戻ってきた日常と、変わり始めた関係
王立セイレーン学院に戻ってから、三日が経った。
世界を覆っていた異常現象は完全に消えていた。
空には黒い亀裂もない。
王都を覆っていた黒い王冠もない。
魔力の暴走も止まり、学院の地下に存在していた観測施設も、今ではただの静かな地下遺跡へと戻っている。
一見すれば――。
何もかも、元通りだった。
「……本当に、戻ってきたんですね」
学院の廊下を歩きながら、リヴィアは窓の外を見る。
中庭では生徒たちが談笑している。
魔法の授業へ向かう生徒。
昼食を急いで食堂へ向かう生徒。
友人と笑いながら歩く生徒。
以前と変わらない日常。
けれど、リヴィアには少しだけ違って見えた。
以前なら、この光景の中に「ゲームの世界」という意識があった。
ここで誰かと出会えば、イベントが起きるかもしれない。
この時期には、攻略対象とのイベントがある。
この場所では、悪役令嬢として何かをしなければならない。
そんな考えが、常に頭の片隅にあった。
しかし今は違う。
ゲームは存在しない。
攻略対象もいない。
決められたイベントもない。
あるのは――。
自分が生きている、この世界だけ。
「リヴィア」
隣から声がした。
振り返ると、ルシアンが歩いている。
「どうしました?」
「さっきから、ずっと難しい顔をしている」
「そうですか?」
「うん」
ルシアンはリヴィアの顔を覗き込む。
「何か悩んでいる?」
「……少しだけ」
「何について?」
リヴィアは少し迷ってから答えた。
「日常についてです」
「日常?」
「はい」
窓の外を見る。
「以前は、普通の一日を過ごすだけでも、何かを警戒していました」
「ゲームの未来があると思っていたから?」
「はい」
「でも、今は何もありません」
「だから……」
リヴィアは少し笑う。
「逆に、何をすればいいのか分からなくて」
ルシアンは目を瞬く。
「それは困ったね」
「笑わないでください」
「ごめん」
そう言いながら、ルシアンは笑っている。
「でも、簡単じゃないかな」
「何がですか?」
「普通に生きればいい」
「……」
「朝起きて」
「学院へ来て」
「友達と話して」
「勉強して」
「時々、面倒な事件に巻き込まれて」
「それは普通じゃありません!」
リヴィアが即座に突っ込む。
ルシアンは楽しそうに笑った。
「君の場合は普通だよ」
「そんな普通はいりません」
「そう?」
「はい」
リヴィアが頬を膨らませる。
ルシアンはそんな彼女を見て、少しだけ目を細めた。
「……やっぱり」
「何ですか?」
「君は、こうしている時が一番自然だ」
「え?」
「難しいことを考えている時より、怒ったり、困ったり、笑ったりしている時の方が」
「……」
「リヴィアらしい」
リヴィアの頬が赤くなる。
「殿下は……」
「うん?」
「時々、そういうことを平然と言いますよね」
「何か問題がある?」
「あります」
「どんな?」
「……心臓に悪いです」
ルシアンが一瞬黙った。
そして――。
「それは、嬉しいね」
「なぜですか!」
「僕のことを意識してくれているってことだから」
「……!」
リヴィアは顔を真っ赤にした。
「それとこれとは別です!」
「そう?」
「そうです!」
廊下の角から、そんな二人を見ていたエヴリンが顔を出す。
「……またやってる」
その隣にはセレネとフィリアもいた。
フィリアが首を傾げる。
「何を?」
「二人とも、自分たちが恋人みたいな会話をしているのに気づいてないの」
「恋人?」
フィリアが目を輝かせる。
「リヴィアとルシアン?」
「ち、違います!」
リヴィアが慌てて振り返る。
「エヴリン! 変なことを教えないでください!」
エヴリンは楽しそうに笑う。
「でも、もう王城では婚姻の話まで出てるんでしょう?」
「それは……」
リヴィアの動きが止まる。
そうだった。
