言葉にする勇気、受け止める覚悟
王都の学習施設を訪れた日から、リヴィアの中では一つの考えが少しずつ形になり始めていた。
ルシアンと一緒に過ごす未来を考えることは、もう以前ほど怖くない。
けれど、彼と結婚したいと思うことと、実際にその答えを口にすることの間には、まだ小さな距離があった。
その距離を埋めるために、何が必要なのだろう。
自室の机に向かいながら、リヴィアは考えていた。
王族の伴侶として求められる役割。自分が続けたい学び。友人たちと過ごす時間。知らない場所を訪れ、新しいことを知る喜び。
そして、ルシアンと二人で過ごす、何でもない日々。
考えれば考えるほど、未来にはさまざまな可能性があるのだとわかる。
だからこそ、すべてを一人で決めようとする必要はない。
「……まずは、きちんと聞いてみようかしら」
リヴィアはペンを置いた。
自分の望みを伝えるだけでなく、ルシアンがどんな未来を思い描いているのかも知りたい。
彼はいつも自分の気持ちを尊重してくれる。けれど、だからといって、彼自身の願いを後回しにしてほしいわけではなかった。
二人で歩む未来なら、二人の望みがそこになければ意味がない。
リヴィアは便箋を取り出し、短い手紙を書いた。
今度、ゆっくり話がしたい。
そう伝えるだけの手紙だったが、封をする頃には、胸の奥に小さな決意が生まれていた。
◇
翌日の午後。
リヴィアは、学院から少し離れた王立図書館の別館でルシアンと待ち合わせていた。
別館の窓からは、手入れの行き届いた庭園が見える。訪れる人も少なく、落ち着いて話をするにはちょうどよい場所だった。
「手紙をもらったときは、少し驚いたよ」
先に到着していたルシアンが、向かいの席を勧めながら言った。
「何か心配事でもあるのかと思ってね」
「心配事というより……聞きたいことがあったの」
「僕に答えられることなら、何でも聞いて」
その言葉に、リヴィアは一度だけ深呼吸した。
「ルシアンは、私とどんな未来を送りたいと思っているの?」
彼は、すぐには答えなかった。
意外な質問だったのかもしれない。
リヴィアは慌てて言葉を付け加えた。
「もちろん、今までにも話してくれたでしょう? 一緒に未来を築きたいって。でも、もう少し具体的に聞いてみたいの」
「なるほど」
ルシアンは腕を組み、窓の外へ視線を向けた。
「そうだな……」
いつもなら、彼はもっと早く答えを返してくる。
それなのに、今は言葉を慎重に選んでいるようだった。
「僕は、君と過ごす時間を大切にしたい。王族としての務めがある以上、自由にできる時間ばかりではないけれど、だからこそ、二人で過ごせる時間を当然のものだと思いたくないんだ」
リヴィアは、静かにうなずいた。
「それから、君が何かを学びたいと思ったときには、その気持ちを応援したい。僕の知らないことを君が知っていて、君の知らないことを僕が知っている。そうやって、お互いに新しいものを見つけられる関係でいたい」
彼は少しだけ笑った。
「もちろん、意見が食い違うこともあるだろうね。僕は自分の考えに自信を持つことが多いし、君だって、納得できないことには簡単に頷かないだろう?」
「……それは、否定できないわね」
「だろう?」
ルシアンは楽しそうに目を細めた。
「でも、意見が違うこと自体を恐れたくないんだ。君が僕に反対したからといって、君の気持ちが離れたとは思わない。むしろ、遠慮せずに話してくれる方がうれしいよ」
リヴィアは、彼の言葉を胸の中でゆっくりと受け止めた。
王族の伴侶になることを考えたとき、彼女はいつしか、ルシアンを支えられる自分にならなければならないと思っていた。
彼が困らないように。
彼の立場を損なわないように。
彼の期待に応えられるように。
けれど、彼が望んでいるのは、何でも受け入れる相手ではないのだ。
「……私も、同じことを考えていたわ」
「同じこと?」
「あなたに合わせるだけではなくて、自分の考えも伝えたいと思っていたの。あなたが望む未来を知りたいし、私が望む未来も知ってほしい。意見が違ったときには、どちらかが我慢するのではなく、二人で考えたいわ」
言葉にしてみると、それは思っていたよりも自然な願いだった。
「それに……」
リヴィアは、少しだけ頬を赤くした。
「あなたと、何でもない話をする時間も大切にしたいの」
ルシアンが瞬きをした。
「何でもない話?」
「ええ。公務や将来のことばかりではなくて、今日のお茶がおいしかったとか、街で見かけたお店が気になったとか、そういう話よ」
