選ばれなかった未来
翌朝。
王立セイレーン学院の教室は、いつもと変わらない朝を迎えていた。
窓から差し込む光。
生徒たちの話し声。
机の上に並べられた教科書。
黒板の前で授業の準備をする教師。
何も変わっていない。
それなのに。
リヴィアには、昨日までとは少し違って見えた。
世界は自由になった。
未来は決められていない。
そして、人々が選んだものそのものが、未来を作っていく。
「……」
リヴィアは窓の外を見る。
中庭では、フィリアが一人で花壇を眺めていた。
銀色の髪が風に揺れている。
昨日、自分が何者なのかを問われた少女。
そして、自分で答えを選んだ少女。
「フィリア……」
「どうしたの?」
エヴリンが隣から尋ねる。
「いえ。フィリアを見ていました」
「あの子、最近すっかり学院に馴染んだね」
「はい」
リヴィアは微笑む。
「最初は何も知らなかったのに」
「今では食堂の場所も覚えたしね」
「……パンを三十二個頼む方法まで覚えました」
「それは覚えなくていいと思う」
「私もそう思います」
二人は顔を見合わせる。
そして、同時に笑った。
しかし。
その時。
リヴィアの視界の端に、銀色の光が走った。
「……」
笑顔が消える。
黒板の上。
誰にも見えない場所に、文字が浮かんでいた。
『第三記録――終了』
『次なる記録――未定』
昨日と同じ。
だが、その下に新しい一文があった。
『選択されなかった未来――存在』
「……?」
リヴィアは目を細める。
「どうしたの?」
「いえ……」
文字はすぐに消えた。
しかし、その言葉だけが頭に残った。
選択されなかった未来。
それは一体何なのか。
昼休み。
リヴィアはルシアンとフィリア、エヴリンたちと中庭に集まっていた。
今日の昼食は学院の食堂で買ったものだ。
フィリアは自分の前に置かれたパンをじっと見つめている。
「……」
リヴィアは嫌な予感がした。
「フィリア」
「何?」
「そのパンは一個ですよ」
「うん」
「今日は三十二個注文していませんよね?」
「してない」
「本当ですか?」
「今日は二十九個」
「減っただけです!」
リヴィアが思わず立ち上がる。
エヴリンが吹き出した。
「フィリア、そういう問題じゃないよ」
「でも、昨日リヴィアは三十二個が駄目と言った」
「そうです」
「だから二十九個にした」
「……」
リヴィアは頭を抱えた。
「どうして三個しか減らさないんですか……」
ルシアンが静かに口元を押さえる。
「何がおかしいんですか?」
「いえ」
「絶対笑っていますよね?」
「少しだけ」
「もう……」
フィリアは真剣な顔でパンを見つめる。
「では、何個ならいい?」
「一個です」
「……」
「一個だけ」
「分かった」
フィリアは素直に頷いた。
その様子を見て、リヴィアは少し安心する。
「それにしても」
エヴリンがパンを一口食べながら言う。
「昨日のこと、まだ気になってる?」
「昨日?」
「観測記録」
「……はい」
リヴィアは頷く。
「『選択されなかった未来』という言葉が、少し気になっています」
ルシアンも真剣な顔になる。
「僕もです」
「でも、どういう意味なんだろう」
エヴリンが首を傾げる。
「可能性として存在していた未来、ということでしょうか」
「以前の第四世界や第五世界のようなもの?」
「それとも――」
リヴィアが言葉を止める。
「私たちが選ばなかった人生そのもの……」
「例えば?」
ルシアンが尋ねる。
「私が学院に入らなかった未来」
「……」
「エヴリンと友達にならなかった未来」
「……」
「ルシアン様と出会わなかった未来」
その言葉を口にした瞬間。
リヴィアの胸が小さく痛んだ。
「……」
ルシアンは何も言わなかった。
ただ、静かにリヴィアを見ている。
エヴリンも気づいたのか、少しだけ表情を変えた。
「でも」
リヴィアは続ける。
「それらは、もう選ばなかった未来です」
「そうだね」
エヴリンが頷く。
「だから、今の私たちとは関係ないんじゃない?」
「……」
その時だった。
噴水の水面が揺れた。
風は吹いていない。
それなのに。
水面だけが円を描くように揺れている。
「……来ました」
リヴィアが立ち上がる。
銀色の文字が浮かび上がる。
『記録外の未来――接近』
リヴィアの顔が強張る。
「記録外?」
ルシアンが立ち上がる。
次の文字が現れる。
『選択されなかった未来――一時接続』
「一時接続……?」
リヴィアが水面へ近づく。
すると。
水面に景色が映った。
王立セイレーン学院。
同じ中庭。
同じ噴水。
同じ場所。
しかし。
「……誰もいない」
エヴリンが呟く。
そこには誰もいなかった。
生徒も。
教師も。
フィリアも。
リヴィア自身も。
ただ静かな学院だけが存在している。
「これは……」
ルシアンが水面を見つめる。
「別の未来でしょうか?」
「分かりません」
リヴィアは首を横に振る。
映像が変わる。
今度は王城。
玉座の間。
そこにも誰もいない。
次に王都。
