ヴァロリアに残された未来
翌朝。
エルディア王国の王城前には、数台の馬車が並んでいた。
目的地は隣国――ヴァロリア王国。
昨夜、研究施設から届いた報告書。
そこに記されていたのは、ミレイア・ノクスの名前。
そして、ルシアンの名前。
二人の「選ばれなかった未来」だった。
「……」
リヴィアは馬車の前で、深く息を吐いた。
今日の服装は、普段の学院制服ではない。
淡い青色を基調としたドレス。
胸元には小さな銀の装飾。
灰金色の髪は後ろでまとめられ、細い銀色の髪飾りが光っている。
旅をするため、裾は普段より少し短く、歩きやすいように整えられていた。
その隣にはフィリア。
白い服の上から淡い銀色の外套を羽織っている。
「リヴィア」
「はい?」
「寒くない?」
「大丈夫ですよ」
「そう」
フィリアは頷く。
その手には、小さな袋。
中身はパンだった。
「……」
リヴィアはそれを見た。
「何個入っていますか?」
「五個」
「……」
「昨日より減った」
「一個から増えていますけど」
「旅行だから」
「旅行でも一個で十分です」
ルシアンが後ろから笑う。
「彼女なりに加減しているんです。褒めてあげてください」
「ルシアン様はフィリアに甘すぎませんか?」
「そうでしょうか」
「はい」
「では、リヴィアにも同じくらい甘くしましょうか?」
「……」
リヴィアの顔が赤くなる。
「な、何を言っているんですか!」
「冗談です」
「絶対に楽しんでいますよね?」
「少しだけ」
フィリアが二人を見る。
「リヴィアもパンを食べる?」
「……話を戻さないでください」
その様子を少し離れたところから見ていたレオンハルトが、肩を震わせていた。
「随分と賑やかだな」
「兄上」
ルシアンが振り返る。
「僕たちは真面目に話しています」
「そうは見えないが」
「……」
リヴィアは少しだけ視線を逸らした。
そこへエヴリンがやってくる。
「おはよう!」
「エヴリン?」
リヴィアが驚く。
「どうしてここに?」
「見送り」
エヴリンは笑った。
その隣にはアルベルトもいる。
「ヴァロリアへ行くんでしょう?」
「はい」
「だったら、帰ってくるまで学院のことは任せて」
エヴリンが胸を張る。
「何を任せるんですか?」
「学院の平和」
「……」
リヴィアは少し考える。
「エヴリン」
「なに?」
「あなたが問題を起こさないことも、学院の平和に含まれますからね」
「えっ?」
「そこからですか?」
アルベルトが苦笑する。
「大丈夫だ。僕が見ておく」
「アルベルト様」
エヴリンが振り返る。
「私、そんなに問題を起こしてないよ?」
「……」
アルベルトが少し黙った。
「どうして黙るの?」
「いや」
「何か言って!」
リヴィアは思わず笑ってしまった。
こういう何でもないやり取り。
それが今は、妙に大切に思える。
「では、行ってきます」
「うん」
エヴリンが手を振る。
「気をつけてね」
「はい」
馬車へ乗り込む。
ルシアンが続いて乗り込む。
レオンハルトも別の馬車へ。
フィリアは最後に乗り込んだ。
そして。
馬車がゆっくりと動き始める。
エルディアの王城が遠ざかっていく。
リヴィアは窓から外を見ていた。
「……」
「寂しいですか?」
向かいに座っているルシアンが尋ねる。
「少しだけ」
「すぐ戻れますよ」
「はい」
リヴィアは頷く。
「でも……」
「?」
「最近、ここで過ごす時間が好きなんです」
「学院で?」
「王都も」
そして。
少しだけ視線を逸らす。
「……皆と一緒にいる時間も」
ルシアンは微笑んだ。
「僕もです」
「……」
「だから、ちゃんと戻りましょう」
「はい」
馬車は街道を進んでいく。
しばらくして。
フィリアが窓の外を見ながら呟いた。
「ヴァロリアはどんなところ?」
「大きな王都ですよ」
リヴィアが答える。
「王宮も大きいですし、研究施設もあります」
「パンは?」
「……」
「そこからなんですか?」
「重要」
「ヴァロリアのパンも美味しいですよ」
ルシアンが答える。
「本当?」
「はい」
フィリアの目が輝いた。
「……」
リヴィアは嫌な予感がした。
「ルシアン様」
「はい?」
「フィリアに変なことを教えないでください」
「僕は何も教えていませんよ」
「でも……」
「大丈夫です」
ルシアンが笑う。
「ヴァロリアのパン屋には、ちゃんと一人分のサイズがあります」
「それなら安心ですね」
「三十個買っても問題ない」
「問題あります!」
馬車の中に笑い声が響いた。
しかし。
ヴァロリアへ近づくにつれて。
少しずつ空気が変わっていった。
街道を進むにつれて、周囲の建物が少なくなる。
代わりに。
青い魔力結晶を使った街灯が増えていく。
そして遠くに。
巨大な白い城壁が見えてきた。
「ヴァロリア王国です」
ルシアンが言う。
フィリアが窓に顔を近づける。
「大きい」
リヴィアも窓から外を見る。
以前訪れた時と変わらない。
高い城壁。
白い石造りの建物。
青い魔力灯。
そして。
王宮の上空に浮かぶ巨大な魔法結晶。
美しい王都だった。
しかし。
その美しさの奥には。
今回の事件に繋がる研究施設が存在している。
「……」
リヴィアは少しだけ表情を引き締めた。
王都へ入ると、ルシアンたちはそのまま王宮へ向かった。