「それは、僕も望んでいることだよ」
彼の声は、いつもより柔らかかった。
「君と一緒にいると、つい将来のことまで考えてしまうけれど……ただ隣に座って、お茶を飲むだけの日があってもいい。何かを決めなくても、何かを成し遂げなくても、君と過ごす時間を楽しめる。そういう関係でいたいね」
リヴィアは、思わず笑みをこぼした。
「よかった。私だけがそう思っていたわけではないのね」
「君が僕とお茶を飲む時間を望んでくれるなら、僕は喜んで付き合うよ。何杯でもね」
「何杯でも、というのは少し大げさだと思うわ」
「では、君が満足するまで」
「ふふっ……」
緊張していた胸の内が、少しずつほどけていく。
リヴィアは、机の上で両手を重ねた。
「ルシアン。私、あなたと結婚することを、以前よりも前向きに考えられるようになったわ」
今度は、ルシアンもすぐには笑わなかった。
彼女の言葉を、真剣に受け止めている。
「でも、まだ返事をするには、少しだけ時間がほしいの」
「わかっているよ」
ルシアンは穏やかにうなずいた。
「君が自分の気持ちを確かめていることを、僕はうれしく思っている。だから、焦らなくていい」
「……ありがとう」
「ただ、一つだけ聞いてもいいかな?」
「何かしら?」
「君は、僕と結婚したら、後悔すると思う?」
その問いに、リヴィアは目を見開いた。
思いもよらなかった質問だった。
けれど、ルシアンは冗談を言っているわけではない。
「僕は、君に後悔してほしくない。けれど、どんなに考えても、未来のすべてを予測することはできないだろう。結婚したあとで、思っていた生活と違うと感じることもあるかもしれない」
彼は、静かに続けた。
「それでも、君が僕と一緒に生きることを選んでくれるなら、そうした違いから目をそらさずにいたい。君が後悔しそうになったときも、何がつらいのかを聞いて、一緒に考えたいんだ」
リヴィアは、すぐに答えられなかった。
結婚を選ぶということは、後悔しないと保証することではない。
未来に何が起こるかを、完全に知ることなどできないのだから。
それでも、問題が起きたときに、隣にいる人と向き合えるかどうか。
そのことの方が、ずっと大切なのかもしれない。
「……私は」
リヴィアは、彼を見つめた。
「あなたと結婚したら、きっと困ることもあると思うわ。考えが合わないことも、思うように時間を過ごせないこともあるでしょうね」
「ああ」
「でも、あなたは、そういうときにも私の話を聞いてくれるのでしょう?」
「もちろん」
「それなら……」
彼女は、そっと微笑んだ。
「私は、あなたと一緒に、その答えを探していきたいわ」
ルシアンの瞳が、わずかに揺れた。
彼は何かを言いかけて、けれど、最後には静かに息を吐いた。
「……ありがとう、リヴィア」
その声には、いつもの余裕とは違う、素直な喜びがにじんでいた。
彼は机の上に手を置いた。
リヴィアは少し迷ったあと、自分の手をその隣に重ねた。
指先が触れる。
ルシアンがそっと彼女の手を取った。
「君が僕の隣にいてくれる未来を、今まで何度も想像してきたよ」
「……そうなの?」
「ああ。でも、今はただ想像するだけではなくて、君と一緒に、その未来を作っていける気がする」
リヴィアは、握られた手を見つめた。
まだ、結婚の返事をしたわけではない。
それでも、心の中にあった距離は、確実に縮まっていた。
◇
その頃、エヴリンは学院の談話室で、アルベルトと向かい合っていた。
机の上には、地域学習教室の活動記録と、今後の運営についてまとめた資料が置かれている。
「次回からは、子供たちが自分で選べる課題を増やしたいと思っています」
エヴリンは資料を示しながら説明した。
「読み書きの練習をしたい子もいれば、買い物で使う計算を覚えたい子もいます。それぞれの希望に合わせられるように、基本の課題と選択できる課題を分けてみました」
「よく考えられているね」
アルベルトは資料に目を通した。
「ただ、課題を増やすと、準備する側の負担も増える。最初から種類を増やしすぎない方がいいかもしれない」
「はい。先生方にも相談して、まずは二種類ずつ試してみようと思っています。実際に使ってみて、必要なら見直します」
「それなら、無理なく進められそうだ」
彼は資料を閉じた。
以前なら、アルベルトは計画の完成度や効率を重視して、実施前にできるだけ問題を取り除こうとしていただろう。
けれど、エヴリンと活動を進めるうちに、すべてを予測してから動くことはできないのだと知った。
大切なのは、問題が起きない計画を作ることだけではない。
