あなたの家族に会う日
ルシアンに自分の気持ちを伝えてから、二日が過ぎた。
リヴィアは、朝食を終えて自室に戻ると、机の上に置かれた手帳を開いた。
そこには、これからルシアンと話し合いたいことがいくつも書かれている。
二人で暮らす場所。
結婚後も続けたい学びや活動。
王族の伴侶として担うことになる役割。
そして、その中でも特に気になっていることがあった。
ルシアンの家族と会うこと。
「……やっぱり、緊張するわね」
リヴィアは手帳を閉じ、そっと胸元に抱いた。
これまで、王族の方々と公の場で顔を合わせたことはある。しかし、今回は違う。
ルシアンとは、将来について何度も話し合ってきた。
彼と一緒に生きていきたいという気持ちも、以前よりはっきりしている。
だからこそ、彼が大切にしている家族についても、きちんと知っておきたいと思ったのだ。
ただし、今回の訪問は婚約の正式な発表でも、結婚の返事をするための場でもない。
二人が未来について考えていることを、彼の家族にも知ってもらうための機会だった。
「誰かに気に入られるためだけに、会うわけではないものね」
リヴィアは、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
自分の考えを伝え、相手の考えも聞く。
ルシアンと何度も繰り返してきたことを、今度は彼の家族ともできればいい。
そう考えると、少しだけ気持ちが落ち着いた。
◇
約束の日。
リヴィアは、ルシアンとともにヴァロリア王宮を訪れていた。
王宮へ続く回廊には、磨き上げられた柱が整然と並んでいる。高い窓から差し込む光が、床に柔らかな模様を落としていた。
「緊張している?」
隣を歩くルシアンが尋ねた。
「……少しだけ」
「少しだけ、か」
「何か言いたそうね?」
「いや。君にしては、ずいぶん正直な答えだと思ってね」
「私だって、緊張するときくらいあるわ」
リヴィアが頬を膨らませると、ルシアンは楽しそうに笑った。
「もちろん知っているよ。だから、今日は僕がそばにいる」
何気ない言葉だった。
けれど、リヴィアは、その一言に少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
「ありがとう、ルシアン」
「どういたしまして」
二人は、応接室の前で足を止めた。
扉の向こうには、彼の両親と兄が待っている。
リヴィアは一度だけ深呼吸をした。
「……行きましょう」
「ああ」
ルシアンが扉を開けた。
室内の中央に置かれた長椅子には、国王夫妻が並んで座っていた。
国王オスカー・ヴァルクレストは、落ち着いた銀灰色の髪と、息子たちと同じ澄んだ青い瞳を持つ男性だった。端正な顔立ちには年齢相応の風格があり、濃紺の正装には銀糸で王家の紋章が刺繍されている。
穏やかな表情を浮かべているものの、その眼差しには長年国を治めてきた者らしい鋭さがあった。
隣に座る王妃セレスティア・ヴァルクレストは、淡い金髪を上品にまとめ、青紫色の瞳を優しく細めていた。真珠をあしらった髪飾りと、淡い青を基調としたドレスが、彼女の落ち着いた美しさを引き立てている。
そして、二人の向かい側には、銀色の髪と青い瞳を持つ青年が座っていた。
第一王子レオンハルト・ヴァルクレスト。
ルシアンの兄であり、ヴァロリアの次期国王となる人物だ。
彼は弟たちの父親譲りの整った顔立ちをしていたが、その表情には、どこか人をからかうことを楽しむような余裕があった。
「よく来てくれたね、リヴィア嬢」
最初に声をかけたのは、国王オスカーだった。
「本日はお招きいただき、ありがとうございます」
リヴィアは丁寧に礼をした。
「そんなに堅くならなくても大丈夫ですよ」
王妃セレスティアが、柔らかな声で告げた。
「今日は正式な謁見ではありません。ゆっくりお話ししましょう」
