人間の未来を記す者
王城の地下。
誰もいない観測室で、黒い水晶が静かに輝いていた。
完全に消滅したと思われていた観測装置。
その中央に浮かんでいるのは、たった一つの小さな瞳だった。
『観測――停止』
『世界――自由』
『最終観測者――未確定』
そこまでは、以前と同じだった。
しかし、その下に新しく刻まれた文字だけが違っている。
『次なる記録――人間の未来』
黒い水晶が微かに震える。
そして――。
『観測対象を変更』
『世界ではなく、人間を観測する』
誰も、その変化に気づいていなかった。
同じ頃。
リヴィアは自室の窓辺に立っていた。
夜の王都を見下ろす。
以前なら、夜の王都を見るたびに不安を感じていた。
何かが起こるのではないか。
誰かが現れるのではないか。
ゲームのイベントが始まるのではないか。
そんな警戒心が、常にあった。
けれど今は――。
静かだった。
「……平和ですね」
リヴィアが呟く。
机の上には、今日受け取ったヴァロリアからの書類。
その横には、小さな本。
『神谷紗月――完』
そして、もう一冊。
まだ白紙の本。
リヴィアは白紙の本を手に取る。
「これからは……」
ページを開く。
何も書かれていない。
それが少し嬉しかった。
決められた未来がない。
何を書いてもいい。
何も書かなくてもいい。
「本当に自由なんですね」
その時。
扉がノックされた。
「リヴィア様」
侍女の声だった。
「はい」
「エヴリン様がお見えです」
「エヴリンが?」
「はい」
リヴィアは少し驚いた。
こんな時間に来るなんて珍しい。
「通してください」
しばらくして、扉が開く。
「こんばんは、リヴィア」
「こんばんは」
エヴリンは少しだけ緊張した顔をしていた。
「どうしました?」
「ちょっと話したいことがあって」
「もちろんです」
エヴリンが部屋に入る。
二人は窓際の椅子に座った。
「……」
「……」
なかなかエヴリンが話し出さない。
リヴィアは首を傾げる。
「何か悩み事ですか?」
「うん」
エヴリンは頷く。
「私ね」
「はい」
「最近、少しだけ怖いの」
「怖い?」
「うん」
エヴリンは窓の外を見る。
「世界が自由になったでしょう?」
「はい」
「今までは、何かが起きるたびに理由があった」
「ゲームのシナリオだったり」
「観測者だったり」
「世界の修正だったり」
「でも今は――」
エヴリンが苦笑する。
「何も決まっていない」
リヴィアは少し考えた。
「……分かります」
「え?」
「私も同じことを感じています」
リヴィアは白紙の本を見る。
「何も決まっていないということは」
「失敗しても、それを誰かのせいにはできないということですから」
「自分で選んだ結果だから」
エヴリンは小さく笑う。
「リヴィアらしいね」
「そうでしょうか?」
「うん」
そして、エヴリンは少しだけ真剣な顔になる。
「だから、私も一つ決めたの」
「何を?」
「自分の未来を、自分で選ぶ」
リヴィアは微笑んだ。
「いいと思います」
「それでね」
エヴリンが少し頬を赤くする。
「私、最近――」
「?」
「アルベルト様のことを……」
「……」
リヴィアの目が大きくなる。
「え?」
「だから、その……」
エヴリンが顔を真っ赤にする。
「少し気になるというか……」
「エヴリン」
「はい」
「それは――」
リヴィアが笑う。
「とても素敵なことだと思います」
「……!」
エヴリンは驚いた顔をした。
「笑わないの?」
「どうして笑うんですか?」
「だって、私たちって……」
「ゲームでは、そういう関係になる予定だった?」
「うん」
エヴリンが頷く。
「だから最初は、それが決められたものなのかと思ってた」
リヴィアは静かに聞いている。
「でも今は違う」
エヴリンは自分の胸に手を当てる。
「アルベルト様と一緒にいると、嬉しい」
「話していると楽しい」
「だから――」
エヴリンは少し照れながら笑った。
「これが私自身の気持ちなのかなって」
リヴィアは頷く。
「そうだと思います」
「ありがとう」
二人は顔を見合わせる。
「じゃあ、リヴィアは?」
「私?」
「うん」
エヴリンがいたずらっぽく笑う。
「ルシアン様のこと」
「……」
リヴィアは固まった。
「な、何ですか?」
「好き?」
「……」
答えられない。
エヴリンはさらに笑う。
「顔、真っ赤」
「エヴリン!」
「ふふっ」
「それは……」
リヴィアは視線を逸らす。
「まだ、分かりません」
「本当に?」
「はい」
「じゃあ、嫌い?」
