観測される世界
空に走った亀裂が、ゆっくりと広がっていく。
第五世界の青空に、まるで巨大な傷が刻まれているようだった。
リヴィアは空を見上げながら、隣に立つ少女へ尋ねた。
「本当の観測者が……この世界を?」
少女は頷いた。
「うん」
「どうして?」
「あなたたちが、この世界を生み出したから」
リヴィアは眉を寄せる。
「私たちが?」
「正確には、あなた」
少女はリヴィアを見る。
「あなたが神谷紗月だった頃、ゲームの中に存在するはずのない人物を見つけた」
「……ルシアン殿下を?」
「そう」
少女は微笑む。
「あなたは、ほんの一瞬だけ彼を見た」
「そして疑問に思った」
「『このキャラクター……誰?』って」
リヴィアは息を呑む。
あの記録。
先ほど見た、自分の言葉。
ただの疑問だと思っていた。
しかし――。
「その瞬間に、可能性が生まれた」
少女が続ける。
「存在しないはずだった人物を、誰かが認識した」
「認識された存在は、可能性を持つ」
「そして可能性を持った瞬間、この世界が生まれた」
ルシアンが静かに尋ねる。
「僕が……?」
「あなた一人じゃない」
少女は首を振る。
「リヴィアもです」
リヴィアは自分を指す。
「私も?」
「そう」
「あなたはゲームの中では悪役令嬢だった」
「決められた役割を持っていた」
「でも、あなたはその役割を拒絶した」
「だから、世界は変わった」
リヴィアは拳を握る。
「……私が選んだから」
「うん」
少女は頷く。
「そしてルシアンは、あなたが選んだことで存在を確定させた」
ルシアンは黙っていた。
しばらくして、彼はリヴィアを見る。
「僕は、君に選ばれたから存在したのかな」
リヴィアは首を横に振る。
「違います」
「私は殿下を選んだから、殿下が存在したんじゃありません」
「殿下が存在していたから、私は選んだんです」
ルシアンの目が僅かに見開かれる。
リヴィアは続けた。
「順番が逆です」
「殿下が先に存在していた」
「だから、私は殿下に出会った」
少女が微笑む。
「その答えを聞きたかった」
セレネが少女を見る。
「あなたは何者なんですか?」
少女は少しだけ考えた。
「名前は……まだない」
「名前がない?」
「この世界では、まだ誰にも名前を与えられていないから」
セレネの表情が変わる。
「それなら、あなたも……」
「うん」
少女は自分の胸に手を当てる。
「観測される側の存在」
「でも、誰かに観測されることを拒んだ」
リヴィアが尋ねる。
「どうして?」
少女の瞳が少し寂しそうになる。
「観測されるということは、自分の未来を誰かに決められるということだから」
「……」
「だから私は逃げた」
「そして、第五世界を作った」
リヴィアは周囲を見る。
何もない草原。
生き物のいない世界。
記録も存在しない世界。
「ここが……あなたの作った世界?」
「うん」
「どうして何もないんですか?」
少女は空を見上げる。
「まだ、何も選ばれていないから」
リヴィアは目を見開いた。
「この世界には、未来が一つも決まっていない」
「だから、何にでもなれる」
ルシアンが周囲を見る。
「それなら……」
「この世界は、誰にも観測されていない?」
少女は首を横に振った。
「最初はね」
「でも、今は違う」
空の亀裂がさらに広がる。
その向こうから、巨大な瞳が現れた。
あの瞳だった。
第四世界で見たもの。
しかし今回は、以前よりはるかに大きい。
少女の顔から血の気が引く。
「……来た」
リヴィアが身構える。
「観測者……」
『第五世界を確認』
空から声が響いた。
『未確定世界』
『記録なし』
『未来なし』
『存在理由――異常』
巨大な瞳がリヴィアたちを見つめる。
『異常の中心――神谷紗月』
リヴィアは息を呑む。
「私……?」
『観測対象を確認』
『ルシアン・ヴァルクレスト』
『第三存在――セレネ』
そして最後に――。
『未登録存在』
巨大な瞳が、銀髪の少女を見る。
『削除を開始する』
少女の表情が変わった。
「……!」
空から黒い光が降りてくる。
リヴィアは咄嗟に少女の前へ立った。
「させません!」
青い光が広がる。
ルシアンも剣を抜いた。
「リヴィア!」
「大丈夫です!」
黒い光と青い光が衝突する。
衝撃で草原が大きく揺れた。
セレネが両手を広げ、光の壁を作る。
「この存在は、まだ何も選んでいません!」
『だから削除する』
「どうしてですか!」
『未確定の存在は、観測できない』
『観測できない未来は、世界を不安定にする』
リヴィアは歯を食いしばる。
「だからって……消していい理由にはなりません!」
『理由は必要ない』
『記録がそう定めている』
「その記録を作ったのは誰ですか?」
沈黙。