世界の騒動が終わったことで、以前保留になっていた話が再び浮上している。
エルディア王家とヴァロリア王家。
そして――。
リヴィアとルシアンの婚姻。
正式な婚約にはまだ至っていない。
けれど、両国の王族は前向きに話を進めようとしている。
「……その話は、まだ決まっていません」
リヴィアは小さく答える。
「私自身が、まだ答えを出していませんから」
エヴリンは少しだけ真面目な顔になる。
「うん」
「それでいいと思う」
リヴィアが驚く。
「エヴリン?」
「結婚って、自分で決めるものだと思うから」
エヴリンは笑った。
「誰かに決めてもらう必要なんてないよ」
その言葉に、リヴィアは胸が温かくなる。
以前なら。
婚姻ですら、政治的な未来として考えていた。
悪役令嬢としての運命。
王家との関係。
ゲームの設定。
けれど今は――。
自分で決めていい。
それが、これまで何度も守ってきたものだった。
「……そうですね」
リヴィアは頷いた。
その時。
「リヴィア様!」
遠くから声が聞こえた。
一人の侍女が廊下を走ってくる。
「どうしました?」
「国王陛下からお呼び出しです」
「お父様が?」
「はい」
侍女は少し息を整える。
「それから――」
「?」
「ヴァロリア王国から、正式な書状が届いております」
リヴィアの表情が変わる。
ルシアンも静かに侍女を見る。
「内容は?」
「両国の今後についての協議」
「そして――」
侍女が一枚の封書を差し出す。
「ルシアン殿下とリヴィア様の婚姻について、正式な話し合いを始めたいとのことです」
「……」
リヴィアの顔が一気に赤くなった。
「こ、婚姻……」
フィリアが小さく呟く。
「結婚?」
「フィリア、今はその話を広げないでください……!」
エヴリンが口元を押さえて笑っている。
「リヴィア、頑張って」
「エヴリン……!」
ルシアンはというと。
「分かりました」
落ち着いた声で答えていた。
リヴィアが驚いて振り返る。
「殿下は平気なんですか?」
「何が?」
「その……婚姻の話です」
ルシアンは少し考えた。
「僕は前から答えを決めているから」
「……」
「でも」
ルシアンはリヴィアを見る。
「君が決めるまで待つつもりだよ」
「……私が?」
「うん」
「なぜ?」
「僕たちの未来だから」
リヴィアは黙り込んだ。
ルシアンは微笑む。
「だから、誰かに決めてもらう必要はない」
その言葉が、胸に残った。
それはまさに――。
これまで二人が何度も守ってきたものだった。
自分たちの未来を、自分たちで選ぶ。
リヴィアは封書を見る。
そして、ゆっくりと受け取った。
「……分かりました」
「行く?」
「はい」
リヴィアは顔を上げる。
「今度こそ、自分の意思で話します」
ルシアンが頷く。
「うん」
二人が歩き出す。
その背中を、エヴリンたちが見送る。
フィリアが小声で尋ねた。
「二人は結婚するの?」
エヴリンは笑う。
「さあ?」
「でも――」
エヴリンは二人の背中を見る。
「それを決めるのも、リヴィア自身だよ」
リヴィアは廊下の先へ進みながら、胸元に手を当てた。
神谷紗月としての人生。
リヴィア・アーデントとしての人生。
そして、これから始まる人生。
すべてを自分のものとして生きていく。
だから――。
結婚するのか。
誰と生きるのか。
どんな未来を選ぶのか。
それさえも。
自分で決める。
王城へ続く扉の前で、リヴィアは一度だけ立ち止まった。
隣にはルシアンがいる。
「殿下」
「何?」
「……ありがとうございます」
「何について?」
「待っていてくれることに」
ルシアンは少し驚いた後、優しく笑った。
「急ぐ必要はないよ」
「未来は逃げないから」
リヴィアも笑った。
「……はい」
そして二人は、王城へ続く扉を開いた。
その先で待っているのは――。
二つの王国の未来と。
二人自身が選ぶ、次の一歩だった。




