もう一人の観測者
巨大な瞳が、何もない空間のさらに上に開いた。
リヴィアは息を止めた。
先ほどまで存在していた巨大な瞳とは違う。
大きさも。
形も。
放っている気配も。
すべてが違っていた。
今まで彼女たちを観測していた瞳が「世界を外側から見ている存在」だとするなら――。
今現れた瞳は、そのさらに外側からこちらを見ている。
白い髪の人物も、初めて明らかな動揺を見せた。
「……ありえない」
ルシアンが剣を構える。
「何が起きている?」
人物は答えない。
ただ、巨大な瞳を見上げている。
「私は……すべてを観測していると思っていた」
「でも、違った」
「私自身も、観測されていた……」
セレネが白い本を開く。
ページが激しくめくれていく。
しかし、文字が一つも表示されない。
「記録がありません」
「何も?」
「はい」
セレネは震える指でページを押さえる。
「これまでなら、どんな存在にも何らかの記録がありました」
「でも、あれには何もない」
フィリアが空を見上げる。
「名前もない」
「存在記録もない」
「未来もない」
リヴィアは巨大な瞳から目を離さない。
「じゃあ……」
「あれは何なんですか?」
白い髪の人物が答える。
「分かりません」
「……」
「初めてです」
その声には、隠しきれない恐怖が混じっていた。
「私にも分からない存在を見たのは」
巨大な瞳がゆっくりと動いた。
そして――。
この空間にいた全員を見た。
リヴィア。
ルシアン。
セレネ。
フィリア。
そして、白い髪の人物。
その瞬間。
無数の水晶が一斉に消えた。
「……!」
エルディアの記録も。
ヴァロリアの記録も。
アルカディアの記録も。
東の仙境も。
第五世界も。
すべてが消える。
「何をしているの!?」
リヴィアが叫ぶ。
返事はない。
ただ、一つの文字だけが空間に浮かんだ。
『観測終了』
リヴィアの顔が青ざめる。
「……観測終了?」
ルシアンがリヴィアの手を握る。
「落ち着いて」
「でも、世界の記録が……!」
「見て」
ルシアンが指差す。
消えたはずの水晶。
その一つが、再び光った。
そこに映っていたのは――。
リヴィア自身だった。
しかし、今のリヴィアではない。
前世の神谷紗月でもない。
見たことのない姿。
長い銀色の髪。
白い衣装。
青い瞳。
その少女は、見知らぬ世界の中で一人立っていた。
「……誰?」
リヴィアが呟く。
白い髪の人物が答える。
「あなたです」
「私……?」
「正確には――」
人物は水晶を見つめる。
「あなたが選ばなかった可能性の一つです」
リヴィアは息を呑む。
「選ばなかった……私?」
水晶の中の少女が振り返る。
その瞳がこちらを見る。
そして、口を動かした。
『私は、あなたではない』
リヴィアは目を見開く。
『でも、あなたが選ばなかった未来から生まれた』
「……」
『あなたがここまで来たから、私は消える』
「待って!」
リヴィアが水晶へ手を伸ばす。
しかし、指先が触れる前に映像が消えた。
「どうして……」
白い髪の人物が静かに言う。
「それが、私たちが今まで犯してきた過ちです」
リヴィアが振り返る。
「過ち?」
「一つの未来を残すために、他の未来を消した」
「観測者は、それを『守ること』だと思っていた」
「でも――」
人物は拳を握る。
「消された未来にも、そこに生きていた人々がいた」
「……」
「笑った人も」
「泣いた人も」
「誰かを愛した人も」
「未来を望んだ人も」
「すべて存在していた」
リヴィアは何も言えなかった。
これまで自分たちが戦ってきたものの意味が、少しずつ変わっていく。
観測者は未来を一つにしようとしていた。
でも、その裏側には――。
無数の「消された世界」があった。
ルシアンが尋ねる。
「ならば、あなたは何をしようとしていた?」
白い髪の人物は目を伏せる。
「私は、それらを保存しようとした」
「すべての可能性を水晶に記録して」
「消える前に残そうとした」
「だから、観測者になったのですか?」
セレネが尋ねる。
「はい」
「忘れたくなかった」
人物の声が小さくなる。
「誰かの未来が消えてしまうのを、見ていることしかできなかったから」
リヴィアはその言葉を聞いて、エリシアを思い出した。
彼女も同じだった。
世界を観測したのは、忘れたくなかったから。
「エリシアも……」
「そうです」
人物が頷く。
「彼女も私と同じことを考えた」
「ただ、方法が違った」
「エリシアは世界を観測した」
「私は可能性を保存した」
「そして、その上にいる存在は――」
人物が巨大な瞳を見る。
「すべてを一つにしようとした」
リヴィアは空を見上げる。
「じゃあ、あの瞳は……」
「おそらく」
「すべての観測と記録を、一つにまとめる存在」
ルシアンが尋ねる。
「なぜ?」
「分かりません」
「でも、一つだけ分かります」
人物がリヴィアを見る。
「あの存在にとって、可能性は『世界』ではありません」
「では、何なんですか?」
「データです」
リヴィアの表情が険しくなる。
「……」
「世界で生きている人々も」
「選択も」
「記憶も」
「愛も」
「すべて単なる情報として扱っている」
ルシアンが剣を握る。
「だから、簡単に消せるのか」
