心に決めたこと、まだ伝えられない言葉
リヴィアは、最近、自分の心の変化に気づいていた。
以前は、ルシアンとの結婚について考え始めると、期待よりも先に不安が浮かんでいた。
王族の伴侶として、自分に何ができるのだろう。
彼の隣に立つ資格が、本当に自分にあるのだろうか。
結婚したあと、今までの生活を失ってしまうのではないだろうか。
いくつもの疑問が頭を巡り、考えれば考えるほど、答えから遠ざかっているような気がした。
けれど、今は違う。
不安がなくなったわけではない。それでも、ルシアンと話し合えばいいと思えるようになった。
自分の気持ちを伝え、彼の気持ちを聞き、二人で考える。
それができる相手なのだと、彼が何度も示してくれたからだ。
「……そろそろ、私も覚悟を決めなければいけないわね」
朝の支度を終えたリヴィアは、鏡の中の自分を見つめながらつぶやいた。
答えは、もう心の中にある。
ただ、それを口にする瞬間を想像すると、どうしても胸が落ち着かなくなるのだった。
◇
その日の午後、リヴィアは学院の庭園でルシアンと会う約束をしていた。
彼に会いたいと思ったのは、特別な用事があったからではない。
ただ、顔を見て話がしたかった。
そう思えること自体が、以前の自分とは違っている気がした。
「待たせたかな?」
約束の場所に現れたルシアンは、いつもと変わらない穏やかな笑顔を浮かべていた。
「いいえ。私も、今来たところよ」
「それならよかった」
二人は並んで歩き始めた。
庭園には、午後の柔らかな光が降り注いでいた。花壇の花々は風に揺れ、遠くから学院の生徒たちの笑い声が聞こえてくる。
「今日は、どこかへ行きたい場所でもあるの?」
ルシアンが尋ねた。
「特に決めていないわ。ただ、あなたと話がしたかったの」
「それはうれしいね。僕も、君と過ごす時間を楽しみにしていたよ」
彼の返事に、リヴィアは頬を緩めた。
以前なら、こんな何気ない言葉にも、どう反応すればいいのかわからずに困っていたかもしれない。
今でも恥ずかしさはある。
けれど、その気持ちを隠すことばかり考えなくなった。
「ルシアン。あなたは、私と結婚したあと、どんな生活を送りたいと思っているの?」
歩きながら、リヴィアは尋ねた。
ルシアンは少し考えたあと、答えた。
「そうだな。朝、君と一緒に食事をして、それぞれの仕事に向かう。時間が合えば昼食を一緒に取って、夜には今日あったことを話す。そんな生活ができたらいいと思うよ」
「……思っていたより、普通なのね」
「普通の生活を送るのは、案外難しいものだよ。王族には予定があるし、急な公務が入ることもある。毎日必ず一緒に食事ができるとは限らないだろうね」
彼は苦笑した。
「それでも、忙しさを理由に、君と過ごす時間を当たり前のように後回しにはしたくないんだ」
リヴィアは、彼の横顔を見つめた。
「あなたは、王族としての務めと、自分の望む生活を両立させたいのね」
「そうだね。どちらか一方を選べば済む話ではないから」
ルシアンは足を緩めた。
「もちろん、思いどおりにならないこともあると思う。僕の立場では、君に不便をかけることもあるだろうし、君の希望をすぐにかなえられない場合もあるかもしれない」
「ええ」
「だからこそ、そういうときには君に相談したい。僕が一方的に決めて、君に受け入れてもらうような関係にはしたくないんだ」
リヴィアは、胸の前でそっと手を重ねた。
彼は、結婚を夢のようなものとして語っているわけではない。
困難があることも、互いに譲れないものがあることも、理解したうえで未来を望んでいる。
それが、彼女には何よりも心強かった。
「……私も、あなたとそんな生活を送りたいわ」
気づけば、言葉が自然にこぼれていた。
ルシアンが彼女を見る。
リヴィアは、少し恥ずかしくなりながらも、目をそらさずに続けた。
「毎日、特別なことがなくてもいいの。今日あったことを話したり、一緒にお茶を飲んだり、ときには意見が合わなくて困ったり。そういう時間を、あなたと重ねていきたいと思っているわ」
ルシアンの表情が、ゆっくりと柔らかくなった。
「……君がそう思ってくれていると知ることができて、うれしいよ」
「私も、自分の気持ちをきちんと伝えられてよかったわ」
二人は顔を見合わせて笑った。
その瞬間、リヴィアの中で、また一つ何かがほどけた気がした。
結婚について話すことは、怖いことばかりではない。
自分の望みを伝えるたびに、二人の未来が少しずつ近づいてくる。
それなら、もう少し勇気を出してもいいのかもしれない。
◇
庭園の奥には、小さな東屋があった。
以前、二人で訪れたこともある場所だ。
ルシアンが休憩を提案し、リヴィアもそれにうなずいた。
向かい合って腰を下ろすと、彼は持ってきた小さな包みを取り出した。
「そういえば、これを渡そうと思っていたんだ」
「私に?」
「ああ。大したものではないけれどね」
包みの中に入っていたのは、小さな革表紙の手帳だった。
落ち着いた青色の表紙には、細い銀色の模様が施されている。飾りすぎず、それでいて上品な品だった。
「きれい……」
「君がいろいろなことを書き留めていると聞いたから。今使っているものがいっぱいになったら、使ってくれるとうれしい」
リヴィアは、手帳を両手で包むように持った。
以前、未来について考えていると話したとき、彼は彼女の願いを否定せず、もっと知りたいと言ってくれた。
