あなたの隣で見つけた幸せ
ヴァロリア王宮を訪れた日から、三日が過ぎた。
リヴィアは、あの日のことを何度も思い返していた。
国王オスカーの落ち着いた眼差し。王妃セレスティアの温かな言葉。そして、ルシアンをからかっては楽しそうに笑っていたレオンハルトの姿。
それぞれに個性があり、ルシアンがどのような環境で育ってきたのか、少しだけ理解できた気がした。
なかでも、王妃の言葉が心に残っている。
互いを大切に思うなら、その気持ちを受け取り合うことも必要なのだと。
「……私も、もっと彼のことを知らなくてはいけないわね」
朝の支度を終えたリヴィアは、鏡の前で小さくつぶやいた。
ルシアンは、いつも自分の気持ちを尊重してくれる。
けれど、自分は彼の望みをどこまで理解できているだろう。
彼が王族として背負っている責任だけではない。一人の人間として何を望み、何に喜び、何に悩むのか。
それを、もっと知りたいと思った。
自分の未来を彼と一緒に考えたいのなら、彼の未来についても知ろうとするべきだ。
リヴィアは、机の上に置いていた手帳を閉じた。
今日は、自分から彼を誘ってみよう。
そう決めると、彼女は短い手紙を書き始めた。
◇
放課後。
リヴィアは、王都の中心から少し離れた通りでルシアンと待ち合わせていた。
彼は約束の時間より少し早く到着していたらしく、通りに面した菓子店の前で彼女を待っていた。
「待たせてしまったかしら?」
「いや。僕も今来たところだよ」
ルシアンは、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「それにしても、君から誘ってくれるとは思わなかったな」
「……私から誘ってはいけなかった?」
「まさか。むしろ、うれしいよ」
彼は少しだけ楽しそうに目を細めた。
「君が僕に会いたいと思ってくれたことがわかるからね」
「もう……。私だって、あなたに会いたいと思うことくらいあるわ」
「それなら、これからも遠慮なく誘ってほしいな」
あまりにも自然に言われて、リヴィアは頬を赤くした。
「……考えておくわ」
「それは期待してもいい返事かな?」
「ルシアン!」
彼は笑いながら、菓子店の扉を開けた。
店内には、焼きたての菓子の甘い香りが漂っていた。窓際には小さな花瓶が置かれ、季節の花が可憐に咲いている。
二人は以前にも座ったことのある窓際の席へ向かった。
「このお店、覚えている?」
リヴィアが尋ねると、ルシアンはすぐにうなずいた。
「もちろん。君がどの焼き菓子を選ぶか、ずいぶん悩んでいた場所だろう?」
「だって、どれもおいしそうだったのよ」
「最後には二種類選んでいたね」
「……よく覚えているわね」
「君のことだからね」
さらりと返された言葉に、リヴィアは一瞬、何も言えなくなった。
彼は、そんな小さなことまで覚えている。
自分が何を選び、どんなことで迷い、どんな表情をしていたのか。
大きな出来事だけではなく、何気ない時間も、彼の記憶に残っているのだ。
「どうしたの?」
「いいえ……。うれしかっただけよ」
リヴィアがそう答えると、ルシアンは優しく微笑んだ。
二人は紅茶と焼き菓子を注文し、しばらく学院での出来事について話した。
やがて、リヴィアはカップを置き、彼を見つめた。
「今日は、あなた自身のことを聞きたいと思っていたの」
「僕自身のこと?」
「ええ。王族としてのあなたではなくて、一人の人間としてのあなたを、もっと知りたいのよ」
ルシアンは、少し意外そうに目を瞬かせた。
「それは……うれしい申し出だね」
「以前、あなたは私に、どんな未来を望んでいるのかと尋ねてくれたでしょう? 今度は、私からあなたに聞いてみたいと思ったの」
「なるほど。では、何から話そうか」
「そうね……。子供の頃、どんなことが好きだったの?」
ルシアンは少し考え込んだあと、懐かしそうに笑った。
「本を読むことと、城の外を歩くことかな」
「外を歩くこと?」
「ああ。王宮の中にいると、どうしても決められた予定に従うことが多くなるからね。外へ出て、自分の知らないものを見るのが好きだったんだ」
「今も、そうなの?」
