第五世界に待つもの
第五世界への扉が、ゆっくりと開いていく。
その向こうから流れてくる空気は、第四世界とはまったく違っていた。
冷たい。
それなのに、不思議と懐かしい。
リヴィアは扉の前で足を止めた。
「……この感じ」
胸元の青い宝石に触れる。
微かに震えている。
これまでの世界へ向かった時とは違う反応だった。
ルシアンも王家の紋章へ手を当てる。
「僕の紋章も反応している」
セレネが二人を見る。
「第五世界は、あなたたちに関係する場所なのかもしれません」
「また、私たちの記録が?」
「分かりません」
セレネは首を横に振る。
「でも、今までとは違います」
「何が?」
「この扉には、観測の印がありません」
リヴィアは扉を見る。
確かに。
これまでの扉には必ず薔薇や王冠、瞳などの記号が刻まれていた。
だが、この扉には何もない。
ただ、一つだけ。
中央に小さな文字が刻まれている。
『選択者のみ、入ることを許す』
「選択者……」
リヴィアが呟いた。
すると、背後から声がした。
「行かない方がいい」
振り返る。
第四世界の管理者だった。
彼女は扉から距離を取ったまま、真剣な顔でこちらを見ている。
「第五世界は、これまでの世界とは違います」
ルシアンが尋ねる。
「どういう意味ですか?」
「そこには記録がありません」
「第四世界にも記録はありました」
「いいえ」
管理者は首を横に振る。
「第四世界にあるのは、過去の記録です」
「第五世界にあるのは――」
彼女は一度言葉を止めた。
「まだ存在していない未来です」
リヴィアは目を見開く。
「存在していない……未来?」
「はい」
「そんな場所があるんですか?」
「観測者が作ったのではありません」
管理者は扉を見る。
「選択によって生まれる未来だけが集まる場所」
ルシアンが静かに息を吐いた。
「つまり……」
「そこでは、何を選んだかによって世界そのものが変わります」
リヴィアはしばらく黙っていた。
怖い。
これまで以上に。
けれど――。
今までずっと求めてきたものでもあった。
誰かに決められた未来ではなく、自分たちで選ぶ未来。
「行きます」
リヴィアははっきりと言った。
ルシアンも頷く。
「僕も」
セレネが一歩前へ出る。
「私も行きます」
管理者は三人を見つめた。
「では、一つだけ覚えておいてください」
「何を?」
「第五世界では、失ったものを取り戻すことはできません」
リヴィアの表情が僅かに曇る。
「……失う?」
「何かを選べば、何かが選ばれなくなる」
「それが、この世界の法則です」
リヴィアはルシアンを見る。
彼も彼女を見ていた。
そして、何も言わずに手を差し出す。
リヴィアはその手を取った。
「大丈夫です」
「本当に?」
「はい」
リヴィアは微笑む。
「今までだって、何度も選んできました」
「だから、今回も一緒に選びます」
ルシアンが優しく笑った。
「そうだね」
二人は扉をくぐった。
セレネも続く。
銀色の光が三人を包んだ。
だが――。
今回は落ちなかった。
浮かびもしなかった。
ただ、静かに歩いている。
まるで長い廊下を進んでいるようだった。
どれほど歩いただろう。
突然、前方に光が見えた。
リヴィアが目を細める。
「……出口?」
三人が光へ近づく。
そして――。
第五世界へ出た。
「……」
リヴィアは言葉を失った。
そこは、見渡す限りの草原だった。
空は青い。
雲もある。
太陽もある。
第四世界のような巨大な建物もない。
観測装置も。
水晶も。
魔導機械も。
何もない。
ただ、自然だけが存在している。
「……普通の世界?」
ルシアンが周囲を見る。
「そう見えるね」
セレネも警戒しながら歩く。
「でも、妙です」
「何が?」
「生き物がいません」
リヴィアは気づいた。
鳥の声がしない。
虫もいない。
風は吹いているのに、草以外は何も動かない。
その時。
遠くに一軒の家が見えた。
「人がいるかもしれません」
三人は家へ向かった。
近づくにつれ、その家が普通ではないことに気づく。
古い。
かなり古い。
木造の小さな家。
壁には蔦が絡み、窓には薄い布が掛けられている。
それなのに――。
扉だけは新品のように綺麗だった。
リヴィアが手を伸ばす。
「待って」
ルシアンが止めた。
「何かある」
扉を見る。