誰も歩いていない。
そして。
最後に一人の少女が映った。
「……!」
リヴィアは息を呑む。
銀色の髪。
淡い金色の瞳。
白い服。
「フィリア……?」
しかし。
そこにいるフィリアは、今のフィリアとは違っていた。
表情がない。
目にも光がない。
ただ、一人で立っている。
「これは……」
フィリア本人が映像を見る。
「私?」
リヴィアは答えられない。
映像の中のフィリアが、ゆっくり顔を上げた。
そして。
こちらを見た。
「……!」
まるで。
水面の向こう側から、こちらを認識しているようだった。
フィリアが一歩近づく。
映像のフィリアも一歩近づく。
二人の姿が重なる。
「やめて!」
リヴィアがフィリアの肩を抱く。
「見なくていい!」
「でも……」
「これはあなたが選んだ未来じゃありません」
リヴィアは強く言う。
「だから、あなたの未来じゃない」
フィリアがリヴィアを見る。
「……」
映像の中のフィリアが、静かに口を開いた。
声は聞こえない。
しかし。
唇の動きだけは分かった。
『助けて』
「……!」
フィリアが目を見開く。
「私……?」
ルシアンが水面を見る。
「リヴィア」
「はい」
「これは単なる記録ではないかもしれません」
「……」
「選択されなかった未来が、こちら側に干渉しようとしている」
銀色の文字が浮かぶ。
『接続――不安定』
『未来――分岐』
『選択された世界――確認』
『選択されなかった未来――消失予定』
フィリアの顔が青ざめる。
「消える?」
リヴィアはすぐに彼女の手を握った。
「大丈夫です」
「でも、あの私が――」
「あなたではありません」
「……」
「あなたはここにいます」
リヴィアはフィリアの手を強く握る。
「私たちと一緒にいます」
エヴリンも頷く。
「そうだよ」
「フィリアはフィリア」
ルシアンが静かに言う。
「別の未来の存在まで、君が背負う必要はない」
フィリアは三人を見る。
「……」
しばらく黙っていた。
そして。
「でも」
「はい?」
「もし、あの子も私だったら?」
リヴィアは言葉を失った。
フィリアの目に、悲しみが浮かんでいる。
「私が選ばなかった未来なら」
「その未来の私も……私なの?」
「……」
誰も答えられない。
その問いは。
かつてリヴィア自身が抱えた問いと似ていた。
神谷紗月。
リヴィア・アーデント。
同じ魂。
違う人生。
違う世界。
違う選択。
それでも。
どちらも自分だった。
「……そうかもしれません」
リヴィアはゆっくり答えた。
「でも」
フィリアの目を見る。
「だからといって、あなたがその未来に戻る必要はありません」
「……」
「過去も、選ばなかった未来も、存在したことまで否定する必要はない」
「でも、今のあなたは――」
リヴィアは微笑んだ。
「ここにいるフィリアです」
フィリアの目から、一粒の涙が落ちた。
「……うん」
その瞬間。
水面の映像が揺れた。
もう一人のフィリアが、こちらを見つめている。
そして。
小さく笑った。
『ありがとう』
その言葉だけが聞こえた。
次の瞬間。
映像が消える。
噴水は元の静かな水面に戻った。
銀色の文字も消えていく。
『接続――終了』
『未来――分岐維持』
『選択された世界――継続』
『選択されなかった未来――保存』
最後に。
『消去しない』
その文字が浮かんだ。
リヴィアはそれを見つめた。
「……保存?」
ルシアンが頷く。
「どうやら、今回の観測は消すことではなく、残すことを選んだようですね」
「誰が選んだんでしょう?」
エヴリンが尋ねる。
リヴィアはフィリアを見る。
「……フィリア自身かもしれません」
フィリアは涙を拭った。
「私?」
「はい」
「どうして?」
「あなたが、あの未来を否定しなかったからです」
リヴィアは静かに言う。
「でも、そこへ戻ることも選ばなかった」
「……」
「だから、二つの未来が存在したままになったのかもしれません」
フィリアは少し考える。
「じゃあ」
そして。
小さく笑った。
「あの子も、どこかで生きられる?」
「そうかもしれません」
「なら、よかった」
リヴィアも微笑む。
その時。
ルシアンがふと空を見る。
「……リヴィア」
「はい?」
「もう一つ」
彼が指差した先。
時計塔。
そこに銀色の文字が浮かんでいた。
『第四記録』
『対象――選択されなかった未来』
『観測方法――接続』
そして。
『次の選択――誰かが未来を捨てる時』
「……」
リヴィアの表情が変わった。
選択されなかった未来。
それを観測するだけなら、まだ理解できる。
しかし。
『誰かが未来を捨てる時』
その言葉には。
今までとは違う不穏さがあった。
未来を選ぶということは。
同時に。
別の未来を選ばないということでもある。
なら。
もし誰かが、自分の未来そのものを諦めたら――。
何が起こるのか。
リヴィアには、まだ分からなかった。
ただ一つ。
時計塔の銀色の光だけが。
静かに。
次の記録を待っていた。




