最初の記憶に刻まれた二人
塔の扉が開いた。
その瞬間、第四世界全体が静かになった。
街を歩いていた人々も。
空を飛んでいた光の鳥も。
遠くで動いていた魔導機械さえも。
すべてが停止している。
まるで、この瞬間だけ世界そのものが二人を待っているかのようだった。
リヴィアはルシアンの手を握ったまま、塔の入口を見つめていた。
「……あの中に、私たちの最初の記憶が?」
「そうらしいね」
ルシアンも緊張した表情で答える。
先ほどまで自分と同じ姿をしていた青年の記録を見たせいか、彼の表情にはいつもの余裕がなかった。
リヴィアはそんな彼を見て、そっと手に力を込めた。
「大丈夫です」
「リヴィア?」
「何が出てきても、一人では見ません」
ルシアンは少しだけ目を見開く。
そして、柔らかく笑った。
「……ありがとう」
二人の後ろからセレネが歩いてくる。
「行きましょう」
銀髪の女性――第四世界の管理者は、塔の前で立ち止まっていた。
「私はここから先には入れません」
「あなたも入れないんですか?」
リヴィアが尋ねる。
「はい」
女性は静かに答えた。
「この塔は観測者が作った場所ではありません」
「では、誰が?」
「最初の記録を残した者です」
その言葉に、リヴィアの胸がざわついた。
最初の観測者。
エリシアよりも前。
そして、世界が記録され始めるよりも前。
そんな存在がいたということなのだろうか。
「気をつけてください」
管理者が続ける。
「中にある記憶は、あなたたちが知っている過去ではありません」
「過去ではない?」
「はい」
彼女は二人を見る。
「まだ未来になっていない記憶です」
リヴィアは意味を理解できなかった。
未来なのに、記憶。
そんな矛盾したものが存在するのか。
「……行こう」
ルシアンが言った。
リヴィアは頷く。
二人とセレネは塔の中へ入った。
内部は驚くほど静かだった。
壁も床も白銀色。
天井には巨大な円形の水晶が浮かんでいる。
その水晶の中には、無数の光が流れていた。
星のようだった。
しかし、よく見ると一つ一つが人だった。
誰かの人生。
誰かの選択。
誰かが歩んだ未来。
無数の可能性が、星のように流れている。
「……すごい」
セレネが呟いた。
「これが、第四世界の記録……」
リヴィアは周囲を見る。
そして気づいた。
無数の光の中に、一つだけ二つの光が並んでいる場所がある。
青い光と、淡い金色の光。
二つは離れたり近づいたりしながら、決して消えない。
「……あれ」
リヴィアが指を差す。
ルシアンも見る。
「僕たち?」
「おそらく」
セレネが近づく。
すると二つの光が突然強く輝いた。
視界が白くなる。
次の瞬間――。
リヴィアは、知らない場所に立っていた。
「……ここは?」
目の前に広がっていたのは、何もない白い世界。
空もない。
地面もない。
ただ、白い空間だけが広がっている。
そして。
そこに一人の少女がいた。
黒い髪。
白い服。
金色の瞳。
「……エリシア?」
リヴィアが声を上げる。
少女は振り返った。
しかし――。
いつものエリシアとは少し違っていた。
幼い。
そして、まだ何も知らない顔をしている。
「あなたは……誰?」
リヴィアは言葉を失った。
エリシア本人だ。
けれど、まだ観測者になる前の彼女。
その隣には、一人の少年が立っていた。
黒い髪。
青い瞳。
リヴィアは息を呑む。
「……また」
ルシアンに似ている。
しかし、今まで見てきた青年とは違う。
もっと幼い。
そして、その瞳には王族としての威厳もない。
ただ、静かな優しさがあった。
少年はエリシアを見る。
「エリシア」
「なに?」
「この世界って、どうなるのかな」
エリシアは少し考える。
「分からない」
「じゃあ、未来を見てみよう」
「未来?」
少年は頷いた。
「もし未来がいくつもあるなら、その全部を見たい」
エリシアは驚いた顔をする。
「全部?」
「うん」
少年は笑った。
「一つだけ選ぶのは、もったいないから」
リヴィアはその会話を聞いていた。
胸の奥が不思議に痛くなる。
この言葉。
どこかで聞いたことがある。
「……これが」
ルシアンが呟く。
「最初の記録?」
セレネの声も聞こえる。
「そうです」
「でも、エリシアはまだ観測者じゃない」
「はい」
セレネが答える。
「だから、この記録は観測者によって作られたものではありません」
リヴィアは二人の少年少女を見る。
エリシアが少年に尋ねる。
