最初の世界へ
光の中を、リヴィアとルシアンは走っていた。
足元には何もない。
それなのに、二人の身体は確かな道の上を進んでいる。
周囲には無数の光が浮かんでいた。
それぞれの光の中に、異なる世界が映っている。
見知らぬ王国。
魔法が存在しない街。
空に巨大な城が浮かぶ世界。
海の上に王都が築かれた世界。
そして――。
リヴィアが知っている世界。
「……すごい」
思わず足を止める。
ルシアンも立ち止まった。
「これが……可能性の数?」
「たぶん」
リヴィアは目の前を漂う光へ手を伸ばす。
その中には、見覚えのある王都が映っていた。
けれど、そこにいる自分は違う。
金色の髪。
赤い瞳。
そして、アルベルトの隣に立っている。
「……別の私」
リヴィアが呟く。
その世界では、彼女は悪役令嬢ではなかった。
王太子妃として微笑んでいる。
幸せそうにも見える。
しかし、その隣にルシアンはいなかった。
リヴィアはすぐに手を引っ込めた。
「見ない方がいいかもしれません」
「どうして?」
「自分が選ばなかった未来を見るのは……少し怖いです」
ルシアンは光を見る。
「僕は見てみたい」
「え?」
「君がどんな人生を選べたのか」
「……」
リヴィアは彼を見る。
「殿下は、怖くないんですか?」
「怖いよ」
意外な答えだった。
ルシアンは少し笑う。
「でも、僕が知らない君を見るより、今の君を知っていたい」
リヴィアの頬が熱くなる。
「……そういうことを、平然と言うのはやめてください」
「平然とはしてないけど?」
「え?」
ルシアンの耳が少し赤くなっていた。
それに気づいたリヴィアは、思わず笑ってしまう。
「……殿下も緊張するんですね」
「君の前ではね」
「……もう」
リヴィアは視線を逸らした。
しかし、その表情は少しだけ柔らかかった。
二人が再び歩き始める。
しばらくすると、無数の世界が少しずつ減っていった。
やがて周囲から光が消える。
完全な暗闇。
その先に、一つだけ扉が浮かんでいた。
白い扉。
装飾は何もない。
ただ、中央に小さな文字が刻まれている。
『始まり』
リヴィアは扉の前で立ち止まった。
「……ここが」
「最初の世界」
ルシアンが答える。
リヴィアは扉に手を伸ばした。
だが、触れる直前。
扉の向こうから声が聞こえた。
『待って』
二人は同時に振り返る。
誰もいない。
しかし、暗闇の中に一つの小さな光が浮かび上がった。
それは、白い鳥だった。
小さな翼を羽ばたかせながら、二人の前へ降りてくる。
リヴィアは目を丸くする。
「……ユナ?」
「違う」
白い鳥が答えた。
「私はユナではありません」
「しゃべった……」
「あなたたちの記憶に合わせて、この姿を選びました」
鳥は淡々と答える。
「記憶に合わせて?」
「はい」
その瞬間、白い鳥の姿が変わった。
白い光が広がり、一人の少女になる。
長い黒髪。
白い衣。
黄金色の瞳。
先ほどの最初の観測者と同じ姿。
リヴィアは息を呑む。
「あなたは……」
「私は記録の案内役」
少女は微笑んだ。
「最初の観測者本人ではありません」
「では、彼女は?」
「まだ、あの場所で時間を稼いでいます」
リヴィアの表情が曇る。
「大丈夫でしょうか」
「分かりません」
少女は正直に答えた。
「観測者の力は、私たちが想像するより遥かに大きい」
ルシアンが尋ねる。
「それなら、なぜ僕たちをここへ?」
「あなたたちだけが、最初の世界へ入る資格を持っているからです」
「資格?」
「世界に選ばれたからではありません」
少女は首を横に振った。
「自分で選択を続けたからです」
リヴィアは黙って聞いていた。
「でも、私は……」
「何度も逃げようとした」
「……」
「攻略対象を避け」
「未来を変え」
「危険から離れようとした」
リヴィアは苦笑する。
「……全部、覚えています」
「それでも最後には、誰かを助ける方を選んだ」
少女の視線がルシアンへ向く。
「そして、この人を選んだ」
「……」
また顔が熱くなる。
「だから違いますって……」
ルシアンが笑う。
「今さら否定しても遅いと思うけど」
「殿下!」
少女は二人を見て微笑んだ。
「それでいいのです」
「え?」
「最初の世界には、選択肢がありません」
リヴィアの表情が変わった。
「……選択肢がない?」
「はい」
少女は白い扉を見る。
「そこにあるのは、ただ一つの問いだけです」
扉が淡く輝く。
文字が浮かび上がった。
『あなたは、何を残したい?』
リヴィアは黙り込む。
簡単な問いに見えた。
けれど、答えが出てこない。
地位?