「今も変わらないよ。君と一緒に街を歩くのが好きなのも、同じ理由かもしれない」
リヴィアは、うれしそうに目を細めた。
「それなら、もっといろいろな場所へ行きましょう。私も、まだ知らない場所がたくさんあるもの」
「いいね。君が行きたい場所も、僕が紹介したい場所も、少しずつ回っていこう」
「約束よ」
「ああ、約束だ」
二人は笑い合った。
リヴィアは、紅茶を一口飲んでから、もう一つ尋ねた。
「あなたは、どんなときに幸せだと感じるの?」
今度は、ルシアンもすぐには答えなかった。
カップを手にしたまま、窓の外へ視線を向ける。
「難しい質問だね。普段、あまり考えたことがなかった」
「答えにくかったかしら?」
「いや。少し考えさせてほしい」
彼は、ゆっくりと言葉を探した。
「王族としての務めを果たせたときには、達成感がある。自分の判断が誰かの役に立ったとわかれば、うれしくもなる。でも、それが幸せかと聞かれると……少し違う気がするんだ」
リヴィアは、黙って耳を傾けた。
「僕は、気を張らずに話せる相手と一緒にいるときに、幸せを感じるのかもしれない」
ルシアンは、彼女へ視線を戻した。
「立場や責任を忘れるわけにはいかないけれど、いつも正しい答えを出そうとしているわけでもないんだ。失敗した話をしたり、くだらないことで笑ったり、何をするでもなく時間を過ごしたり。そういう時間は、思っている以上に大切なんだと思う」
そして、少しだけ照れくさそうに笑った。
「君といると、そういう時間を過ごせるんだよ」
リヴィアの胸が、温かくなった。
「……私も、あなたといると安心するわ」
「そう言ってもらえるのは、うれしいね」
「あなたは、私の気持ちを急いで決めさせようとしないでしょう? 迷っているときも、答えが出るまで待ってくれる。だから、あなたと話していると、自分の本当の気持ちを考えられるの」
彼は、真剣な表情で彼女の話を聞いていた。
「でも、今日は私から誘いたかったの。あなたがいつも私のことを考えてくれるように、私もあなたのことを知りたいし、あなたに喜んでもらえることをしたいと思ったから」
言い終えると、リヴィアは少し恥ずかしくなった。
けれど、今度は視線をそらさなかった。
ルシアンは、ゆっくりと微笑んだ。
「ありがとう、リヴィア」
その声は、いつもより柔らかかった。
「君が僕のことを知ろうとしてくれる。それだけで、今日は十分すぎるくらいうれしいよ」
「本当に?」
「ああ。ただ、せっかく誘ってくれたんだから、もう少し君と一緒にいたいとも思っているけれどね」
「ふふっ。それなら、もう少しだけお付き合いしてもらおうかしら」
「喜んで」
リヴィアは、笑顔でうなずいた。
今日、彼女が知ったのは、ルシアンの子供時代や、何気ない幸せについてだけではなかった。
彼もまた、自分と同じように、一人の人間として理解してほしいと思っているのだ。
王族だから。
第二王子だから。
自分を守ってくれる人だから。
そんな肩書きだけではなく、ルシアン自身を。
そのことが、リヴィアにはうれしかった。
◇
菓子店を出る頃には、空が茜色に染まり始めていた。
二人は大通りを避け、川沿いの遊歩道を歩いていた。
水面に夕陽が反射し、穏やかな光が揺れている。
「今日は、ありがとう」
リヴィアが言った。
「僕の方こそ。君と過ごせて楽しかったよ」
「また、私から誘ってもいいかしら?」
ルシアンは、少し驚いたように彼女を見た。
「もちろん。むしろ、いつでも誘ってほしいくらいだ」
「……では、次はどこへ行こうかしら」
「君が考えてくれるの?」
「ええ。あなたが行きたい場所だけではなくて、私が行きたい場所も、これからは少しずつ紹介したいの」
リヴィアは、楽しそうに微笑んだ。
「私たちが一緒に過ごす時間を、二人で作っていきたいから」
ルシアンは足を止めた。
彼女も立ち止まり、首をかしげる。
「どうしたの?」
「いや……君は、本当に変わったなと思って」
リヴィアの表情が、少しだけ曇った。
「それは、悪い意味ではないわよね?」
「もちろん。いい意味だよ」
ルシアンは、彼女の手を取った。