この手帳も、きっと同じ気持ちから選んでくれたのだろう。
「ありがとう。大切に使うわ」
「気に入ってもらえたならよかった」
リヴィアは、表紙を指先でなぞった。
「ねえ、ルシアン。これに、あなたと一緒にかなえたいことを書いてもいいかしら?」
ルシアンは一瞬、驚いたように目を見開いた。
それから、彼女の言葉を確かめるように、ゆっくりと微笑んだ。
「もちろん。君が望むことなら、何でも書いてくれていいよ」
「では、たくさん書いてしまうかもしれないわ」
「それは楽しみだね。僕も、かなえたいことを考えておこう」
リヴィアは笑った。
手帳の中には、まだ何も書かれていない。
けれど、これから記されていく言葉を想像すると、心が弾んだ。
行ってみたい場所。
一緒に学びたいこと。
二人で過ごしたい休日。
いつか実現したい、小さな願い。
そして、その先には、まだ言葉にできていない大きな答えもある。
リヴィアは、手帳を胸元に抱きしめた。
「……私、あなたと一緒にかなえたいことが、たくさんあるの」
「うん」
「だから、これからも、私の話を聞いてくれる?」
「何度でも聞くよ」
ルシアンは、迷いなく答えた。
「君の望みを知ることは、僕にとっても大切なことだからね」
リヴィアは、彼の手にそっと自分の手を重ねた。
言葉にできないほどの温かさが、胸の奥に広がっていく。
今、この瞬間にも、二人は未来を作っている。
特別な儀式も、正式な約束も必要ない。
互いの気持ちを知り、それを大切にしようとすること。
その積み重ねが、いつか二人を新しい人生へと導いてくれるのだろう。
◇
その日の夕方、エヴリンは学院の図書室で、アルベルトから借りた資料を返していた。
「ありがとうございました。とても参考になりました」
「役に立ったならよかった」
アルベルトは本を受け取りながら、彼女の表情を見た。
「何か、いいことがあったのかな?」
「えっ? どうしてですか?」
「今日は、いつもより楽しそうに見えるから」
エヴリンは、思わず頬を押さえた。
「そ、そんなに顔に出ていますか?」
「少しね」
アルベルトが笑う。
エヴリンは困ったように視線を落とした。
今週の休日、二人で出かける約束をしている。
活動の話をするのも楽しみだが、それだけではない。
彼が好きなものや、これまでどんなことを考えて生きてきたのか。もっと知りたいと思っていた。
「……今度のお出かけが、楽しみなんです」
エヴリンが正直に答えると、アルベルトは少し驚いたあと、うれしそうに微笑んだ。
「僕も楽しみにしているよ」
「本当ですか?」
「もちろん。君と二人で過ごす時間を、僕も大切にしたいと思っているから」
エヴリンの頬が赤く染まった。
アルベルトは、彼女を急かすようなことは言わなかった。
ただ、次の休日にどこへ行くか、何を見たいかを、ゆっくりと相談してくれた。
その姿勢が、エヴリンにはうれしかった。
自分の気持ちを、すぐに答えにしなくてもいい。
けれど、彼と過ごしたいと思う自分の心まで、隠す必要はないのだ。
「アルベルト様」
「うん?」
「私、あなたとお話ししていると、もっといろいろなことを知りたくなるんです」
エヴリンは、少し照れながら言った。
「あなたが何を大切にしているのか、どんなときにうれしくなるのか……そういうことを、もっと知りたいと思います」
アルベルトは、彼女を見つめた。
その瞳に、いつもの落ち着いた色とは違う、柔らかな喜びが浮かんでいた。
「それなら、少しずつ話していこう。僕も、君のことをもっと知りたいから」
「……はい」
エヴリンは、小さくうなずいた。
彼女の未来もまた、少しずつ形になり始めている。
子供たちのために続けたい活動。
自分自身が学びたいこと。
そして、これからも隣で笑い合いたいと思う人。
まだ、すべての答えが出たわけではない。
それでも、心の中に生まれた願いを大切にしながら、前へ進んでいこうと思えた。
◇
夜。
リヴィアは、贈られた手帳を机の上に開いた。
最初のページには、何を書こうかと考えていた。
長い文章でもいい。
いくつもの願いを並べてもいい。
けれど、彼女はしばらく考えたあと、たった一行だけを書いた。
――ルシアンと、これからも一緒に歩いていきたい。
書き終えたリヴィアは、ペンを置いた。
その言葉を見つめていると、不思議と胸が落ち着いた。
それは、もう何度も心の中で繰り返してきた願いだった。
けれど、自分の手で書き記したことで、その気持ちは以前よりも確かなものになった気がした。
「……次に会ったときには」
リヴィアは、手帳をそっと閉じた。
次に会ったときには、もう少しだけ踏み込んだ話をしよう。
結婚について、まだ聞いておきたいことがある。
けれど、それ以上に、伝えたいことがあるのだ。
自分がどんな未来を望んでいるのか。
そして、その未来に彼がいてほしいと願っていることを。
窓の外には、静かな夜空が広がっていた。
リヴィアは胸元に手を当て、ゆっくりと息を吐いた。
答えを出すことが怖くなくなったわけではない。
それでも、もう、答えを出すことから逃げたくはなかった。
自分の心と向き合い、彼の心と向き合い、その先にある未来を選びたい。
その決意は、まだ誰にも伝えていない。
けれど、リヴィアの中では、確かに一つの答えへと近づいていた。