「ありがとうございます、王妃陛下」
「母上の言うとおりだよ」
レオンハルトが、楽しそうに口を挟んだ。
「それにしても、弟が自分から女性を連れてきて、これほど落ち着かない様子をしているのは珍しいね」
「兄上」
ルシアンが、わずかに眉を寄せた。
「何の話でしょうか」
「何の話も何も、君の話だよ」
「僕は普段どおりですが」
「そうかな? さっきからリヴィア嬢の様子ばかり気にしているように見えるけれど」
「彼女が緊張していないか気にかけるのは、当然でしょう」
「なるほど。そういうことにしておこう」
レオンハルトは、意味ありげに笑った。
ルシアンは小さく息を吐いた。
「兄上は、もう少し静かにしていただけませんか」
「おや。せっかく弟の大切な日だから、場を和ませようと思っているのに」
「十分に和んでいますよ。主に兄上のおかげで」
「それはよかった」
「褒めていません」
二人のやり取りを見て、リヴィアは思わず口元を緩めた。
王族同士の会話というより、兄弟の日常の一場面を見ているようだった。
ルシアンも、兄の前ではこんな表情をするのだ。
それを知ることができたのは、リヴィアにとって小さな喜びだった。
「ふふっ……」
思わず笑みがこぼれる。
その声に気づいたルシアンが、彼女を見た。
「リヴィア?」
「ごめんなさい。お二人のやり取りが、とても仲のよい兄弟らしかったから」
「仲がよい、か」
レオンハルトは弟の顔を見てから、満足そうにうなずいた。
「そう言ってもらえるなら、これからも遠慮なくからかえそうだね」
「兄上」
今度は国王が、軽く咳払いをした。
「レオンハルト。そのあたりにしておきなさい」
「承知しました、父上」
そう答えたものの、彼の顔にはまだ笑みが残っていた。
◇
全員が席に着くと、侍女たちによって紅茶と菓子が運ばれてきた。
しばらくは、学院での生活や最近の出来事について、穏やかな会話が続いた。
王妃セレスティアは、リヴィアがどのような勉強に興味を持っているのかを尋ね、国王オスカーは学院での活動について耳を傾けた。
リヴィアは、エヴリンたちが取り組んでいる地域学習教室のことを話した。
「子供たちが、少しずつ自分で文字を読めるようになっているんです。まだ小さな活動ですけれど、実際に役立っているとわかると、続ける意味を感じます」
「素晴らしいことですね」
王妃は、うれしそうにうなずいた。
「人々の暮らしを知り、何が必要なのかを考えることは、どのような立場にあっても大切なことです。あなた自身も、その経験から多くのことを学んでいるのでしょうね」
「はい。私も、最初から正しい方法を知っていたわけではありません。子供たちや協力してくださる方々の話を聞いて、何度も考え直しています」
「それは、とても大切な姿勢だと思いますよ」
セレスティアは、穏やかな笑顔を浮かべた。
「誰かを助けたいと思う気持ちは尊いものです。でも、その気持ちだけで相手に必要なものがわかるとは限りません。相手の声を聞き、必要なら自分の考えも改める。そうした積み重ねが、信頼につながるのだと思います」
リヴィアは、深くうなずいた。
王妃の言葉には、実際に多くの人と関わりながら生きてきた人ならではの重みがあった。
「私も、そう思います。これからも学び続けていきたいです」
「ええ。ぜひ、そうしてください」
その様子を見ていた国王オスカーが、カップを置いた。
「リヴィア嬢。一つ、尋ねてもいいだろうか」
「はい、陛下」
「ルシアンから、君と将来について話し合っていると聞いている。だが、今日ここへ来たのは、君に何かを決めてもらうためではない」
リヴィアは、静かにうなずいた。
「君自身がどのような未来を望んでいるのか、私たちも知っておきたいと思ってね」
室内が静かになった。
ルシアンは、隣に座るリヴィアへ視線を向けた。
