答えを伝える、その日のために
朝の光が、机の上に置かれた青い革の手帳を照らしていた。
リヴィアは椅子に腰掛け、開いたページをじっと見つめていた。
そこには、これまでルシアンと話してきたことや、自分が望む未来が少しずつ書き留められている。
勉強を続けたいこと。
王族の一員となっても、自分の考えを持ち続けたいこと。
困っている人たちの声を聞き、できることを探していきたいこと。
そして。
大切な人と、何でもない日々を一緒に過ごしたいこと。
リヴィアはペンを持ち直し、最後の一文をゆっくりと書き加えた。
『私は、ルシアンと一緒に未来を選びたい』
書き終えた途端、胸の奥が熱くなった。
今まで何度も考えてきた言葉だった。
けれど、こうして文字にすると、もう自分の気持ちをごまかせないような気がした。
「……本当に、決めたんだわ」
小さく呟いてから、リヴィアは両手で頬を覆った。
決めた。
少なくとも、自分が誰と未来を歩みたいのかについては。
それでも、彼に伝えることを考えると、心臓が落ち着かなくなる。
王族との結婚は、二人だけの問題ではない。
生活も、責任も、周囲との関係も変わっていく。
けれど、昨日、ルシアンの家族と会って感じたことがあった。
彼の両親は、自分の返事を急かさなかった。
兄のレオンハルトも、からかいながらではあったけれど、弟が自分の意思を大切にしていることを理解していた。
そして何より、ルシアン自身が、ずっと同じことを伝えてくれていた。
自分の人生を捨てなくていい。
一人で答えを出さなくてもいい。
二人で考えていけばいい。
その言葉を思い出すたび、リヴィアの心から不安が少しずつほどけていく。
「……次に会ったとき、ちゃんと話そう」
手帳を閉じたリヴィアは、胸元にそっと抱き寄せた。
今度は、迷いを隠すためではなく、自分の答えを届けるために。
◇
昼過ぎ、王立セイレーン学院の庭園。
約束の場所に先に到着したルシアンは、噴水のそばで静かに空を見上げていた。
やがて、石畳を歩く足音が聞こえる。
振り返ると、リヴィアがこちらへ向かってくるところだった。
「お待たせしました、ルシアン様」
「いや、僕も今来たところだよ」
「……それは、少し怪しいですね」
「どうして?」
「ルシアン様は、私が来る時間を正確に予想していそうですから」
ルシアンは一瞬目を丸くし、それから小さく笑った。
「否定はしないかな」
「やっぱり……」
リヴィアは呆れたように息をついたものの、口元には笑みが浮かんでいた。
以前なら、彼の冗談にどう返せばいいのか分からず、戸惑ってばかりだった。
今では、そんなやり取りさえも心地よい。
二人は並んで庭園を歩き始めた。
咲き始めた花々の間を抜け、木陰のベンチへ向かう。今日は特別な催しがあるわけでも、誰かと会う予定があるわけでもない。
ただ、一緒に過ごすための時間だった。
「昨日は、よく眠れた?」
ルシアンが尋ねた。
「はい。……少しだけ、考え事はしましたけれど」
「考え事?」
「ええ。これからのことを」
リヴィアは、膝の上で指先を重ねた。
「ルシアン様と一緒にいる未来について、です」
彼は茶化さなかった。
ただ、彼女の言葉を待っていた。
「昨日、ご家族とお話しして、改めて考えました。結婚したら、今までと同じではいられないこともあると思います。私自身が気づいていない問題も、きっとあるでしょう」
「そうだね。生活が変われば、困ることも出てくると思う」
「でも……それを理由に、最初から諦めたくはないんです」
リヴィアは顔を上げた。
「私は、学ぶことを続けたいですし、自分で考えて行動できる人でありたいです。王族の一員になることで、今までより多くの人の声を聞けるのなら、その機会も大切にしたいと思っています」
「うん」
「それに、私ばかりが自分の希望を伝えるのではなく、ルシアン様が何を望んでいるのかも、ちゃんと聞きたいです」
「僕が望んでいること?」
「はい。私と一緒にいるために、ルシアン様が何かを我慢するのは嫌ですから」
ルシアンは、少し驚いたように彼女を見つめた。
やがて、穏やかな表情で答えた。
「僕が望んでいるのは、君と一緒に生きることだよ」
「……っ」