王宮の一室。
レオンハルトが待っていた。
「到着したか」
「はい」
ルシアンが答える。
リヴィアとフィリアも頭を下げる。
「まず、研究施設からの報告を確認しよう」
レオンハルトが机の上に書類を広げる。
そこには昨夜見たものと同じ内容が書かれていた。
しかし。
一つだけ違う。
「このページを見てほしい」
レオンハルトが指を示す。
リヴィアが近づく。
「……」
そこには。
一人の少女の未来が記されていた。
『ミレイア・ノクス』
『選択されなかった未来――研究者』
『選択されなかった未来――母との再会』
『選択されなかった未来――ヴァロリアに残る』
『選択されなかった未来――組織に戻る』
リヴィアは息を呑んだ。
「……こんなに」
「まだあります」
レオンハルトがページをめくる。
次のページ。
そこにはさらに多くの未来があった。
『王宮魔術師となる未来』
『研究施設の責任者となる未来』
『学院へ戻る未来』
『母を追わずに平穏に暮らす未来』
「……」
ミレイアが選ばなかった道。
それらがすべて記録されている。
「これは……」
リヴィアが呟く。
「彼女が選ばなかった人生を、全部保存しているんですか?」
「そのようです」
レオンハルトが答える。
「しかし」
彼は最後のページを開いた。
「これだけではない」
そこには。
一つだけ赤い印がついていた。
『選択されなかった未来――危険』
「……」
リヴィアの表情が変わる。
「これは何ですか?」
「まだ詳細は分かっていない」
「では、ミレイア本人に聞くしかありませんね」
「その通りだ」
その時。
部屋の扉が開いた。
「その必要はない」
聞き覚えのある声。
リヴィアが振り返る。
そこに。
ミレイア・ノクスが立っていた。
長い黒髪。
灰色の瞳。
黒い外套。
胸元には、銀色のペンダント。
いつもと同じ姿。
しかし。
その表情には、明らかな緊張があった。
「ミレイア……」
リヴィアが名前を呼ぶ。
「久しぶり」
「はい」
ミレイアは部屋に入る。
そして。
机の上にある記録を見つめた。
「……やっぱり」
「何か知っているんですか?」
ルシアンが尋ねる。
「少しだけ」
ミレイアはペンダントを握った。
「この記録は、母が研究していたものと同じです」
「……!」
リヴィアの目が見開かれる。
「お母様が?」
「ええ」
ミレイアは頷く。
「母は、人間の『選ばなかった未来』を記録する研究をしていた」
「どうして?」
「未来を予測するためじゃない」
ミレイアは静かに答えた。
「未来を失った人間を、もう一度救うため」
部屋が静まり返る。
「母は、こう考えていた」
ミレイアは続ける。
「人間は一つの未来しか生きられない」
「でも、選ばなかった未来が消えるとは限らない」
「その可能性がどこかに残っているなら――」
「いつか、救えるかもしれない」
リヴィアは息を呑んだ。
それは。
以前の観測者とは正反対の思想だった。
観測者は未来を固定しようとした。
しかし。
ミレイアの母は。
失われた未来を救おうとしていた。
「では、なぜ研究をやめたんですか?」
ミレイアの表情が曇る。
「母は、ある未来を見てしまった」
「どんな未来ですか?」
「……」
ミレイアはしばらく黙った。
そして。
「誰か一人を救うために、別の誰かの未来を奪う未来」
「……」
「母は、それを見て研究を止めた」
リヴィアの背筋に冷たいものが走った。
「未来を救うことが」
「別の未来を殺すことになる……」
ミレイアは頷いた。
「だから母は言った」
「『人間が未来を選ぶ権利だけは、誰にも奪わせてはいけない』と」
その言葉に。
リヴィアは胸を打たれた。
自分たちが、ずっと戦ってきたものと同じだった。
未来を誰かに決められないこと。
自分自身で選ぶこと。
それこそが――。
今の世界に残された最後の課題なのかもしれない。
その時。
研究施設の警報が鳴った。
――キィィィィン!
青い魔力結晶が一斉に輝く。
「何だ!?」
レオンハルトが立ち上がる。
扉の外から研究員の声が響いた。
「殿下!」
「どうした!」
「記録保管室で異常が!」
「何が起きた!?」
「保存されていた未来記録が――」
一瞬の沈黙。
「一つだけ、消えました!」
リヴィアの表情が凍る。
「……消えた?」
ミレイアの顔から血の気が引く。
「そんな……」
ルシアンが剣に手を添える。
「誰の記録です?」
研究員が震える声で答えた。
「……まだ確認できません」
その直後。
研究施設の地下から。
低い音が響いた。
ゴゴゴゴゴ――。
床が微かに揺れる。
そして。
研究施設の奥。
誰も入ったことのない地下区画への扉が。
ゆっくりと開き始めた。
扉の向こうから。
淡い銀色の光が漏れてくる。
その光の中に。
一つの文字だけが浮かんでいた。
『第四記録』
リヴィアはその文字を見つめる。
「……始まった」
ルシアンが隣に立つ。
「行きましょう」
「はい」
ミレイアもペンダントを握りしめた。
「私も行く」
フィリアがリヴィアの手を取る。
「私も」
リヴィアは三人を見る。
そして。
開かれた扉の向こうへ歩き出した。
その先に待っているのは。
誰かが選ばなかった未来。
そして――。
その未来を救うことが、本当に正しいのかを問う記録だった。




