『終』の扉の向こう側
白い扉。
そこには、たった一文字だけが刻まれていた。
『終』
リヴィアは、その文字をじっと見つめていた。
これまで何度も、物語の終わりを見てきた。
悪役令嬢として処刑される未来。
ルシアンが消えてしまう未来。
世界が一つに固定される未来。
そして、自分自身の記憶さえ失ってしまう未来。
そのどれもが、リヴィアにとっては「終わり」だった。
けれど。
目の前にある扉は、それらとは違う。
まるで、すべての物語そのものの終点を示しているようだった。
「……『終』」
エヴリンが小さく呟く。
「本当に、この先で全部終わるの?」
セレネは答えなかった。
白い本を開いたまま、ページを見つめている。
そこには、今まで存在しなかった文章が浮かんでいた。
『終端記録――未確定』
『物語――終了条件、未達成』
『観測――継続中』
セレネの表情が変わる。
「……終わりではありません」
リヴィアが振り返る。
「え?」
「この扉は、終わりを意味していない」
セレネはページを見せる。
「まだ終了条件が達成されていません」
ルシアンが扉を見る。
「では、この扉は何なんだ?」
「おそらく……」
セレネが静かに答える。
「終わりを選ぶための扉です」
リヴィアは目を見開いた。
「終わりを……選ぶ?」
その時。
扉の向こうから声が聞こえた。
『そう』
全員が身構える。
『この扉を開けば、すべてを終わらせることができる』
巨大な観測者の声だった。
空に浮かぶ巨大な瞳が、白い扉を見つめている。
『観測も』
『可能性も』
『異なる世界も』
『すべてを一つに戻せる』
アルベルトが剣を抜く。
「つまり、ここで終わらせれば世界は元に戻るのか?」
『そう』
「それなら……」
アルベルトが言葉を止める。
リヴィアは彼を見る。
「アルベルト殿下?」
アルベルトは苦い顔をしていた。
「いや」
「やっぱり違う」
「何がですか?」
「元に戻るという言葉が気になった」
アルベルトは空を見上げる。
「俺たちが知っている『元の世界』は、もう存在しないんじゃないか?」
リヴィアは息を呑む。
確かに。
この世界は、すでに変わってしまった。
自分が選択したから。
エヴリンと友達になったから。
ルシアンと出会ったから。
セレネやフィリアと出会ったから。
数え切れないほどの選択が積み重なっている。
「……戻れない」
リヴィアが呟く。
「はい」
ルシアンが答える。
「だから、戻る必要もない」
リヴィアは彼を見る。
ルシアンは穏やかな顔をしていた。
「僕は今の世界が好きだ」
「……」
「君と出会った世界だから」
リヴィアの頬が少し赤くなる。
「殿下……」
「だから、僕は『終』を選ばない」
ルシアンは白い扉へ歩み寄る。
そして、扉に手を置いた。
何も起きない。
「……開かない」
セレネが言った。
「当然です」
「どういうこと?」
「この扉は、誰か一人の選択では開かない」
リヴィアが近づく。
「では、誰の選択が必要なんですか?」
セレネは白い本を見る。
「すべての存在です」
「すべて……?」
「この世界に存在する人々」
「彼らが自分の未来を選んだ時、この扉は開く」
フィリアが静かに言った。
「でも……」
「それなら、どうして扉に『終』と書いてあるの?」
リヴィアは答えを考える。
そして――。
「もしかして」
「終わらせるものは、物語じゃない」
「……」
「観測そのもの?」
セレネの目が大きくなる。
「その可能性があります」
巨大な瞳が揺れた。
『……それ以上、推測する必要はない』
観測者の声が強くなる。
『扉を開けるな』
リヴィアは確信した。
この扉の先に、観測者が最も恐れているものがある。
「なら――」
リヴィアは扉に手を置いた。
「開けます」
『やめろ』
初めて。
観測者が明確に動揺した。
リヴィアは微笑む。
「やっぱり、この先に何かあるんですね」
『……』
「今までずっと私たちの未来を観測していたあなたが」
「初めて『やめろ』と言った」
ルシアンも扉に手を置く。
「つまり、ここは君にとって都合の悪い場所だ」
『違う』
「なら、証明してみればいい」
『……』
エヴリンが二人の後ろに立つ。