「でも、それは君が何もかも僕に合わせてくれることじゃない。君が君らしくいられて、僕も自分の考えを話せる。違う意見があったら、きちんと話し合える。そんな関係でいたいんだ」
彼はベンチに腰掛け、隣の場所を手で示した。
リヴィアも隣に座る。
「王族としての務めはなくならない。僕には僕の責任があるし、君にも君の望むことがある。いつも二人の都合が一致するとは限らないだろうね」
「はい」
「それでも、どちらか一人だけが我慢するのではなく、二人で納得できる方法を探したい」
ルシアンは、リヴィアの目を見た。
「僕は君と、そういう未来を作りたいんだ」
リヴィアは返事をしようとして、言葉を失った。
胸の奥に、温かなものが満ちていく。
自分の願いを受け止めてくれる人。
それだけではない。
彼自身の願いも、弱さも、迷いも、これからは知っていきたい。
一方的に守られるのではなく、彼だけに支えを求めるのでもなく。
互いに手を伸ばせる関係でありたい。
「……ルシアン様」
「うん?」
「私、あなたに伝えたいことがあります」
ルシアンの表情が、わずかに引き締まった。
「聞かせてくれる?」
リヴィアは頷いた。
けれど、いざ言葉にしようとすると、緊張が喉元まで込み上げてくる。
手帳に書いた言葉なら、何度でも読み返せた。
それを本人に伝えるとなると、まるで別のことのようだった。
「その……」
頬が熱くなる。
「私は……」
そこで、リヴィアは一度息を吸った。
まだ、言えない。
そう思った瞬間、隣から柔らかな声が聞こえた。
「急がなくていいよ」
ルシアンは微笑んでいた。
「君が話したくなったときに聞くから」
その言葉に、リヴィアは思わず彼の袖をつまんだ。
「……そういうところです」
「え?」
「そういうところが、ずるいんです」
「ずるい?」
「私が、あなたのことをもっと好きになってしまうところです」
言ってしまってから、リヴィアは両手で口元を覆った。
「り、リヴィア?」
今度はルシアンが動揺する番だった。
耳まで赤くなった彼を見て、リヴィアは驚いた。
いつも余裕のある彼が、こんなふうに言葉を失うこともあるのだ。
「……あの、今のは」
「いや、待って。少しだけ待ってほしい」
ルシアンは片手で顔を覆った。
「君がそんなことを言うとは思わなかった」
「わ、私だって、こんなことを言うつもりでは……!」
「いや、撤回しなくていい。絶対に」
その真剣な声に、リヴィアはとうとう笑ってしまった。
ルシアンも、困ったように笑う。
二人の間に、いつもの穏やかな空気が戻ってきた。
けれど、さっきまでとは何かが違っていた。
言葉にするのが怖くても、気持ちを少しずつ伝えられる。
照れくさくても、相手の反応を知ることができる。
そんな当たり前のことが、リヴィアにはとても大切に思えた。
「……今日は、もう少しだけ一緒にいてもいいですか?」
「もちろん」
ルシアンは、そっと手を差し出した。
リヴィアは迷わずその手を取った。
指が重なり、二人の手が優しく結ばれる。
今すぐすべてを話さなくてもいい。
けれど、もう答えから目を逸らすつもりはなかった。
◇
同じ頃、王都西部の小さな工房では、エヴリンが棚に並んだ木製の教材を確認していた。
読み書き用のカード、数字を学ぶための木片、絵と文字を組み合わせた教材。
子供たちが実際に使ったものを中心に、少しずつ改善を重ねてきた品々だった。
「この数字のカード、次の授業では少し増やしてみようと思うんです」
エヴリンが言うと、向かいに立っていたアルベルトは一枚を手に取った。
「買い物の練習に使うんだったね」
「はい。トムが、数字を覚えたら自分で買い物をしてみたいと言っていたので」
「それはいい目標だ」
アルベルトはカードを元の場所に戻した。
「ただ覚えるだけではなく、覚えたことを使える。学ぶ楽しさを知るきっかけにもなるだろう」
「そうなってくれたら嬉しいです」
エヴリンは微笑んだ。
活動が始まった頃は、子供たちが教室に来てくれるかどうかさえ分からなかった。
今では、次の授業を楽しみにしてくれる子供もいる。
それでも、まだ来られない子供たちがいることも知っていた。
だからこそ、彼女は成果だけを見て満足するつもりはなかった。
「……エヴリン」
「はい?」
「君は、この活動をこれからどうしていきたい?」