「それは……」
リヴィアは少し考える。
「嫌いではありません」
「それどころか?」
「……」
「リヴィア?」
「……大切です」
エヴリンの目が輝く。
「それって――」
「これ以上は言いません!」
リヴィアが顔を覆う。
エヴリンは楽しそうに笑った。
「分かった」
「何がですか?」
「リヴィアも、自分で答えを探してるんだね」
「……はい」
「じゃあ、私も応援する」
「ありがとうございます」
エヴリンが立ち上がる。
「そろそろ帰るね」
「はい」
扉へ向かうエヴリン。
しかし、そこで突然振り返る。
「リヴィア」
「何ですか?」
「もしルシアン様と結婚することになったら――」
「……?」
「私、絶対に結婚式に行くからね!」
「まだ決まってません!」
エヴリンは笑いながら部屋を出ていった。
「もう……」
リヴィアは苦笑する。
けれど、その表情はどこか嬉しそうだった。
一方。
王城の別の場所。
ルシアンは廊下を歩いていた。
その隣にはレオンハルト。
「ルシアン」
「はい」
「今日、リヴィア嬢と話したそうだな」
「……どこから聞いたんですか?」
「母上から」
「情報が早すぎませんか?」
レオンハルトは笑う。
「王族だからな」
「そういう問題でしょうか……」
「それで?」
「何がです?」
「彼女は何と?」
ルシアンは少し考える。
「時間が欲しい、と」
「なるほど」
「僕は待つつもりです」
レオンハルトは弟を見る。
「本当に、それでいいのか?」
「はい」
「長く待つことになるかもしれないぞ」
「それでも」
ルシアンは窓の外を見る。
「僕は、彼女に選んでほしい」
「王族としてではなく」
「ゲームの攻略対象としてでもなく」
「誰かに決められた未来でもなく」
「リヴィア自身の意思で」
レオンハルトは静かに頷いた。
「そうか」
「兄上?」
「いや」
レオンハルトは少し笑う。
「お前がそこまで誰かを大切にするとは思わなかった」
「……」
ルシアンは少し照れたように視線を逸らした。
「僕自身も、そう思います」
その時。
王城地下。
黒い水晶が再び輝いた。
『新規観測対象――確認』
『アルベルト・レインハルト』
『エヴリン・ローゼン』
『リヴィア・アーデント』
『ルシアン・ヴァルクレスト』
次々と名前が浮かぶ。
そして、その下に新しい項目が表示される。
『観測対象――感情』
『観測対象――選択』
『観測対象――関係』
黒い瞳がゆっくりと開く。
『世界を統合する必要はない』
『人間自身が未来を選ぶなら――』
『その選択を観測すればいい』
黒い水晶の奥で、小さな光が生まれる。
それは今までの黒い光とは違っていた。
淡い銀色。
そして――。
誰にも気づかれないまま、王城の地下から一本の光が伸びていく。
向かった先は――。
王立セイレーン学院。
翌朝。
リヴィアはいつものように学院へ向かった。
「おはようございます、リヴィア」
「おはようございます」
エヴリンと合流する。
「昨日はありがとう」
「こちらこそ」
二人が並んで歩く。
すると、学院の掲示板の前に人だかりができていた。
「何でしょう?」
リヴィアが近づく。
そこには、新しい掲示が一枚。
『王立セイレーン学院――新学期特別課題』
『自分が望む未来について記述せよ』
リヴィアは目を瞬く。
「……未来?」
エヴリンが笑う。
「今の私たちにぴったりだね」
「そうですね」
リヴィアは掲示を見つめる。
以前なら、こんな課題に悩んだだろう。
ゲームの未来を考えたかもしれない。
悪役令嬢としての結末を避ける方法を考えたかもしれない。
でも今は――。
白紙の未来がある。
リヴィアは微笑んだ。
「私の望む未来……」
その時。
学院の時計塔が鳴った。
一度。
二度。
三度。
四度。
リヴィアの表情が変わる。
エヴリンも空を見る。
「……四回?」
学院の鐘は、普段なら四回も鳴らない。
そして。
五回目。
鳴らなかった。
代わりに――。
時計塔の最上部に、淡い銀色の光が灯った。
誰にも見えないほど小さな光。
けれど、リヴィアには見えた。
「……観測が終わったんじゃなかったんですか?」
遠くのどこかから。
答えの代わりに。
小さな声が聞こえた気がした。
『観測ではない』
『これは――』
『記録』
リヴィアは空を見上げた。
そして、初めて気づく。
世界を観測する存在は、もういない。
しかし――。
人々自身が、自分たちの未来を記録し始めている。
その最初の一ページが。
今、学院で始まろうとしていた。




