幸せを分かち合うための一歩
リヴィアがルシアンに自分の答えを伝えてから、二日が過ぎた。
その間、二人はいつもと同じように学院で顔を合わせ、授業の合間に言葉を交わしていた。
けれど、ほんの少しだけ変わったことがある。
ルシアンが彼女を見る目が、以前よりも柔らかくなったこと。
そして、リヴィア自身も、彼の隣にいることを以前ほど意識して緊張しなくなったことだった。
もちろん、完全に平静でいられるわけではない。
ふと目が合うだけで頬が熱くなるし、彼が何気なく名前を呼ぶだけで、胸が落ち着かなくなる。
それでも、もう自分の気持ちを隠す必要はなかった。
昼休み、リヴィアは学院の中庭でルシアンと向かい合っていた。
「それで、これからのことだけれど」
ルシアンが切り出した。
「はい」
「結婚について、両親には僕から話しておこうと思う。ただ、正式な手続きや発表については、君と相談してから進めたい」
リヴィアは真剣に頷いた。
「ありがとうございます。私も、家族にきちんと伝えたいと思っています」
「もちろん。君の家族にも、君自身の言葉で話してほしい」
彼は少し考えてから続けた。
「それから、婚約や結婚の準備を始めるとしても、すべてを一度に決める必要はないよ。学業のことも、これからの活動のこともあるからね」
「……ルシアン様は、本当に私を急かさないのですね」
「急かしたところで、君が幸せになるわけではないからね」
彼は微笑んだ。
「僕は、君と結婚すること自体が目的なのではなくて、結婚したあとも君と幸せに暮らしたいんだ」
その言葉に、リヴィアは胸の前で指を重ねた。
以前の自分なら、結婚という言葉を聞くだけで、さまざまな責任や不安を考えてしまっただろう。
今も、不安がすべて消えたわけではない。
けれど、彼となら、その不安を一人で抱え込まずに済む。
「私も、同じです」
リヴィアは穏やかに答えた。
「結婚することだけを目標にするのではなく、その先の日々を大切にしたいです。二人で食事をしたり、今日あったことを話したり、ときには一緒に悩んだり……そんな時間を重ねていきたいと思っています」
「うん。僕も、そういう時間が一番楽しみだよ」
ルシアンは彼女の手にそっと触れた。
「だから、これからは準備のことも一緒に考えていこう」
「はい」
リヴィアは彼の手を握り返した。
それは、結婚の約束を交わした二人が、これからの生活へ踏み出すための、小さな一歩だった。
◇
その日の午後、エヴリンは王都西部の学習室を訪れていた。
机の上には、子供たちが書いた文字の練習帳が並んでいる。
以前は自分の名前を書くのにも苦労していた子が、今では短い文章を読めるようになっていた。
数字を覚えた子供たちは、買い物の計算にも挑戦し始めている。
もちろん、全員が同じ速さで学べるわけではない。
授業に来られる日が限られている子もいれば、まだ文字を覚えることに苦労している子もいる。
だからこそ、エヴリンたちは、一人ひとりの進み方を大切にしていた。
「エヴリン先生、見て!」
トムが一枚の紙を持って走ってきた。
そこには、少し歪んだ文字で、自分の名前が書かれていた。
「トム、自分で書いたの?」
「うん! 間違えないで書けたんだ!」
「すごいわ。前よりもずっと読みやすくなっているわね」
エヴリンが笑顔で褒めると、トムは誇らしそうに胸を張った。
「次は、お母さんの名前も書けるようになりたい!」
「きっと書けるようになるわ。一緒に練習しましょうね」
トムは嬉しそうに頷き、再び机へ戻っていった。
その様子を、入口に立っていたアルベルトが静かに見守っていた。
「子供たちの成長は、早いものだね」
「はい。でも、本人が頑張っているからこそです」
エヴリンは練習帳を整えながら答えた。
「私たちは、その頑張りを支えられる場所でありたいんです」
アルベルトは教室を見渡した。
ここには、王宮の会議室にあるような立派な調度品はない。
机も椅子も、使えるものを修理しながら揃えたものだ。
それでも、子供たちの声が響くこの場所には、確かな意味があった。
「この活動を、今後も続けていけるようにしたいと思っている」
アルベルトが言った。
「ただし、規模を大きくすることだけを急ぐつもりはないよ。今の教室で分かった問題を整理して、必要な支援を一つずつ整えていこう」
「ありがとうございます」
エヴリンは深く頭を下げた。
「ここまで続けてこられたのは、アルベルト様が支えてくださったからです」
「君たちが努力したからだよ。僕は、その努力が無駄にならないようにしたいだけだ」
彼は少しだけ笑った。
「それに、僕自身も学ばせてもらっているからね」
「アルベルト様も?」
「もちろん。制度を整えることと、その制度を必要としている人に本当に届くことは、必ずしも同じではない。君たちと活動して、それを何度も実感したよ」
エヴリンは彼を見つめた。
王子としての責任を果たそうとする姿は、以前から尊敬していた。
けれど最近は、それだけではない。
彼が何を考え、何を悩み、どんなことに喜びを感じるのか。
