言葉を最後に。
水晶が砕けた。
「お母さん!」
ミレイアが手を伸ばす。
しかし。
光は消えてしまった。
残されたのは。
一つの銀色の結晶だけ。
ミレイアがそれを拾う。
その瞬間。
部屋中の水晶が一斉に輝いた。
無数の未来が映る。
そして。
中央に大きな文字が浮かぶ。
『第四記録――真の目的を確認』
『選ばれなかった未来を保存する』
『現在の未来への干渉――禁止』
リヴィアは静かに息を吐いた。
「……」
これで分かった。
第四記録は。
過去の観測者が残した装置ではない。
誰かの未来を奪うためのものでもない。
選ばれなかった未来を。
ただ、消さずに残すための場所だった。
しかし。
最後に一つだけ。
黒い水晶に新しい文字が浮かんだ。
『ただし――』
全員が見つめる。
『一つだけ、保存できない未来が存在する』
「……?」
リヴィアの表情が変わる。
『本人が、その未来を捨てることを望んだ場合』
静寂。
それは。
未来そのものではなく。
人間の意思についての問いだった。
誰かが自分の未来を諦めた時。
その選択を尊重するのか。
それとも。
誰かが救うべきなのか。
リヴィアは黒い水晶を見つめた。
答えはまだ出ていない。
しかし。
その問いこそが。
次の記録へ繋がることを。
彼女はまだ知らなかった。
部屋の奥。
誰も気づかない場所で。
新しい扉が開く。
その向こうに見えたのは――。
一人の少年だった。
誰も知らない少年。
誰にも選ばれなかった未来で。
一人だけ。
未来を捨てようとしている少年だった。