巨大な瞳がリヴィアを見る。
『……』
リヴィアは一歩前へ出る。
「答えてください」
『記録を作った存在は――』
声が途切れた。
空にノイズが走る。
『……存在しない』
リヴィアは目を見開いた。
「存在しない?」
『記録だけが存在する』
『作成者は存在しない』
『観測だけが残った』
少女が震える声で言う。
「そんな……」
セレネが考え込む。
「観測者そのものが、誰かに作られた可能性があります」
ルシアンが振り返る。
「観測者より上がいる?」
「分かりません」
セレネは空を見上げる。
「でも……」
「今まで私たちは、観測者を一つの存在だと思っていました」
「違うのかもしれません」
リヴィアは巨大な瞳を見る。
「観測者は一人じゃない」
「複数の記録を持つ存在……」
その時。
銀髪の少女がリヴィアの腕を掴んだ。
「違う」
「え?」
少女は首を振る。
「観測者は一つ」
「でも――」
彼女は震えながら空を見る。
「その一つが、無数の世界を見ている」
「だから、全部の世界に同じ目が現れる」
リヴィアは理解した。
「一つの存在が……全部を観測している」
「そう」
少女が頷く。
「そして、その存在は……」
巨大な瞳が再び光る。
『未登録存在の削除を開始』
「危ない!」
ルシアンがリヴィアを引き寄せる。
黒い光が二人の横を通り過ぎた。
地面が大きくえぐれる。
「殿下!」
「大丈夫」
ルシアンは剣を構えたまま、リヴィアを見る。
「君も?」
「はい」
二人は並んだ。
セレネも隣に立つ。
少女は三人を見つめる。
そして――。
初めて笑った。
「……分かった」
リヴィアが振り返る。
「何が?」
「私も選ぶ」
少女は胸元に手を当てた。
「この世界で、初めて」
空から黒い光が降り注ぐ。
少女はそれを見上げる。
「私は――」
一瞬、目を閉じる。
そして、はっきりと言った。
「あなたたちと一緒に生きる未来を選ぶ」
その瞬間。
第五世界に光が走った。
草原に花が咲く。
空に鳥が現れる。
遠くの地面から木々が伸びる。
何も存在しなかった世界に、次々と生命が生まれていく。
リヴィアは驚いて周囲を見る。
「世界が……」
セレネが呟く。
「選択によって、形を持ち始めている」
少女の胸元に、一つの光が現れた。
そして――。
そこに小さな文字が浮かぶ。
『存在名――未確定』
リヴィアが少女を見る。
「名前……」
少女は困ったように笑う。
「まだない」
「なら……」
リヴィアは少し考えた。
この世界で初めて選択した少女。
誰かに決められるのではなく、自分で未来を選んだ存在。
「……フィリア」
少女が目を瞬く。
「フィリア?」
「はい」
リヴィアは微笑む。
「未来を自分で選ぶ人、という意味で」
少女は胸に手を当てる。
「……フィリア」
何度か名前を呟く。
そして――。
笑った。
「うん」
胸元の光が強く輝く。
『存在名――フィリア』
『第五世界――確定』
その瞬間。
巨大な瞳に亀裂が走った。
『未確定世界が――』
『確定した?』
リヴィアは息を呑む。
フィリアは空を見上げる。
「観測者は、世界が選択によって生まれることを知らなかった」
「だから――」
ルシアンが続ける。
「今まで全部を一つに戻そうとしていた」
セレネが頷く。
「でも、第五世界は違う」
「誰かが記録した未来ではない」
リヴィアはフィリアを見る。
「自分たちが選んで生まれた未来」
黒い瞳が空を覆う。
そして初めて――。
巨大な観測者が、僅かに動揺した。
『……理解不能』
『未来が、記録より先に存在している?』
リヴィアは拳を握る。
「そうです」
「それが未来です」
『……』
巨大な瞳が閉じる。
しかし、消える直前。
最後の声が響いた。
『ならば――』
『第五世界を観測する』
『そして、すべての世界をここへ接続する』
空が暗く染まった。
リヴィアの顔から笑みが消える。
「すべての世界を……?」
セレネが青ざめる。
「それをされたら……」
ルシアンが剣を握る。
「世界同士が重なってしまう」
第五世界の空に、無数の世界が映り始める。
エルディア。
ヴァロリア。
アルカディア。
東の仙境。
第四世界。
そして――。
見たことのない無数の世界。
フィリアが呟く。
「これが……観測者の目的」
リヴィアは空を見上げる。
「全部の世界を一つにする……」
その時。
空の中央に、新しい文字が浮かんだ。
『全世界接続――開始』
『残り時間――不明』
『接続完了後、すべての未来を一つに統合する』
リヴィアはルシアンを見る。
彼も彼女を見る。
二人は言葉を交わさなかった。
ただ、互いの手を強く握った。
まだ終わっていない。
むしろ――。
本当の戦いが、始まろうとしていた。




