フィリアが選ぶ未来
翌日の放課後。
王立セイレーン学院の中庭では、穏やかな風が吹いていた。
噴水の水面に夕日の光が反射し、銀色の輝きを帯びている。
しかし。
昨日までとは違う。
リヴィアは噴水を少し離れた場所から見つめていた。
「……何も起きませんね」
隣にいるルシアンが答える。
「昨日のような文字も?」
「はい」
「なら、今日は何もないのかもしれません」
「そうだといいんですが……」
リヴィアは少しだけ不安そうに水面を見る。
昨日。
そこには新しい記録が表示された。
『第三記録――準備』
そして対象として選ばれた名前。
『フィリア』
「……」
リヴィアはその名前を思い出す。
フィリア。
第五世界から生まれた、どの記録にも登録されていなかった存在。
最初は名前すら持っていなかった。
けれど、リヴィアが彼女に名前を与えた。
フィリア。
そして今では、エルディアで一緒に暮らしている。
「フィリアは大丈夫でしょうか」
「心配ですか?」
「もちろんです」
リヴィアは即答した。
「彼女はまだ、この世界での生活に慣れていません」
「確かに」
ルシアンが頷く。
「昨日も、学院の食堂で少し問題を起こしたそうですね」
「……」
リヴィアの表情が固まる。
「ご存じなんですか?」
「聞きました」
「何を?」
「パンを三十個注文したとか」
「……」
リヴィアは目を閉じる。
「三十個……」
「正確には、三十個ではなく三十二個です」
「増えているじゃないですか」
「店員が数を間違えた可能性もあります」
「そんなところを真面目に考えなくていいです」
リヴィアがため息をつく。
その時。
「リヴィア!」
遠くから声がした。
振り返る。
銀色の髪が夕日に輝いている。
フィリアだった。
白い服を身にまとい、こちらへ駆けてくる。
「リヴィア!」
「フィリア」
フィリアはリヴィアの前で止まる。
「探していた」
「私を?」
「うん」
フィリアは少しだけ息を整える。
「聞きたいことがある」
「何でしょう?」
「今日、食堂のおばさんに怒られた」
「……」
リヴィアは少し困った顔になる。
「それは……」
「なぜ?」
「フィリア」
ルシアンが口を挟む。
「パンを三十二個頼んだからでしょう」
「必要だった」
「どうして?」
「一つ食べた」
「はい」
「美味しかった」
「はい」
「だから、もっと食べたかった」
「……」
ルシアンが黙る。
リヴィアは額に手を当てた。
「フィリア」
「うん」
「パンは一度に三十二個食べるものではありません」
「……そうなの?」
「少なくとも普通は」
フィリアは少し考える。
「じゃあ、三十一個なら?」
「減らす問題ではありません!」
ルシアンが吹き出した。
リヴィアは驚いて彼を見る。
「ルシアン様?」
「すみません」
口元を押さえている。
「でも……」
「笑わないでください」
「努力します」
「今、笑っていますよね?」
「少しだけ」
フィリアは二人を見ていた。
「リヴィア」
「はい?」
「これが楽しい?」
「え?」
「二人で話している」
フィリアは首を傾げる。
「リヴィアは、ルシアンと話すとき、少し顔が違う」
「……」
リヴィアの顔が赤くなる。
「そ、そうでしょうか?」
「うん」
「具体的には?」
ルシアンが尋ねる。
「いつもより少し嬉しそう」
「フィリア!」
リヴィアは思わず声を上げる。
「何?」
「……そういうことは、あまり大きな声で言わないでください」
「分かった」
フィリアは素直に頷く。
「小さい声ならいい?」
「そういう問題でもありません……」
ルシアンが再び笑う。
そこへ。
「何をしてるの?」
エヴリンがやってきた。
その後ろにはアルベルトもいる。
「フィリアがリヴィアの秘密を暴露していました」
「ルシアン様!」
リヴィアが振り返る。
「秘密?」
エヴリンの目が輝く。
「何それ?」
「何でもありません!」
「本当に?」
「本当です!」
フィリアが言う。
「リヴィアはルシアンと話すと――」
「フィリア!」
リヴィアが慌てて口を塞ぐ。
「……」
フィリアは目を瞬く。
「話してはいけない?」
「……はい」
「分かった」
素直に黙る。
エヴリンは残念そうに肩を落とした。
「気になる……」
アルベルトが苦笑する。
「そっとしておいてやれ」
「アルベルト様まで……」
リヴィアは少しだけ恥ずかしそうに視線を逸らした。
しかし。
その時だった。
噴水の水面が――。
銀色に輝いた。
「……!」
全員が同時に振り返る。
水面に文字が浮かぶ。
『第三記録――開始』
リヴィアの表情が変わる。
「フィリア……」
文字が続く。
『対象――フィリア』
『存在記録――未登録』
『世界記録――不確定』
『選択履歴――なし』
フィリアは水面を見つめていた。
「……これは?」
「観測の記録です」