実際に起きた問題を受け止め、必要に応じて変えていけることなのだ。
「エヴリン」
「はい?」
「君は、この活動をこれからも続けたいと思っている?」
突然の質問に、彼女は少し驚いた。
「はい。もちろんです。まだ、できることはたくさんありますから」
「もし、今後この活動が学院の外にも広がったら?」
「……学院の外、ですか?」
「今は学院の協力を得ているけれど、将来的には、地域の人々や別の教育施設とも連携する必要が出てくるかもしれない。そうなれば、君が担う役割も変わるだろう」
エヴリンは、しばらく考えた。
以前なら、自分にそんな大きな役割が務まるだろうかと、真っ先に不安になっていたかもしれない。
けれど、今は違った。
「すぐにできるとは言えません。でも……必要なことを学びながら、挑戦してみたいです」
彼女は、まっすぐにアルベルトを見た。
「私が一人で決めるのではなく、子供たちや先生方、協力してくださる人たちの意見を聞きながら、できる方法を探したいと思います」
アルベルトは、うれしそうに目を細めた。
「君なら、そう答えると思っていたよ」
「もう。最初からわかっていたのですか?」
「いや。君がどんな答えを出すのか、聞いてみたかったんだ」
彼は少しだけ姿勢を正した。
「僕は、君が何かに取り組むときの姿勢を尊敬している。だからこそ、これからも君の考えを聞きたいと思っているんだ」
エヴリンの頬が赤くなった。
以前から、アルベルトに認められるとうれしかった。
けれど、最近はそれだけではない。
彼が自分の考えを聞きたいと言ってくれること。自分の意見を、王族だからという理由ではなく、一人の人間の考えとして受け止めてくれること。
その一つ一つが、エヴリンにとって大切なものになっていた。
「……アルベルト様」
「うん?」
「私も、あなたのお話をもっと聞きたいです。お仕事のことだけではなくて……あなたが、これからどんなことをしたいと思っているのか」
アルベルトは、少し意外そうに彼女を見た。
それから、柔らかく笑った。
「それなら、今度は僕の話をする時間を作ろう。君が聞きたいことを、何でも聞いてくれていい」
「本当ですか?」
「ああ。もちろん、答えられないこともあるけれどね」
「それは、仕方ありませんね」
エヴリンが笑うと、アルベルトも笑った。
資料の確認は、まだ終わっていない。
それでも二人は、しばらく仕事から離れて、次の休日にどこへ行くかを話し合った。
エヴリンは、彼の好きな場所を知りたかった。
アルベルトもまた、彼女がどんなものを見て、何に心を動かされるのかを知りたかった。
それは、仕事のためだけの約束ではない。
互いを一人の人間として知り、少しずつ心を近づけていくための時間だった。
◇
夕暮れが近づいた頃。
別館を出たリヴィアとルシアンは、並んで庭園を歩いていた。
木々の間から差し込む光が、石畳の上に長い影を落としている。
「今日は、ありがとう」
リヴィアが言った。
「こちらこそ。君と話せてよかったよ」
ルシアンは、彼女の歩調に合わせて歩いていた。
リヴィアは、彼の横顔を見つめた。
この人と一緒に生きていく。
その未来を考えることは、もう漠然とした夢ではなくなりつつあった。
不安が消えたわけではない。
けれど、不安があるからといって、望む未来を諦める必要もないのだ。
「ルシアン」
「うん?」
「私、あなたと一緒にいる未来を、もっと大切に考えたいと思っているわ」
彼は、足を止めた。
リヴィアも立ち止まり、彼を見上げる。
「まだ、答えを伝えるには少しだけ時間がほしい。でも、その時間を使って、あなたから離れる理由を探しているわけではないの」
彼女は、緊張で指先を握りしめた。
「あなたと一緒に生きるために、何が必要なのかを知りたいのよ」
ルシアンは、しばらく彼女を見つめていた。
やがて、彼はそっと手を差し出した。
「それなら、僕も一緒に考えさせてほしい」
リヴィアは、その手を取った。
「ええ。これからも、よろしくね」
「ああ。こちらこそ」
二人は再び歩き始めた。
夕暮れの庭園を抜けていく二人の足取りは、穏やかだった。
答えを出す日は、まだ来ていない。
それでも、リヴィアの心には、以前にはなかった確かな思いが育っていた。
未来を選ぶことは、何もかもを一人で背負うことではない。
自分の願いを伝え、相手の願いを聞き、時には立ち止まりながら、それでも一緒に歩いていくこと。
その先にある答えを、彼女はもう、恐れるだけではなかった。