アルベルトも。
カイルも。
セドリックも。
ノアも。
セレネも。
フィリアも。
一人。
また一人。
扉へ手を伸ばしていく。
「私も」
エヴリンが笑う。
「リヴィアの未来を一緒に選ぶ」
アルベルトが続く。
「王族としてじゃない」
「一人の人間として、俺自身の未来を選ぶ」
カイルも手を置く。
「俺も同じだ」
セドリックが笑う。
「面白そうだからね」
ノアも静かに頷く。
「俺も行く」
セレネが最後に手を置く。
「私も、自分で選びます」
そしてフィリアも。
小さな手を扉へ添えた。
「私も」
リヴィアは全員を見る。
胸が熱くなる。
「……ありがとうございます」
ルシアンが微笑む。
「行こう」
「はい」
全員の光が一つになった。
白い扉が――。
初めて震えた。
『……』
観測者が沈黙する。
扉に刻まれた『終』という文字が、ゆっくりと崩れていく。
そして、その下から新しい文字が現れた。
『選択』
リヴィアは目を見開く。
「……終わりじゃなかった」
セレネが呟く。
「終わりを選ぶのではなく――」
「選択そのものを終わらせるための扉だった」
ルシアンが扉を押す。
今度は、ゆっくりと開いた。
その向こうにあったのは――。
何もない空間だった。
世界もない。
星もない。
時間もない。
ただ、巨大な椅子が一つだけ置かれている。
その椅子に――。
誰かが座っていた。
長い白髪。
白い衣服。
顔は見えない。
けれど、その人物の前には無数の水晶が浮かんでいる。
一つ一つの水晶に、世界が映っていた。
エルディア。
ヴァロリア。
アルカディア。
東の仙境。
第五世界。
そして――。
リヴィアたちがまだ知らない世界。
「……誰?」
エヴリンが呟く。
人物は答えない。
ただ、無数の水晶を眺めている。
リヴィアは一歩前へ出た。
「あなたが……本当の観測者ですか?」
人物はゆっくり顔を上げた。
その瞳は――。
金色だった。
エリシアに似ている。
しかし、エリシアとは違う。
もっと深い。
もっと静かな瞳。
そして、初めて口を開いた。
「……ようやく来たのですね」
リヴィアは息を呑む。
「私たちを知っている?」
「もちろん」
その人物は、無数の水晶を見る。
「あなたたちの誕生も」
「選択も」
「出会いも」
「すべて見ていました」
ルシアンが剣を構える。
「ならば、なぜ僕たちの未来を奪おうとする?」
人物は少し考えるように沈黙した。
そして――。
「奪おうとしたのではありません」
「……え?」
「守ろうとしたのです」
リヴィアは目を見開く。
「守る?」
「はい」
「世界が増えれば、可能性も増える」
「可能性が増えれば、失われる世界も増える」
「だから私は――」
その人物は、一つの水晶を手に取った。
そこには、リヴィアが映っていた。
「すべての未来を、一つに残そうとした」
リヴィアは首を横に振る。
「それは守ることじゃありません」
「一つ以外を消すことです」
人物は黙ってリヴィアを見る。
「……そうかもしれません」
「では、どうして?」
その人物は、初めて悲しそうな表情を見せた。
「私もまた――」
「誰かに未来を奪われた存在だからです」
部屋が静まり返る。
ルシアンが尋ねる。
「あなたも?」
「はい」
その人物は立ち上がった。
長い白髪が揺れる。
そして、顔がはっきりと見える。
リヴィアは息を呑んだ。
その顔は――。
どこか自分に似ていた。
「私は――」
人物が名乗ろうとした瞬間。
無数の水晶が一斉に砕けた。
「……!」
巨大な衝撃が空間を揺らす。
人物が振り返る。
「これは……」
砕けた水晶の奥から、黒い光が溢れ出す。
そして、聞き覚えのある声が響いた。
『観測者を確認』
『上位観測領域への接続を開始』
人物の表情が変わる。
「……そんな」
リヴィアが尋ねる。
「何が起きているんですか?」
人物は答えない。
ただ、震える声で呟いた。
「私の上にも……」
「まだ、誰かがいる」
リヴィアは息を呑んだ。
本当の観測者だと思っていた存在さえ――。
誰かに観測されていた。
その瞬間。
空間のさらに上。
何も存在しないはずの場所に――。
巨大な瞳が、もう一つ開いた。