「そうです」
その時。
巨大な瞳が再び動いた。
『保存』
声が響く。
『記録』
『観測』
『統合』
四つの言葉が空間に浮かぶ。
『すべての世界を、一つの完全な記録へ』
リヴィアは拳を握った。
「完全なんかじゃありません」
巨大な瞳が彼女を見る。
『なぜ?』
「未来を一つにしたら、選ばなかった可能性は全部消えるからです」
『必要ない』
「必要あります」
リヴィアは一歩前へ出る。
「私たちは、選ばなかった未来を知ることで、今の自分を理解できます」
「前世の私も」
「悪役令嬢だった私も」
「殿下と出会わなかった未来も」
「全部があったから、今の私がいる」
ルシアンが隣に立つ。
「僕も同じだ」
「僕が存在しなかった可能性があったからこそ――」
彼はリヴィアを見る。
「今ここにいることに意味がある」
巨大な瞳が沈黙する。
フィリアも前へ出た。
「私も」
「私は、何も選ばれていない世界から生まれました」
「でも、リヴィアが名前をくれた」
胸元の光に触れる。
「フィリアという名前を」
「だから私は存在している」
セレネも続く。
「私も、自分で選びました」
「観測する側にいることをやめて、彼らと共に生きることを」
アルベルトたちの姿も、遠くの水晶に映っている。
エヴリン。
カイル。
セドリック。
ノア。
それぞれが自分の人生を歩いている。
誰かに選ばれたわけではない。
自分自身で選んだ人生。
リヴィアはそれを見て、確信した。
「未来は――」
「記録されるものじゃない」
「選ぶものです」
その瞬間。
巨大な瞳に、大きな亀裂が走った。
『……不完全』
「え?」
『選択は不完全』
『可能性は不完全』
『世界は不完全』
『ゆえに――』
巨大な瞳がさらに開く。
『完全な世界を作る』
黒い光が空間を覆う。
白い髪の人物が叫んだ。
「逃げて!」
「え?」
「この空間そのものを消去するつもりです!」
ルシアンがリヴィアの手を取る。
「行こう!」
「でも――」
「ここにいたら全員消される!」
セレネが叫ぶ。
「出口は!?」
白い髪の人物が周囲を見る。
「ありません!」
「この空間は、今まさに閉じられています!」
フィリアが震える。
「じゃあ……」
黒い光が迫ってくる。
逃げ場はない。
その時。
リヴィアの胸元の青い宝石が輝いた。
ルシアンの紋章も同時に輝く。
そして。
二人の間に一本の光の線が現れた。
「これは……?」
白い髪の人物が目を見開く。
「可能性の線……?」
光の線が空間を走っていく。
一つ。
二つ。
十。
百。
やがて無数の光が現れる。
すべて違う未来。
すべて違う世界。
そして、その中心に――。
リヴィアとルシアンがいた。
セレネが呟く。
「二人が、可能性そのものを繋いでいる……」
リヴィアは驚きながらも、光を見る。
その中には、これまで見たことのない未来もあった。
ルシアンと共に王都を歩く未来。
エヴリンと笑っている未来。
王族でも悪役令嬢でもない、普通の人生。
そして――。
自分たちが年老いている未来。
白い髪になったルシアン。
隣で笑うリヴィア。
二人の間には、小さな子どもがいる。
「……」
リヴィアの頬が赤くなる。
「な、なんですか……これ」
ルシアンも映像を見る。
「未来の可能性……かな」
「こ、こんなものまで……」
「悪くないと思うけど」
「殿下!」
思わず声を荒らげるリヴィア。
ルシアンは笑った。
その瞬間。
無数の光が一つの道を作った。
白い髪の人物が驚く。
「道が……」
セレネが叫ぶ。
「出口です!」
光の道の先に、小さな扉が現れた。
その扉には――。
今まで存在しなかった文字が刻まれている。
『未来』
リヴィアは扉を見る。
「……また扉」
ルシアンが笑う。
「どうやら、僕たちは扉に縁があるみたいだ」
「全然嬉しくありません」
二人は笑った。
しかし、その瞬間。
巨大な瞳から黒い光が放たれる。
「危ない!」
白い髪の人物が叫ぶ。
リヴィアたちは咄嗟に扉へ走る。
ルシアンが先に扉を開く。
「リヴィア!」
「はい!」
二人が飛び込む。
セレネとフィリアも続く。
最後に白い髪の人物が振り返った。
巨大な瞳が彼女を見ている。
『お前は、記録されるべきではなかった』
彼女は静かに笑った。
「知っています」
『ならば消えることを受け入れろ』
「嫌です」
彼女は初めて強い声で答えた。
「私はもう――」
「誰かに私の未来を決めさせない」
そして、扉を閉じた。
光が弾ける。
第五世界も。
観測領域も。
巨大な瞳も。
すべてが遠ざかっていく。
リヴィアは、光の中でルシアンの手を握った。
「殿下」
「うん」
「今度は、どこへ行くんでしょう」
ルシアンは前を見る。
光の先に、新しい世界が見える。
そこには――。
見覚えのある日本の街並みがあった。
リヴィアの目が大きくなる。
「……日本?」
そして、街の中央に立っていたのは。
黒い髪。
茶色の瞳。
二十歳の頃の――。
神谷紗月だった。
彼女はリヴィアたちを見ると、驚いたように目を見開いた。
「……私?」
リヴィアも息を呑む。
「……私だ」
二人の視線が重なる。
そして。
神谷紗月が、ゆっくりと口を開いた。
「あなたが――」
「私の未来なの?」




