第三の選択
黒い王冠が砕け散った。
無数の黒い欠片が王都の空へ舞い上がり、夜空に吸い込まれていく。
その瞬間。
王城地下を包んでいた圧迫感が、一気に消えた。
リヴィアは息を吐く。
「……終わった?」
セレネは首を横に振った。
「いいえ」
「まだ……?」
「王冠は壊れただけ」
セレネは天井の向こうを見上げる。
「観測者そのものは、まだ存在している」
ルシアンが剣を構えたまま尋ねる。
「なら、どうすればいい?」
「戦うだけでは勝てない」
セレネは白い本を開いた。
しかし、そこに記されていた文字が次々と消えていく。
『王都』
『エルディア』
『ルシアン・ヴァルクレスト』
『リヴィア・アーデント』
すべての名前が消えていく。
リヴィアは驚く。
「どうして……?」
「観測者が、記録そのものを消そうとしている」
セレネが答える。
「名前を消せば、存在も消せると思っている」
ルシアンが本を見る。
「なら、名前を残せばいい」
「それだけでは足りない」
セレネは首を振る。
「記録より強いものが必要」
「記録より強いもの?」
「記憶」
リヴィアの目が見開かれた。
「記憶……」
「誰かが存在したことを、別の誰かが覚えている限り」
「その存在は完全には消えない」
セレネがリヴィアを見る。
「だから、あなたたちが出会った人たちの記憶が必要」
「エヴリンたち……」
「そう」
リヴィアはすぐに理解した。
「王都にいる人たち全員に、私たちのことを思い出してもらえばいい」
「正確には、それだけではない」
セレネが本を閉じる。
「この世界が、あなたたちを存在するものとして受け入れる必要がある」
ルシアンが尋ねる。
「どうすれば?」
セレネは答えなかった。
代わりに、王城の地下から地上へ続く階段を指差した。
「行きましょう」
三人は階段を駆け上がる。
王城の地上階へ出た瞬間。
凄まじい風が吹き抜けた。
窓の外では、王都の人々が空を見上げている。
黒い王冠は消えた。
しかし、空には無数の黒い亀裂が残っている。
「まだ終わっていない!」
騎士の声が響く。
「空の亀裂が広がっている!」
リヴィアは王都を見渡した。
広場。
商店街。
学院。
王城。
すべての場所に黒い光が降り注いでいる。
「観測者は、王都全体を記録に変えようとしている」
セレネが呟く。
「このままだと、王都にいる人たちの記憶まで書き換えられる」
「それなら……」
リヴィアは走り出した。
「学院へ!」
ルシアンが続く。
「学院?」
「最初に私たちの記録が変わった場所です!」
「なるほど」
セレネも走る。
三人は王城を出た。
街中では、人々が混乱していた。
ある男は自分の名前を忘れ。
別の女性は、自分の家族との記憶を失いかけている。
「お母さん……誰だっけ?」
「私……ここで何をしていたの?」
リヴィアは足を止めそうになる。
「そんな……」
セレネが言う。
「これが観測の力」
「記録を書き換えることで、現実の記憶まで変えている」
リヴィアは拳を握る。
「絶対に、させません」
王立セイレーン学院。
校門を抜けると、そこにはエヴリンがいた。
「リヴィア!」
彼女が駆け寄ってくる。
「無事だったのね!」
「エヴリン!」
二人は互いの手を握る。
しかし、その瞬間。
エヴリンの表情が少し曇った。
「……あれ?」
「どうしたの?」
「私……あなたの名前を」
エヴリンが眉間に皺を寄せる。
「知っているはずなのに……」
リヴィアの顔から血の気が引く。
「エヴリン!」
彼女の肩を両手で掴む。
「私のことを思い出して!」
「リヴィア……」
「そうです! 私はリヴィア・アーデント!」
「私たちは友達でしょう?」
エヴリンの瞳が揺れる。
「友……達?」
「そう!」
リヴィアの声が震える。
「一緒に学院へ入ったでしょう?」
「毒事件の時も」
「地下遺跡でも」
「アルカディアでも……」
「……アルカディア?」
エヴリンが目を見開く。
「そう」
「私は……あなたと一緒に……」
記憶が戻り始める。
エヴリンの瞳に涙が浮かぶ。
「リヴィア……!」
「はい!」
エヴリンが彼女を抱きしめる。
「よかった……!」
「忘れていなかった……!」
リヴィアも彼女を抱きしめ返す。
その光景を見たセレネが静かに呟く。
「これが、記憶の力」