けれど、彼女に代わって答えようとはしなかった。
自分の気持ちは、自分で伝える。
それが、二人で何度も話し合ってきたことだった。
リヴィアは膝の上で手を重ねた。
「私は……ルシアン殿下と一緒に生きていく未来を、望んでおります」
口にした瞬間、心臓が大きく跳ねた。
それでも、彼女は視線を落とさなかった。
「まだ、結婚について正式なお返事をしたわけではありません。ただ、彼と過ごす時間を重ねる中で、自分がどのような未来を望んでいるのか、少しずつわかるようになりました」
国王は、真剣な表情で彼女の話を聞いていた。
「私は、彼を支えたいと思っています。でも、それは彼の考えに従うだけの存在になりたいという意味ではありません。私自身も学び続け、自分の考えを持ち、彼と話し合いながら、二人にとってよい答えを探していきたいのです」
リヴィアは、一度だけ息を整えた。
「王族の伴侶となることについて、不安がないわけではありません。私には、まだ知らないことも多くあります。それでも、知らないことを学び、必要なことを考えながら、少しずつ前へ進みたいと思っています」
そして、隣にいるルシアンを見た。
「何よりも……私は、ルシアン殿下と一緒にいるときの自分を、大切にしたいと思っています」
ルシアンの瞳が、わずかに揺れた。
「彼と一緒にいると、私は自分の気持ちを伝えてもいいのだと思えます。迷ったときには、迷っていると話してもいい。間違えたときには、もう一度考え直してもいい。そうした関係を、これからも大切にしていきたいのです」
話し終えたリヴィアは、静かに息を吐いた。
緊張はまだ残っていた。
それでも、自分の言葉で伝えることができた。
それだけで、胸の奥が少し軽くなった。
「……ありがとう、リヴィア嬢」
国王オスカーは、ゆっくりとうなずいた。
「自分の望みを理解し、それを相手に伝えようとすることは、簡単なようで難しいものだ。君が真剣に考えてくれていることを、うれしく思う」
「ありがとうございます」
「結婚は、二人の人生を結びつける大きな決断だ。だからこそ、周囲が急かして答えを出させるべきではない。君自身が納得できる答えを見つけることが大切だろう」
その言葉に、リヴィアは深く頭を下げた。
王妃セレスティアも、温かな眼差しを向けた。
「ルシアンは、昔から自分の考えをしっかり持っている子でした。でも、誰かを大切に思うと、その人の気持ちまで自分のことのように考えてしまうところがあります」
「母上、それは……」
「悪いことだとは言っていませんよ」
セレスティアは、息子に微笑んだ。
「ただ、あなたがリヴィア嬢を大切に思うのと同じように、リヴィア嬢にもあなたを大切に思う気持ちがあるのでしょう。これからは、その気持ちも受け取ってあげてくださいね」
ルシアンは、一瞬だけ言葉に詰まった。
「……はい、母上」
その返事を聞いて、リヴィアはそっと笑った。
彼もまた、自分の気持ちを受け取ることを学んでいるのだ。
いつも自分を支えてくれる彼に、今度は自分も何かを返していきたい。
そんな思いが、改めて胸の中に生まれた。
◇
しばらくして、レオンハルトが口を開いた。
「リヴィア嬢。少し聞いてみたいことがあるんだけれど、いいかな?」
「はい、レオンハルト殿下」
「君は、弟のどんなところを好きになったんだい?」
「兄上!」
ルシアンが即座に声を上げた。
レオンハルトは、何食わぬ顔で紅茶を口に運ぶ。
「なにか問題でも?」
「ここで尋ねる必要はないでしょう」
「家族として、少し興味があるだけだよ」
「少し、ですか」
「そう。ほんの少しね」
国王は額に手を当て、王妃は小さく笑っていた。
リヴィアは、頬が熱くなるのを感じた。
けれど、ここで曖昧に答えるのも違う気がした。
「……そうですね」
彼女は、少しだけ考えてから口を開いた。