未来?
記憶?
命?
それとも――。
「……私は」
リヴィアは胸元の青い宝石に触れた。
「誰かが自分で選べる未来を残したいです」
少女は頷く。
「なぜ?」
「私自身が、そうしてもらいたかったから」
リヴィアは続ける。
「私は最初、自分の未来を知っていました」
「だから、その未来から逃げようとしました」
「でも……」
彼女はルシアンを見る。
「逃げるだけでは、未来は変わらないと分かりました」
「自分で選ばなければならない」
ルシアンは静かに彼女の言葉を聞いていた。
「だから私は、自分で選びたい」
「たとえ、その選択が間違っていたとしても」
少女は微笑む。
「では、あなたは何を残しますか?」
今度はルシアンへ問いかけた。
ルシアンは少し考える。
そして答えた。
「僕は、選択する権利を残したい」
「権利?」
「誰かに未来を決められないための権利だ」
「たとえ、その選択によって世界が変わっても?」
「それでも」
ルシアンは迷わなかった。
「未来を決めるのは、世界じゃない」
「その未来を生きる人間自身だ」
少女は二人を見つめる。
そして、静かに頷いた。
「二人とも、同じ答えですね」
「……同じ?」
「はい」
白い扉が開く。
その向こうには、何もなかった。
ただ一面の白。
その中心に、一冊の本が置かれている。
古びた本。
表紙には文字がなかった。
リヴィアとルシアンが中へ入る。
本の前に立つと、表紙がひとりでに開いた。
最初のページ。
そこには一行だけ書かれていた。
『世界は、観測される前には存在しない』
リヴィアはページをめくる。
二ページ目。
『可能性は、選択されることで存在する』
さらにページをめくる。
三ページ目。
そこには、二人の姿が描かれていた。
リヴィア。
ルシアン。
だが、その下に書かれていた文章を見て、リヴィアは息を止めた。
『第一観測記録』
『観測対象――なし』
『世界――未確定』
『未来――未選択』
そして最後に。
『次の観測者――神谷紗月』
「……私?」
リヴィアの手が震える。
「どうして、私の前世の名前が……」
ルシアンが本を覗き込む。
次のページがひとりでに開いた。
そこには、さらに文字があった。
『神谷紗月は、世界を観測した』
『しかし、彼女は観測するだけでは終わらなかった』
『物語の外側から、物語へ干渉した』
リヴィアの瞳が揺れる。
「私が……?」
少女が静かに答える。
「あなたが遊んでいたと思っていたゲーム」
「それは、観測装置でもあったのです」
「……観測装置?」
「あなたは何度も物語を繰り返した」
「攻略対象の結末を見た」
「別の選択肢を試した」
「そして、何度も世界を観測した」
「その観測が――」
少女はリヴィアを見る。
「あなた自身を、この世界へ繋いだのです」
リヴィアは言葉を失った。
ゲームを遊んだから転生した。
そう思っていた。
しかし。
本当は逆だったのかもしれない。
彼女が何度も世界を観測したから。
世界の方が、彼女を見つけた。
その時。
本の最後のページに、黒い文字が浮かび上がった。
『観測者、接続を確認』
『対象――神谷紗月』
『対象――ルシアン・ヴァルクレスト』
『観測結果――予測不能』
その下に、新たな一文が現れる。
『よって、二つの可能性を消去する』
リヴィアの顔から血の気が引いた。
「……消去?」
少女が振り返る。
「急いでください」
「何を?」
「この記録を完成させる前に――」
白い世界の彼方から、巨大な音が響いた。
ドン――。
空間全体が揺れる。
そして、遠くに黒い亀裂が走った。
黄金色の瞳が、その隙間から覗いている。
『見つけた』
リヴィアはルシアンの手を強く握った。
ルシアンも握り返す。
二人の間に、青と銀の光が生まれた。
少女が叫ぶ。
「記録を完成させて!」
「どうすればいいんですか!」
「最後のページに――」
少女の声が途切れる。
黒い亀裂が白い世界を侵食し始めた。
それでも少女は叫んだ。
「あなた自身の名前を書いて!」
リヴィアは本を見る。
最後のページ。
そこには、空白が一つだけ残されていた。
ペンもない。
文字を書く場所だけがある。
リヴィアは自分の胸に手を当てる。
「……私の名前」
ルシアンが隣に立つ。
「書こう」
「でも……」
「君が選んだ未来なら、僕も一緒に選ぶ」
リヴィアは彼を見る。
そして、静かに頷いた。
「……はい」
二人は白いページへ手を伸ばした。
その瞬間。
世界そのものが、光に包まれた。