ルシアンが頷く。
「誰かが誰かを覚えている限り、存在は消えない」
その時。
学院の上空に黒い亀裂が開いた。
巨大な黄金色の瞳。
観測者が、再び姿を現す。
『無駄なことを』
声が響く。
『記憶も記録の一部だ』
『すべて消してしまえばいい』
黒い光が学院へ降り注ぐ。
「危ない!」
ルシアンがリヴィアの前へ出る。
セレネも両手を広げた。
黄金色の魔法陣が展開する。
しかし、黒い光は止まらない。
「っ……!」
セレネが苦しそうに顔を歪める。
「私一人では……」
リヴィアが前へ出る。
「なら、私も!」
青い光が広がる。
ルシアンも剣を掲げる。
銀色の光が重なる。
三つの力が一つになる。
だが、それでも黒い光は強い。
「まだ足りない……!」
リヴィアが叫ぶ。
その時。
学院の中から声が響いた。
「リヴィア!」
カイルだった。
彼は剣を抜いている。
「俺は覚えている!」
その隣から、セドリックが笑う。
「僕も忘れてないよ」
ノアも前へ出る。
「俺もだ」
そしてアルベルト。
「当然だ」
リヴィアは驚いた。
「みんな……」
さらに。
学院の生徒たちが次々と外へ出てくる。
「リヴィア・アーデント!」
「覚えている!」
「王城で戦った人だ!」
「学院を守ってくれた!」
「エヴリンの友達!」
一人。
また一人。
リヴィアの名前を呼ぶ声が広がっていく。
セレネが目を見開いた。
「これほどの……」
リヴィアは涙を浮かべながら笑った。
「これが……私がここで生きてきた証なんですね」
ルシアンが隣で微笑む。
「そうだよ」
人々の声が重なる。
「リヴィア!」
「ルシアン!」
「エヴリン!」
「アルベルト!」
無数の名前が王都へ響く。
黒い亀裂が震え始める。
観測者の声が初めて乱れた。
『なぜだ』
『記録は消したはずだ』
『なぜ、まだ存在している!』
リヴィアは空を見上げる。
「記録がなくても」
「誰かが覚えているからです」
「私たちがここにいたことを」
ルシアンが続ける。
「誰かが僕たちを知っている」
「それだけで、存在する理由になる」
セレネが白い本を開く。
そこには、先ほど消えたはずの名前が戻っていた。
『リヴィア・アーデント』
『ルシアン・ヴァルクレスト』
『エヴリン・ローゼン』
『アルベルト・レインハルト』
『カイル・エヴァンス』
『セドリック・ローゼン』
『ノア・グランディス』
そして――。
王都に住む無数の人々の名前。
セレネの目から、一筋の涙が落ちた。
「記録ではなく……」
「記憶そのものが、新しい記録になった」
リヴィアが頷く。
「だから、誰にも未来を決められない」
三つの光がさらに強くなる。
青。
銀。
黄金。
それが王都全体へ広がっていく。
黒い亀裂が、一つずつ閉じ始める。
観測者が叫ぶ。
『やめろ!』
『お前たちに、未来を選ぶ権利などない!』
リヴィアは空へ向かって叫んだ。
「あります!」
「私たちは、この世界で生きている!」
「だから――」
リヴィアはルシアンの手を握る。
「未来を選ぶのは、私たち自身です!」
黒い亀裂が完全に閉じた。
夜空に星が戻る。
王都を覆っていた黒い魔力が消えていく。
静寂。
そして――。
王都中から歓声が上がった。
エヴリンが涙を拭いながら笑う。
「……本当に、終わったのかな」
セレネは空を見上げる。
「いいえ」
「まだです」
リヴィアが振り返る。
「まだ?」
セレネは白い本を見せる。
最後のページ。
そこには新しい文字が刻まれていた。
『第一存在――完成』
『第二存在――完成』
『第三存在――完成』
そして、その下に――。
『最終観測者――選択を確認』
リヴィアは目を見開く。
「最終観測者……」
その文字の下に、新たな一文が浮かび上がった。
『観測者の世界への接続――解除』
『世界の未来――自由化』
リヴィアは息を吐いた。
「……自由に」
ルシアンが微笑む。
「ようやく、ここまで来たね」
「はい」
しかし、その直後。
白い本の最後の一行だけが、黒く染まった。
『ただし――』
リヴィアの表情が変わる。
その下に、ゆっくりと文字が現れる。
『本当の観測者は、まだ姿を現していない』
三人は同時に空を見上げた。
そして、遠い東の空。
天門よりもさらに高い場所で――。
一つの巨大な目が、静かに開いた。