「最初から、すべてを知っていたわけではありません。むしろ、最初は彼のことを誤解していた部分もあったと思います」
ルシアンが、静かに彼女を見た。
「でも、彼と話すうちに、私の考えをきちんと聞いてくれることに気づきました。私が自分の気持ちを整理できないときも、すぐに答えを求めず、待っていてくれました」
リヴィアは、少し照れくさそうに笑った。
「それに、時々、意地悪なくらいからかってくることもありますけれど……そういうところも含めて、私は彼と過ごす時間が好きなんです」
一瞬、室内が静まり返った。
それから、レオンハルトが満足そうに笑った。
「なるほど。よくわかったよ」
「兄上、もう十分でしょう」
「そうだね。これ以上聞いたら、弟が本気で怒りそうだから」
「すでに怒っています」
「おや、失礼」
リヴィアは、とうとう声を立てて笑ってしまった。
ルシアンは困ったように彼女を見たが、その表情にもわずかな笑みが浮かんでいた。
家族の前で、こんなふうに笑える。
それは、リヴィアにとって大切な経験だった。
この人たちと、これから少しずつ関係を築いていけたらいい。
そう思えるようになっていた。
◇
王宮を辞する頃には、窓の外が夕暮れに染まっていた。
回廊を歩きながら、ルシアンが尋ねた。
「疲れなかった?」
「少し緊張したけれど、大丈夫よ」
「それならよかった」
リヴィアは、隣を歩く彼を見上げた。
「あなたのご家族は、とても温かい方たちなのね」
「そう思ってもらえたなら、僕もうれしいよ」
「それに、あなたが兄上と話しているとき、少し意外だったわ」
「意外?」
「ええ。普段のあなたとは、少し違う表情をしていたから」
ルシアンは、思い当たることがあるのか、苦笑した。
「兄上は昔からああなんだ。僕が何かを真剣に考えていると、必ずからかってくる」
「ふふっ。でも、仲がよろしいのね」
「……否定はしないよ」
彼は少しだけ照れくさそうに目をそらした。
リヴィアは、そんな彼を見て笑った。
今日、彼女が知ったのは、王族の家族という立場だけではない。
国王オスカーの慎重さ。
王妃セレスティアの温かさ。
レオンハルトの気さくさと、弟をからかうことを楽しむ一面。
そして、彼らがそれぞれ違う形で、ルシアンを大切に思っていることだった。
「ルシアン」
「うん?」
「今日、ここへ来ることができてよかったわ」
彼は、穏やかに微笑んだ。
「僕もそう思うよ。君が自分の言葉で話してくれたことが、うれしかった」
「……少し、勇気が必要だったけれどね」
「知っているよ。だからこそ、君の言葉には意味があるんだ」
リヴィアは、頬を赤くしながら笑った。
王宮の大きな扉を抜けると、夕暮れの風が二人を迎えた。
これから先、話し合わなければならないことは、まだ残っている。
結婚後の生活についても、互いの希望についても、もっと具体的に考えていかなければならないだろう。
それでも、一つずつ進んでいけばいい。
リヴィアは、隣を歩くルシアンの手にそっと触れた。
彼はすぐに気づき、その手を優しく握り返した。
「……ねえ、ルシアン」
「どうしたの?」
「いつか、あなたのご家族と、今日よりもっと自然にお話しできるようになりたいわ」
「きっとなれるよ。兄上は、君と話す機会が増えたら、ますますからかってくるかもしれないけれど」
「それは……少し困るわね」
「僕も同感だ」
二人は顔を見合わせて笑った。
その笑い声は、夕暮れの回廊を抜けて、穏やかな空気の中へと溶けていった。
いつか、結婚の返事をする日が来たなら。
今日のように、自分の意思で、自分の言葉で伝えよう。
誰かに認めてもらうためではなく、自分が望む未来を選ぶために。
リヴィアは、つないだ手をそっと握り返した。
彼の隣で生きていく未来が、少しずつ現実になっていく。
そのことを、今は素直にうれしいと思えた。