そこには小さな文字が刻まれていた。
『あなたが最初に失ったものを、覚えていますか?』
リヴィアの表情が固まる。
「最初に……失ったもの?」
頭に浮かんだのは、前世の記憶だった。
神谷紗月として生きていた頃。
家族。
友人。
日常。
そして――。
自分自身。
「……分かりません」
セレネが扉に触れる。
何も起きない。
ルシアンも触れる。
何も起きない。
最後にリヴィアが触れた。
その瞬間。
扉が開いた。
「……!」
中には誰もいない。
小さな部屋。
机。
椅子。
本棚。
そして――。
机の上に、一冊の本が置かれていた。
リヴィアはゆっくり近づく。
本の表紙には何も書かれていない。
だが、触れた瞬間。
表紙に文字が浮かんだ。
『神谷紗月』
「……!」
リヴィアの息が止まる。
ルシアンが彼女の隣に立つ。
「リヴィア……」
「大丈夫です」
リヴィアは震える指で本を開いた。
最初のページには、前世の自分の姿が描かれていた。
黒い髪。
茶色の瞳。
二十歳の少女。
神谷紗月。
そして、その隣には――。
一人の少年が描かれていた。
黒青色の髪。
青い瞳。
見覚えのある顔。
「……殿下?」
ルシアンが絶句する。
だが、そこに描かれている彼は今のルシアンより幼かった。
そして、ページの下には名前があった。
『ルシアン・ヴァルクレスト』
リヴィアはページをめくる。
そこには奇妙な記録があった。
『神谷紗月――観測開始』
『ルシアン・ヴァルクレスト――観測対象外』
「……観測対象外?」
リヴィアの眉が寄る。
ページをめくる。
『神谷紗月は、この世界を何度も観測した』
『しかし、ルシアン・ヴァルクレストを選択対象として認識しなかった』
リヴィアの手が止まる。
「そんな……」
ゲームでは確かにそうだった。
ルシアンは攻略対象ではなかった。
存在すら、ほとんど記録されていなかった。
しかし――。
次のページには、もっと奇妙な文章があった。
『それでも神谷紗月は、対象外の存在を気にしていた』
リヴィアの心臓が跳ねる。
「……私が?」
ルシアンが静かに読む。
「ゲームをしていた時の君が、僕を……」
「覚えていません」
リヴィアは首を振った。
「でも……」
胸が痛い。
「もしかしたら、覚えていなかっただけなのかもしれません」
さらにページをめくる。
そこには、一枚の記録が挟まっていた。
ゲーム画面。
攻略対象ではない人物として表示されたルシアン。
その横に、紗月自身が残した短い文章がある。
『このキャラクター……誰?』
リヴィアは息を呑んだ。
「これ……私の字です」
ルシアンはその記録をじっと見つめている。
「つまり」
「僕は、君がこの世界へ来る前から――」
彼は言葉を止めた。
「君の記憶の片隅にいた」
リヴィアは答えられなかった。
ただ、胸元の青い宝石が温かくなる。
その時。
本の最後のページが勝手に開いた。
そこには一つの文章だけが書かれていた。
『神谷紗月がルシアン・ヴァルクレストを認識した瞬間』
『第五世界は発生した』
リヴィアは目を見開く。
「……第五世界が?」
セレネが本を覗き込む。
「つまり、この世界は……」
「私が殿下を認識したことで生まれた?」
その瞬間。
家の外から、鐘の音が響いた。
一度。
二度。
三度。
四度。
そして――。
五度。
第五世界に、初めて鐘の音が鳴り響いた。
草原の彼方に、一人の少女が立っている。
長い銀髪。
淡い金色の瞳。
白い服。
セレネとよく似た姿。
しかし、その少女はセレネではなかった。
少女は三人を見る。
そして、静かに微笑んだ。
「やっと来たんだね」
リヴィアは警戒する。
「あなたは……誰?」
少女は答えた。
「私は、この世界が生まれた理由」
「そして――」
少女の視線がルシアンへ移る。
「あなたが、彼女の記憶から消えなかった理由を知っている者」
ルシアンが一歩前へ出る。
「僕のことを知っているのか?」
少女は頷く。
「ずっと見ていたよ」
リヴィアの表情が険しくなる。
「……観測者?」
少女は首を横に振った。
「違う」
そして、微笑む。
「私は、観測される側だった」
その言葉と同時に。
空に巨大な亀裂が走った。
少女は空を見上げる。
「でも、もう時間がない」
「本当の観測者が――」
彼女の表情から笑みが消える。
「この世界を見つけた」




