未来を選ぶための課題
「自分が望む未来について記述せよ」
学院の掲示板に貼られた一枚の紙を、リヴィアはじっと見つめていた。
昨日までなら、こんな課題を見ても特に気にしなかったかもしれない。
けれど今は違う。
未来。
その言葉には、以前とは違う重みがあった。
かつてのリヴィアには、決められた未来が存在していた。
悪役令嬢。
攻略対象との関係。
ヒロインとの対立。
そして――破滅。
それはゲームの中で最初から用意されていた筋書きだった。
だからこそ、リヴィアはその未来から逃げ続けた。
しかし、世界の仕組みを知り、観測者と向き合い、そして神谷紗月としての自分とも再会した今。
彼女には、もう逃げるべき決められた未来は存在しない。
「……望む未来、ですか」
リヴィアが小さく呟く。
隣にいたエヴリンが笑った。
「難しく考えなくてもいいんじゃない?」
「そうでしょうか」
「うん。例えば――十年後に何をしていたいとか」
「十年後……」
リヴィアは考える。
十年後。
自分は二十七歳。
学院はとっくに卒業している。
王都にいるのか。
別の場所にいるのか。
貴族として暮らしているのか。
それとも――。
「……分かりません」
「え?」
「本当に、何も決まっていません」
リヴィアは少し困ったように笑った。
「以前は、未来を決められていたからこそ、それを避けることばかり考えていました」
「うん」
「でも、いざ自由になってみると……」
リヴィアは掲示板の紙を見る。
「何を選べばいいのか、分からないんですね」
エヴリンは少しだけ黙った。
そして、柔らかく笑う。
「だったら、今すぐ決めなくてもいいんじゃない?」
「え?」
「未来って、今日一日で全部決めるものじゃないと思う」
「……」
「今日した選択が、明日の自分を作って。その明日の選択が、その先の未来を作る」
エヴリンは胸元に手を当てた。
「だから私は、まず今日を大切にしたい」
リヴィアは目を細めた。
「エヴリンらしいですね」
「そう?」
「はい」
二人は笑い合った。
その時。
「二人とも、こんなところにいたのか」
後ろから声がした。
振り返る。
アルベルトだった。
金色の髪が朝の光を受けて輝いている。
その隣にはカイルもいる。
「アルベルト様」
エヴリンが少し姿勢を正す。
「おはよう」
「おはようございます」
「何を見ているんだ?」
アルベルトが掲示板を見る。
「ああ、これか」
「未来について書く課題だそうです」
エヴリンが説明する。
アルベルトは腕を組んだ。
「なるほど」
「アルベルト様は、もう決まっていますか?」
エヴリンが尋ねる。
「僕か?」
「はい」
「そうだな……」
アルベルトは少し考えた。
「王国を支える立場になること」
「それは……」
エヴリンが少し驚く。
アルベルトは笑った。
「昔から決まっていたことだからな」
その言葉を聞いて、リヴィアは一瞬だけ黙った。
決められていた未来。
けれど、アルベルトの表情には以前とは違うものがあった。
「でも」
アルベルトが続ける。
「その立場で何をするのかは、自分で決めたい」
リヴィアは目を見開く。
「……」
アルベルトは掲示板を見る。
「王になるかどうかだけが未来じゃない」
「どんな王になるのか」
「誰を信じるのか」
「誰と一緒に歩くのか」
「それは自分で選べる」
エヴリンが静かに頷いた。
「……はい」
アルベルトとエヴリンの視線が重なる。
ほんの一瞬。
二人とも、何も言わなかった。
しかし。
リヴィアには分かった。
以前なら、ここでゲームのイベントが始まったのかもしれない。
攻略対象とヒロイン。
決められた好感度。
決められた台詞。
決められた結末。
けれど今は――。
誰もそんなものを知らない。
二人が選んでいる。
それだけだった。
「リヴィア」
不意に名前を呼ばれる。
「はい?」
アルベルトが微笑んだ。
「君は?」
「私ですか?」
「ああ」
「私は……」
リヴィアは言葉を止めた。
何がしたいのか。
何を望んでいるのか。
考える。
そして、一つだけ頭に浮かんだ。
「……大切な人たちと、一緒にいたいです」
エヴリンが微笑む。
「それ、いいね」
「はい」
リヴィアも笑った。
その時。
廊下の向こうから、聞き慣れた声がした。
「ずいぶん楽しそうですね」
「……」
リヴィアの肩がわずかに跳ねる。
振り返る。
黒に近い青色の髪。
深い青の瞳。
整った顔立ち。
ルシアンがこちらへ歩いてくる。
「ルシアン様」
「おはようございます」
「おはよう」
ルシアンは全員に挨拶をすると、リヴィアの隣まで歩いてきた。
「何を話していたんです?」
「未来についてです」
「未来?」
ルシアンが掲示板を見る。
「なるほど」
「ルシアン様はどうですか?」
エヴリンが尋ねる。
「僕?」
「はい」