リヴィアが答える。
「私たちにも以前、同じようなことがありました」
「私にも?」
「はい」
フィリアは黙って文字を見る。
そして。
『選択――開始』
その文字が浮かんだ。
フィリアが一歩前へ出る。
「何を選ぶの?」
リヴィアは答えられない。
その時。
新しい文字が浮かんだ。
『問い――フィリアは何者か』
フィリアの目が大きくなる。
「……」
『回答を要求』
しばらく沈黙が続く。
エヴリンが心配そうにフィリアを見る。
「フィリア……」
フィリアは胸元に手を当てた。
「私は……」
言葉が止まる。
自分が何者なのか。
それは彼女自身も知らない。
第五世界から生まれた。
観測された存在。
誰かの未来でもない。
過去の誰かの生まれ変わりでもない。
ゲームの登場人物でもない。
記録にも存在しなかった。
「……分からない」
フィリアは小さく答えた。
水面に文字が浮かぶ。
『回答――不明』
しかし。
フィリアは続けた。
「でも」
彼女はリヴィアを見る。
「リヴィアが名前をくれた」
「……」
「フィリアという名前」
リヴィアの目が少し潤む。
「だから、私はフィリア」
文字が止まる。
『存在理由――未確定』
『存在名――フィリア』
『自己認識――確立』
さらに新しい文字が現れる。
『選択してください』
フィリアは首を傾げた。
「何を?」
『どこで生きるか』
「……」
『誰と生きるか』
「……」
『何を目指すか』
フィリアはしばらく考えた。
そして。
リヴィアの手を取った。
「私は」
「リヴィアと一緒にいたい」
リヴィアの目が見開かれる。
「フィリア……」
「それから」
フィリアはルシアンを見る。
「ルシアンとも」
「僕も?」
「うん」
次にエヴリンを見る。
「エヴリン」
「私?」
「一緒にいたい」
「……もちろん」
エヴリンが微笑む。
アルベルトにも目を向ける。
「アルベルトも」
「もちろんだ」
最後に。
フィリアは自分の胸に手を当てる。
「そして――」
少しだけ考えて。
「自分が何者なのか、いつか自分で決めたい」
その瞬間。
銀色の光が大きく広がった。
『第三記録――選択完了』
『自己定義――成立』
『存在記録――確定』
フィリアの周囲を、淡い銀色の光が包む。
その光はすぐに消えた。
そして。
最後の文字が浮かぶ。
『フィリア――人間としての未来を選択』
「……」
リヴィアは息を呑んだ。
「人間……」
フィリアは自分の手を見る。
「私は……人間?」
リヴィアは少し考えてから答えた。
「そうだと思います」
「どうして?」
「自分で未来を選んだからです」
「……」
フィリアはその言葉を聞いて、微笑んだ。
「なら」
小さな笑顔。
「私は人間になれた」
リヴィアはフィリアの頭にそっと手を置く。
「最初から、そうだったのかもしれません」
フィリアは嬉しそうに目を細めた。
その光景を、ルシアンは静かに見ていた。
「……これで、第三記録も終わりでしょうか」
「はい」
リヴィアが答える。
しかし。
噴水の水面には、まだ文字が残っていた。
『第三記録――完了』
『選択は自由だった』
『存在は自己選択によって確立された』
そして。
『次なる観測対象――未定』
全員が水面を見る。
「未定?」
アルベルトが呟く。
リヴィアも眉を寄せる。
「次の対象が、決まっていない……?」
すると。
文字が一つだけ追加された。
『観測者は、対象を選ばない』
『人間の選択が、次の対象を生み出す』
「……」
リヴィアはその意味を考える。
今までの観測では。
誰かが対象を選んでいた。
世界を。
存在を。
未来を。
しかし今度は違う。
人間が選択することで、次に観測されるものが決まる。
つまり――。
「私たち自身が、次の記録を作る……」
リヴィアが呟いた。
ルシアンが頷く。
「そのようですね」
フィリアは不思議そうに水面を見る。
「じゃあ、次は誰?」
「分かりません」
リヴィアは答えた。
「でも」
水面を見ながら微笑む。
「それも、私たちの選択次第なのかもしれません」
銀色の光が消える。
噴水は元の静かな水面へ戻った。
夕暮れの中庭に、風が吹く。
フィリアがリヴィアの手を握ったまま、ぽつりと言った。
「リヴィア」
「はい?」
「明日も一緒に学校に来ていい?」
「もちろんです」
「パンは?」
「……」
リヴィアは少し考える。
「三十二個は駄目です」
「三十一個」
「減ってません」
「三十個」
「そういう問題ではありません!」
エヴリンが笑い出す。
アルベルトも苦笑する。
ルシアンは肩を震わせていた。
夕暮れの学院に、四人の笑い声が響いた。
その声を――。
誰かが記録している。
けれど。
今度は誰も、そのことを恐れなかった。
未来は記録される。
それでも。
未来を選ぶのは、自分たちなのだから。