そうした一人の人間としての姿を知るたびに、もっと一緒にいたいと思うようになっていた。
「……アルベルト様」
「何かな?」
「今度のお出かけですが、工房を見学したあと、少しだけ町を歩いてもいいですか?」
「もちろん。何か見たいものがあるの?」
「まだ決めていないんです。でも、予定を決めずに歩くのも楽しそうだと思って」
アルベルトは、以前二人で話したことを思い出したように笑った。
「いいね。僕も、そういう時間を過ごしてみたい」
「では、決まりですね」
エヴリンは嬉しそうに頷いた。
仕事のために会うだけではない。
こうして、二人で楽しみにできる予定が増えていく。
そのことが、彼女にはとても大切だった。
◇
数日後。
リヴィアは、久しぶりに実家を訪れていた。
家族に伝えたいことがあったからだ。
居間に通された彼女は、両親を前にして、何度も膝の上で指を組み直した。
「それで、今日は何か話があるのかい?」
父の問いかけに、リヴィアは顔を上げた。
「はい。今日は、私のこれからについてお話ししたいと思っています」
両親は静かに彼女の言葉を待った。
リヴィアは深く息を吸った。
「私は、ルシアン様と結婚したいと思っています」
一瞬、部屋が静まり返った。
それから母が、驚きと喜びの入り交じった表情で尋ねた。
「あなた自身が、そう決めたのね?」
「はい」
リヴィアは迷わず頷いた。
「たくさん考えました。王族の一員になることや、これからの責任についても。でも、私はルシアン様と一緒に未来を作っていきたいんです」
「不安はないのかい?」
父の問いに、リヴィアは少しだけ考えた。
「あります。これから知らなければならないことも、乗り越えなければならないことも、たくさんあると思います」
正直に答える。
不安がないふりをする必要はなかった。
「でも、不安があるからといって、自分の望む未来を諦めたくはありません。それに、ルシアン様とは、困ったことがあれば一緒に考えていこうと話しています」
母は、安心したように微笑んだ。
「あなたが自分で考えて、自分の意思で選んだのなら、私たちは応援するわ」
「お母様……」
「もちろん、これから大変なこともあるでしょう。でも、あなたが何を大切にしたいのか、忘れないでね」
父も静かに頷いた。
「王族との結婚だからといって、君自身がなくなるわけではない。どこにいても、自分の考えを持ち続けなさい」
リヴィアは目を伏せた。
胸の奥が熱くなった。
かつては、自分が何者なのかさえ分からず、与えられた運命に振り回されていた。
前世の記憶を取り戻してからも、何が正しいのか、どうすれば後悔しないのか、答えを探し続けてきた。
けれど今は、自分の意思で選べる。
そして、その選択を応援してくれる人たちがいる。
「ありがとうございます……!」
リヴィアは深く頭を下げた。
母は立ち上がり、彼女のそばへ歩み寄った。
「顔を上げて。あなたが幸せそうにしていることが、私たちにとっても嬉しいのよ」
そう言って、優しく抱きしめてくれた。
リヴィアは母の肩に顔を寄せた。
その温もりを感じながら、心の中で改めて思った。
自分は、一人で未来を選んだわけではない。
たくさんの人に支えられ、たくさんの言葉を受け取り、それでも最後は自分自身で決めたのだ。
だからこそ、この選択を大切にしたい。
◇
実家を出たリヴィアは、学院へ戻る前に、王宮の庭園へ立ち寄った。
ルシアンに会う約束をしていたからだ。
彼は花壇のそばで待っていたが、リヴィアを見つけると、すぐに歩み寄ってきた。
「家族には話せた?」
「はい。皆、応援してくれると言ってくれました」
「そう。よかった」
ルシアンは、心から安堵したように微笑んだ。
「君にとって、大切な人たちだからね」
「はい。だから、きちんと自分の言葉で伝えたかったんです」
「きっと、安心しただろうね」
「……少し、泣いてしまいました」
「君が?」
「はい。お母様に抱きしめられて……」
リヴィアは照れくさそうに視線を逸らした。
「でも、嬉しかったんです」
「うん」
ルシアンは、そっと彼女の手を取った。
「これからは、君の家族にも、僕たちのことを少しずつ知ってもらおう。急いで形だけ整えるのではなく、みんなが安心できるように」
「そうですね」
リヴィアは微笑んだ。
「私たちの未来ですもの。一緒に考えていきたいです」
「もちろん」
二人は並んで歩き始めた。
これから婚約の手続きや、王宮での話し合いが始まるだろう。
結婚後の生活についても、具体的に決めていかなければならない。
けれど、その一つひとつを、二人で相談しながら進めていける。
リヴィアには、それが何よりも心強かった。
「ルシアン様」
「何?」
「これから、よろしくお願いします」
彼は足を止め、彼女を見つめた。
そして、つないだ手に少しだけ力を込めた。
「こちらこそ、リヴィア。これからも、ずっとよろしく」
その言葉に、リヴィアは笑顔で頷いた。
二人が選んだ未来は、まだ始まったばかりだ。
けれど、その一歩は、もう確かに踏み出されていた。