ルシアンは少しだけ考える。
そして、リヴィアを見る。
「僕は――」
一瞬だけ。
深い青の瞳がリヴィアを捉える。
「まだ決めていません」
リヴィアは瞬きをした。
「意外ですね」
「そうですか?」
「ルシアン様は、何でも先に考えているように見えますから」
「それは否定しません」
ルシアンが微笑む。
「ですが、未来だけは」
「未来だけは?」
「一人で決めるものではないと思っています」
「……」
リヴィアの頬が少し熱くなる。
「そう、ですか」
「はい」
ルシアンは何でもないことのように答えた。
しかし。
その言葉の意味を理解してしまったリヴィアは、視線を逸らした。
エヴリンがそれを見逃すはずもない。
「ふふっ」
「エヴリン?」
「何でもないよ」
「……?」
ルシアンは不思議そうに首を傾げる。
その時だった。
学院の鐘が鳴った。
一回。
二回。
三回。
そして――。
四回目。
昨日と同じ。
リヴィアの表情が変わる。
「また……」
時計塔を見る。
昨日と同じ場所。
最上部に、淡い銀色の光が浮かんでいる。
だが今日は、その光の周囲に小さな文字が浮かんでいた。
誰にも見えない。
リヴィアだけが、その文字を読むことができた。
『第一記録』
『選択――開始』
「……」
リヴィアの背筋に冷たいものが走る。
「どうしました?」
ルシアンが気づく。
「いえ……」
リヴィアは時計塔から目を離せない。
「少し、気になることが」
「何が見えています?」
「文字が……」
「文字?」
リヴィアは頷いた。
「『第一記録』と」
ルシアンの表情が変わる。
「観測室のものと同じですか?」
「……いいえ」
リヴィアはゆっくり首を横に振る。
「少し違います」
「どう違う?」
「以前は、世界そのものを記録していました」
リヴィアは時計塔を見る。
「でも今度は……」
言葉を選ぶ。
「人間の選択を記録しているように見えます」
その瞬間。
銀色の光が強くなった。
リヴィアの視界に、一瞬だけ文字が流れる。
『第一選択――記録』
『対象――エヴリン・ローゼン』
「……!」
リヴィアは息を呑む。
「エヴリン!」
「え?」
エヴリンが振り返る。
しかし、彼女には何も見えていない。
「どうしたの?」
リヴィアは答えられなかった。
銀色の文字が消える。
そして次に表示された。
『選択結果――未確定』
『観測継続』
「……観測?」
ルシアンが小さく呟く。
「リヴィア」
「はい」
「それは、以前の観測者と同じものだと思いますか?」
「……分かりません」
リヴィアは首を横に振った。
「でも、少なくとも……」
時計塔の光を見る。
「私たちの意思を奪おうとしているわけではないと思います」
「なぜ?」
「記録されているのは、選択する前だからです」
「……なるほど」
ルシアンは少し考えた。
「つまり」
「僕たちが何を選ぶのかを見ている」
「はい」
「そして、その結果を記録する」
「たぶん……」
リヴィアは不安そうに空を見る。
「でも、それが本当に自由なのかは……まだ分かりません」
ルシアンは黙った。
そして、リヴィアの隣に立つ。
「なら」
「え?」
「確かめればいい」
「どうやって?」
「僕たちが、自分の意思で選び続ければいい」
リヴィアはルシアンを見る。
「観測されているから選ぶのではなく」
ルシアンの青い瞳が、まっすぐリヴィアを見る。
「観測されていても、自分で選ぶ」
「……」
「それなら、記録が何を意味するのかも、そのうち分かるでしょう」
リヴィアは少しだけ笑った。
「本当に、強いですね」
「そうですか?」
「はい」
「では、リヴィア」
「何でしょう?」
「君も自分の未来を選んでください」
「……」
「誰かに急かされる必要はありません」
ルシアンは静かに続ける。
「僕を選ばなくてもいい」
リヴィアの目が少し見開かれる。
「でも」
ルシアンは微笑む。
「君が僕と一緒に歩きたいと思ってくれた時は――」
ほんの少しだけ距離を縮める。
「その時は、僕も同じ未来を選びます」
リヴィアの頬が赤くなる。
「……ずるいです」
「何がです?」
「そういうことを、平然と言うところです」
「本心ですから」
「……」
リヴィアは視線を逸らす。
けれど。
その口元には、小さな笑みが浮かんでいた。
その瞬間。
時計塔の銀色の光が静かに消える。
最後に一つだけ。
誰にも聞こえない文字が空中に残った。
『第一記録――完了』
『選択は、強制されなかった』
『次の記録へ』
そして。
学院のどこかで。
小さな銀色の瞳が開いた。
それは世界を支配する瞳ではなかった。
ただ、人々の未来を見つめる瞳。
その瞳の前には、一つの新しい記録が浮かび上がっていた。
『第二記録』
『対象――リヴィア・アーデント』
『選択――未来の伴侶』
その文字だけが、静かに輝いていた。