「以前の君は、自分の望みを伝える前に、相手がどう思うかを考えていたように見えた。でも、今は自分がどうしたいのかを、少しずつ伝えてくれるようになった」
「……そうね」
「僕は、そんな君を見るのがうれしいんだ。君が自分の意思で未来を選ぼうとしていることも、その未来に僕を含めてくれていることも」
リヴィアは、彼の手を握り返した。
「あなたが、私の気持ちを大切にしてくれたからよ」
「そうかな」
「ええ。あなたが何度も待ってくれたから、私も、自分の気持ちを急がずに考えられたの」
彼女は、まっすぐに彼を見つめた。
「だから、これからは私も、あなたの気持ちを大切にしたい。あなたが望むことも、あなたが困っていることも、きちんと知りたいと思っているわ」
ルシアンは、しばらく彼女を見つめていた。
やがて、穏やかな笑顔を浮かべる。
「それなら、これからもたくさん話そう。うれしかったことも、困ったことも、何でもね」
「ええ」
二人は再び歩き始めた。
手は、自然につながれたままだった。
◇
その頃、学院の別の場所では、エヴリンがアルベルトと向かい合っていた。
翌日の休日に二人で出かけるため、最後の予定を確認していたのだ。
「明日は、こちらの庭園を見たあと、近くの工芸品店にも寄ってみようと思っているんだ」
アルベルトが説明すると、エヴリンは目を輝かせた。
「工芸品店ですか?」
「ああ。昔から続いている店で、職人たちが作った品を扱っている。君は、そういうものを見るのが好きだろう?」
「はい! 手作りの品には、それぞれ違った工夫があるので、見ているだけでも楽しいんです」
答えてから、エヴリンは少し照れくさそうに笑った。
「……私の好みを覚えていてくださったんですね」
「もちろん。君が楽しそうに話していたからね」
その一言で、エヴリンの胸が温かくなった。
彼は、自分が何を好きなのかを覚えている。
話したことを、きちんと聞いてくれていたのだ。
「アルベルト様」
「うん?」
「明日は、私からも聞きたいことがあるんです」
「何でも聞いてくれていいよ」
「……あなたが、王族としてではなく、一人の人間として、どんなことをしているときに幸せだと感じるのか。それを聞いてみたいんです」
アルベルトは、少し驚いたように目を見開いた。
「それは、なかなか難しい質問だね」
「すみません。急に聞いてしまって」
「いや。むしろ、僕自身も考えてみたいと思ったよ」
彼は、穏やかに微笑んだ。
「明日は、僕自身の話をしよう。君が聞きたいことを、ゆっくりとね」
「はい。楽しみにしています」
エヴリンは、笑顔でうなずいた。
明日が待ち遠しい。
それは、単に楽しい場所へ行けるからではなかった。
アルベルトという人を、もっと知ることができる。
そして、自分自身の気持ちも、少しずつ確かめていける。
そんな予感があった。
◇
夜。
リヴィアは、机に向かって手帳を開いた。
今日、ルシアンから聞いた話を思い返す。
彼は、気を張らずに話せる相手と過ごす時間を、幸せだと感じていると言っていた。
その言葉が、何度も胸の中によみがえる。
「……私も、同じだわ」
リヴィアは、静かにつぶやいた。
彼と過ごす時間が好きだ。
何かを決めるためだけではなく、ただ一緒にいるために会いたいと思う。
彼の知らない一面を知るたびに、もっと知りたいと思う。
そして、彼にも自分のことを知ってほしい。
そうした気持ちは、もう疑いようがなかった。
彼女は手帳の新しいページに、ゆっくりと書き記した。
――これからも、二人で過ごす時間を作っていく。
その下には、少し迷ったあと、もう一行を加えた。
――そして、いつか自分の答えを、きちんと伝える。
書き終えたリヴィアは、ペンを置いた。
答えを出すことが、もう遠い未来の出来事には思えなかった。
それでも、焦るつもりはない。
自分の気持ちを大切にしながら、彼の気持ちも大切にしたい。
その先にある答えなら、きっと自分自身で選べるはずだ。
リヴィアは手帳を閉じ、窓の外に広がる星空を見上げた。
明日もまた、新しい一日が始まる。
その一日を、彼と一緒に重ねていこう。
いつか、二人の未来を選ぶその日まで。