アルベルトの問いに、彼女は少し考えた。
「もっと多くの子供たちに、学ぶ機会を届けたいです。でも、無理に人数を増やすのではなくて、今来てくれている子たちが安心して通える場所を守りたいと思っています」
「うん」
「それから、いつかは子供たち自身が、ここで学んだことを誰かに教えられるようになったら素敵だなって」
エヴリンは、棚のカードを見つめた。
「教えてもらうだけじゃなくて、自分にもできることがあるって知ってほしいんです。そうすれば、ここを卒業したあとも、自分で新しいことを学んでいけるかもしれませんから」
アルベルトはしばらく黙っていた。
やがて、静かな声で言った。
「君は、いつもその先を考えているんだね」
「え?」
「目の前の問題を解決するだけではなく、その先で誰が何をできるようになるのかを考えている。僕は制度や仕組みを整えることに目が向きがちだけれど、君の話を聞くと、その先にいる人たちの姿を想像できる」
「そんな、大げさですよ」
「大げさではないよ。僕は君のそういうところを尊敬している」
まっすぐな言葉に、エヴリンの頬が赤くなった。
最近、アルベルトから褒められることは珍しくなくなっていた。
けれど、彼が自分の考えを真剣に受け止めてくれるたび、胸の奥が温かくなる。
そして、その温かさが、以前とは少し違う意味を持ち始めていることにも気づいていた。
「……アルベルト様は」
エヴリンは勇気を出して尋ねた。
「この活動が落ち着いたら、何をしたいですか?」
「僕が?」
「はい。王族としてのお仕事ではなくて、アルベルト様ご自身がしたいことです」
彼は意外そうに目を瞬かせた。
「そうだな……」
しばらく考えたあと、少しだけ表情を和らげた。
「一度、何も予定を決めずに遠くへ行ってみたいかな。目的地だけ決めて、途中で気になった町に立ち寄ったり、地元の人に話を聞いたりして」
「素敵ですね」
「それから、君が興味を持った場所にも行ってみたい」
エヴリンは顔を上げた。
「私が?」
「君は、知らない文化や暮らしについて話すとき、とても楽しそうだから。君が見たいものを、僕も一緒に見てみたいと思ったんだ」
頬が、さらに熱くなった。
「……それは、私も行ってみたいです」
「では、いつか実現させよう」
アルベルトは微笑んだ。
その約束は、仕事の予定表に書き込まれるようなものではなかった。
いつ実現するのかも、どこへ行くのかも、まだ決まっていない。
それでもエヴリンは、その未来を想像するだけで嬉しくなった。
彼と一緒に、まだ知らない場所へ行く。
見たことのない景色を眺め、知らない味に驚き、帰り道に今日のことを話す。
そんな時間を、自分も望んでいる。
「アルベルト様」
「何かな?」
「……今度のお出かけ、楽しみにしています」
アルベルトは、一瞬だけ目を見開いた。
そして、彼女に向けて柔らかく笑った。
「僕もだよ、エヴリン」
◇
夕方。
自室に戻ったリヴィアは、再び青い革の手帳を開いていた。
今日、ルシアンに伝えられた言葉。
彼が見せてくれた、照れた表情。
手をつないで過ごした、穏やかな時間。
一つひとつを思い返すと、自然と笑みがこぼれた。
彼の隣でなら、自分はきっと、完璧な答えを出せなくても歩いていける。
迷うことがあってもいい。
意見が食い違うことがあってもいい。
そのたびに話し合い、互いの気持ちを知りながら、二人で答えを探していけばいいのだから。
リヴィアはペンを取り、手帳の新しいページに書き込んだ。
『私が望むのは、何もかもが思いどおりになる未来ではない』
少し考え、続きを書く。
『嬉しいことも、困ることも、二人で分け合いながら歩いていける未来』
最後に、もう一文。
『私は、その未来をルシアンと作りたい』
ペンを置いたリヴィアは、窓の外へ視線を向けた。
夕暮れの空が、ゆっくりと夜の色へ変わり始めている。
答えは、もう自分の中にある。
あとは、それを彼に伝えるだけだった。
「……次こそは」
リヴィアは胸に手を当て、静かに微笑んだ。
「ちゃんと、あなたに伝えます」
その言葉は、誰かに聞かせるためのものではなかった。
自分自身に約束するための言葉だった。
そして、その約束を果たす日が、少しずつ近づいていた。




