未来の約束は、今日から始まる
ルシアンと未来について話し合った翌朝、リヴィアはいつもより早く目を覚ました。
窓の向こうには、澄み渡った青空が広がっている。
身支度を整え、机の上に置いた手帳を開く。そこには、ここ数日で考えたことが、短い言葉で書き留められていた。
学び続けたいこと。
自分の意思で選びたいこと。
大切な人たちと過ごす時間。
そして、ルシアンと築きたい未来。
書き出してみると、自分が望んでいることは、思っていたよりも多かった。
「……こんなにあったのね」
リヴィアは苦笑した。
以前の自分なら、これほど多くの願いを抱くことに、ためらいを覚えただろう。
誰かの期待に応えなければならない。
与えられた立場にふさわしくなければならない。
自分の望みは、そのあとで考えればいい。
そんなふうに、自分の気持ちを後回しにしていた。
けれど、今は違う。
願いが多いからといって、すべてを諦める必要はない。すぐに実現できないものがあったとしても、どうすれば近づけるのかを考えることはできる。
そして、ルシアンとなら、その方法を一緒に探せる気がした。
リヴィアは手帳を閉じた。
今日も、やるべきことがある。
学院での勉強も、友人たちとの時間も、未来について考えることも。
その一つ一つを大切にしていこう。
そう決めて、彼女は部屋を出た。
◇
昼休み。
学院の中庭では、エヴリンが数人の生徒と話し合っていた。
地域学習教室の活動は、少しずつ軌道に乗り始めている。
ただし、順調なことばかりではない。
協力してくれる生徒の予定が合わない日もあれば、子供たちの希望に合わせて教材を変更する必要もある。準備にかかる時間も、最初に想定していたより多かった。
それでも、活動を続けたいと思う気持ちは変わらなかった。
「この課題なら、準備する側の負担も少なくて済むと思います」
エヴリンは、手元の資料を示した。
「基本の読み書きと計算は共通にして、最後に子供たちが選べる課題を用意するんです。買い物の練習をしたい子には品物の絵札を、文字を覚えたい子には短い言葉のカードを使います」
「なるほど。これなら、同じ時間でも、それぞれが違うことに挑戦できるわね」
協力する生徒の一人がうなずいた。
「ただ、子供たちが自由に選ぶなら、教材の使い方を説明する必要もあるんじゃない?」
「はい。最初に簡単な説明をして、難しそうな子には私たちが手伝います。でも、できるだけ自分で考える時間も残したいんです」
エヴリンは、相手の意見を聞きながら、資料の余白に書き込みを加えた。
以前なら、指摘を受けるたびに、自分の考えが間違っていたのではないかと不安になっていた。
今も、迷いがなくなったわけではない。
それでも、意見をもらうことは、自分の計画を否定されることではないのだと理解できるようになっていた。
むしろ、自分一人では気づけなかった問題を見つけられる。
「ありがとう。説明の仕方も考えてみますね」
エヴリンがそう答えると、生徒たちは笑顔で協力を約束してくれた。
話し合いが終わり、彼女が資料をまとめていると、背後から声がした。
「ずいぶん頼もしくなったね」
「アルベルト様?」
振り返ると、アルベルトが立っていた。
「いつからいらしたんですか?」
「最後の方からだよ。君が皆の意見を聞きながら、計画を調整しているところを見ていた」
「……そんなに見られていたなんて、少し恥ずかしいです」
「どうして? とてもいい話し合いだったと思うよ」
アルベルトは、エヴリンの手元にある資料を見た。
「以前の君なら、自分の考えを説明することに、もっと緊張していたんじゃないかな」
「そうですね。今でも緊張はします。でも、わからないことをわからないと言ってもいいし、誰かの意見を聞いて考え直してもいいんだと、少しずつ思えるようになりました」
「それは大切なことだね」
アルベルトは穏やかにうなずいた。
「自分の考えを持つことと、考えを変えないことは違う。君は、その両方をきちんと理解し始めているんだと思う」
エヴリンは、胸の奥が温かくなるのを感じた。
彼に褒められるとうれしい。
けれど、最近は、ただ認められたいという気持ちだけではなかった。
自分が大切にしているものを、彼も大切に考えてくれる。
そのことが、何よりもうれしかった。
「アルベルト様。以前、今度はあなたのお話を聞かせてくださると約束してくださいましたよね?」
「ああ。覚えているよ」
「その約束、いつにしましょうか?」
言ってから、エヴリンは自分の頬が熱くなるのを感じた。
活動の相談ではない。
ただ、彼と二人で過ごす時間がほしいと思ったのだ。
アルベルトは一瞬だけ目を丸くしたあと、柔らかく微笑んだ。
「今週の休日はどうかな。仕事の予定も調整できそうなんだ」
「はい。私も大丈夫です」
「では、決まりだね」
約束が決まっただけなのに、エヴリンの心は弾んでいた。
その様子を見たアルベルトも、何かを言いかけて、結局は静かに笑った。
二人の間には、まだ名前のついていない感情がある。
けれど、それを無理に言葉にしなくても、少しずつ確かになっていくものがあった。
◇
午後の授業が終わると、リヴィアは学院の回廊でルシアンを見つけた。