「でも、もし全部の未来を見ることができたら?」
少年は少し考えた。
「その時は――」
彼は空を見上げる。
何もないはずの空間に、無数の光が生まれた。
「自分で一番大切な未来を選べばいい」
その言葉を聞いた瞬間。
リヴィアの胸元の青い宝石が輝いた。
ルシアンの紋章も同時に光る。
二つの光が重なった。
リヴィアは目を見開く。
「……同じ」
少年の言葉と、今の自分の気持ちが重なっている。
未来は誰かに選ばせるものではない。
自分で選ぶもの。
それは、ずっと二人が繰り返してきたことだった。
すると、白い世界に黒い亀裂が走った。
「……!」
セレネが身構える。
「記録が壊れています!」
亀裂の向こうから、巨大な目が現れた。
あの目。
東の空に一瞬だけ現れた、本当の観測者。
リヴィアの背筋が凍る。
巨大な瞳が二人を見つめる。
そして、初めて声を発した。
『見つけた』
低い声だった。
人間の声にも。
竜の声にも。
機械の声にも聞こえない。
ただ、世界そのものが震えているようだった。
『ようやく、最初の記録に到達した』
ルシアンが前へ出る。
「お前は何者だ?」
『名前は必要ない』
「なら、何のために僕たちを観測する?」
しばらく沈黙が続いた。
やがて巨大な瞳が答える。
『可能性を一つにするため』
リヴィアが尋ねる。
「どうして?」
『可能性は不安定だ』
『選択は世界を分岐させる』
『分岐した世界は、互いを否定する』
『だから――』
巨大な瞳が光る。
『一つに戻す』
リヴィアは首を横に振った。
「それは違います」
『何が違う?』
「未来が一つしかないなら、選択する意味がありません」
『選択など必要ない』
「あります」
リヴィアは一歩前へ出た。
「私は何度も、誰かに未来を決められそうになりました」
「悪役令嬢としての未来も」
「世界を救うために誰かを失う未来も」
「ルシアン殿下が消える未来も」
リヴィアはルシアンの手を握る。
「でも、私は全部拒みました」
巨大な瞳が彼女を見る。
『なぜ?』
「私が選びたかったからです」
ルシアンが続ける。
「僕も同じだ」
二人の手が重なる。
「僕は、僕自身の未来を選ぶ」
「私も」
二人の言葉が重なった。
その瞬間。
最初の記録にいた少年が振り返った。
彼の瞳が、こちらを見る。
まるで三百年以上前の存在が、今の二人を認識したようだった。
少年は微笑む。
「やっぱり、そうなるんだね」
リヴィアは息を呑む。
「……今、私たちを見ました?」
少年は答えない。
ただ、隣にいる幼いエリシアへ手を伸ばす。
「エリシア」
「なに?」
「いつか、誰かが僕たちの記録を見る」
「誰かって?」
少年は笑う。
「未来から来る人」
リヴィアの心臓が跳ねた。
そして少年は、最後に一言だけ残した。
「その時は、伝えて」
「未来は――」
白い世界が崩れ始める。
「自分で選んでいいって」
視界が光に包まれた。
リヴィアは強くルシアンの手を握る。
「殿下!」
「大丈夫!」
巨大な瞳が遠ざかっていく。
だが、その声だけは残った。
『ならば――』
『最後の選択を見せてもらおう』
白い世界が完全に砕けた。
次の瞬間。
リヴィアたちは第四世界の塔へ戻っていた。
床に膝をついたリヴィアは、荒い息を整える。
ルシアンも同じように息を吐いている。
セレネは立ったまま、天井を見上げていた。
「……見ましたか?」
「はい」
リヴィアが答える。
「最初の記録を」
そして。
リヴィアは気づいた。
塔の中央に、新しい文字が浮かんでいる。
『第一記録――再接続』
『第一観測者――エリシア』
『第一存在――未確定』
『第二存在――ルシアン・ヴァルクレスト』
『第三存在――セレネ』
そして最後に――。
『最終観測者――リヴィア・アーデント』
リヴィアはその文字を見つめる。
「……最終観測者」
その瞬間。
塔の外から、巨大な鐘の音が響いた。
一度。
二度。
三度。
四度。
そして――。
今まで鳴ったことのない、五度目の鐘が鳴った。
第四世界全体が震える。
銀色の月が黒く染まっていく。
そして空に、新たな文字が浮かび上がった。
『第五世界――観測開始』
ルシアンが空を見上げる。
「……まだ先がある」
リヴィアは彼の隣に立つ。
「なら、行きましょう」
「うん」
二人は手を繋いだ。
その手を、今度はセレネも重ねる。
「私も行きます」
三人の前で。
第五世界への扉が、ゆっくりと開き始めた。