彼は王宮へ戻る前らしく、護衛の騎士と短く話をしていた。
リヴィアに気づくと、会話を終えて彼女の方へ歩いてくる。
「リヴィア。授業は終わったの?」
「ええ。あなたは、これから王宮へ戻るの?」
「ああ。でも、少しなら時間があるよ」
リヴィアは、手帳を抱え直した。
昨日、二人で話し合ったことを思い出す。
自分の願いを伝えること。
彼の望みを聞くこと。
そして、未来のために必要なことを、一つずつ始めること。
「それなら、少しだけ一緒に歩いてもいいかしら?」
「もちろん」
二人は回廊を抜け、中庭へ向かった。
風に揺れる木々の葉が、柔らかな音を立てている。
「今日は、何かあった?」
ルシアンが尋ねた。
「特別なことはないわ。ただ、あなたと話したいと思ったの」
「それは光栄だね」
「……そういう言い方をされると、少し恥ずかしいわ」
「本当のことだからね」
リヴィアは頬を赤くしながらも、笑みを浮かべた。
しばらく歩いてから、彼女は口を開いた。
「私、これからも勉強を続けたいと思っているの」
「うん」
「王族の伴侶になったとしても、知らないことを学ぶのをやめたくないわ。歴史や政治だけではなくて、街の人たちの暮らしや、教育のことも知りたい。自分にできることがあるなら、少しずつでも関わっていきたいの」
ルシアンは、真剣な表情で彼女の話を聞いていた。
「もちろん、あなたの務めを理解することも大切だと思っているわ。でも、あなたの隣にいるために、自分が何も考えない人になりたいわけではないの」
最後の言葉には、少しだけ勇気が必要だった。
彼の隣に立つことを望むからこそ、自分の意思も大切にしたい。
それを、はっきり伝えたかった。
ルシアンは足を止めた。
「リヴィア。僕は、君にそうなってほしいと思っているよ」
「……本当に?」
「もちろん。僕の隣にいるからといって、君が君でなくなる必要はないんだ。君が学んだことや、君自身の考えは、きっと僕にも新しい視点を与えてくれる」
彼は、少しだけいたずらっぽく笑った。
「それに、君が僕の知らないことを知っていたら、僕も勉強しなければならなくなるね」
「ふふっ。では、私もあなたに負けないように頑張らないといけないわね」
「そうしてくれるとうれしいよ」
二人は再び歩き始めた。
リヴィアは、胸の中に小さな達成感を覚えていた。
自分の望みを伝えられた。
それを受け止めてもらえた。
未来のすべてが決まったわけではないけれど、今日という一日にも、確かな意味があった。
「……ルシアン」
「うん?」
「あなたも、私に遠慮しないで、自分の望みを伝えてね」
彼は、少し意外そうな顔をした。
「僕の望み?」
「ええ。私が何かを望むように、あなたにも望むことがあるでしょう? 私があなたの気持ちを大切にしたいと思っていることも、忘れないでほしいの」
ルシアンは、しばらく黙っていた。
やがて、彼は彼女の手を取った。
「それなら、一つだけお願いしてもいいかな」
「何かしら?」
「これからも、こうして二人で歩く時間を作ってほしい」
あまりにも素朴な願いに、リヴィアは瞬きをした。
「……それだけ?」
「それだけ、とはひどいな。僕にとっては大切なことなんだけど」
「ご、ごめんなさい。そういう意味ではなくて……」
慌てるリヴィアを見て、ルシアンは笑った。
「わかっているよ。僕は、君と過ごす時間をもっと増やしたいんだ。大きな行事や特別な場所だけじゃなくて、今日みたいに、少し話をして、隣を歩くような時間をね」
リヴィアは、彼の手を握り返した。
「……私も、そうしたいわ」
その返事を聞くと、ルシアンは満足そうに微笑んだ。
「では、約束だね」
「ええ。約束よ」
それは、婚約でも結婚の返事でもない。
けれど、二人にとっては大切な約束だった。
未来について考えるだけではなく、今日を一緒に過ごすこと。
いつか訪れる幸せを待つだけではなく、今ある時間を大切にすること。
その積み重ねが、二人の未来を形作っていくのだろう。
◇
夕方、リヴィアは自室へ戻ると、机の上に手帳を開いた。
そして、新しいページに一行を書き加えた。
――未来のために、今日を大切にする。
その下に、もう一つ言葉を添える。
――一人で答えを探さなくてもいい。
書き終えたリヴィアは、ペンを置いた。
窓の外では、夕陽がゆっくりと沈み始めている。
結婚について考えれば、まだ確認したいことはある。
王族の伴侶としての役割も、これからの生活も、すべてが明確になったわけではない。
それでも、今の彼女には、以前よりも確かなものがあった。
ルシアンと一緒に生きていきたい。
彼の願いも、自分の願いも、大切にしたい。
その気持ちは、もう曖昧な憧れではなかった。
リヴィアは手帳を閉じ、胸元にそっと抱いた。
答えを出す日が近づいていることを、彼女自身も感じ始めていた。
焦る必要はない。
けれど、いつまでも心の中だけに留めておく必要もないのだ。
いつか、自分の口で伝えよう。
誰かに促されたからではなく、自分自身がそうしたいと思った、その瞬間に。
そして、その答えを伝えたあとも、二人の歩みは続いていく。
今日交わした小さな約束のように。
これから先も、何度でも。




